『神聖喜劇』3巻


 「百姓」はもともと専業的な農民のことではない……というのは網野善彦の本で紹介されている有名な議論である。

百姓は決して農民と同じ意味ではなく、農業以外の生業を主として営む人々――非農業民を非常に数多くふくんでいる(網野『続・日本の歴史をよみなおす』筑摩書房

儲かる農業論 エネルギー兼業農家のすすめ (集英社新書) 今回、金子勝・武本俊彦『儲かる農業論』(光文社新書)を読んでいて冒頭にその話が出てきた。
 金子・武本らは農家と言えば専業農家だけが農家本体であるかのような扱いをされて、その規模拡大のみがTPP対抗の切り札かのように言われている現実に違和感を表明し、このような農家把握の歴史的根源を語っているのである。


 知っている人にはすでに聞きあきた議論であるが、少し紹介しておく。
 「百姓」というのは文字通りたくさんの姓を持った一般の人々のことを指す言葉であった。「雑多ないろんな姓を持った下々のやつら」的なニュアンスだろう。本来「農民」という意味さえ含まれていなかった。
 これが「農民」を意味するようになったのは、むかしは農業の生産物が公租公課の中心であったために「農は国の本」的な考えが国家側に強くあり、正しい人民=百姓は農民であるべきだという思いが強かった、という事情によるものだ。
 明治政府も地租を税金の太い柱としていたので、この考えをひきついだ。

明治政府は、壬申戸籍において、四民平等の観点から百姓・町人という身分用語を廃止して、百姓を「農」、町人を「工」「商」に区分して、実際には全くの虚像である「士農工商」の職業区分が創出されたといわれています。その結果、「農」に分類される人々の割合は地域によってばらつきがありますが、おおむね80〜90%を占めていましたから、自動的に、その当時の日本は、農民が有業人口の約八割を占める農業国家であるといった位置づけがなされたことにあります。(金子・武本前掲書)


 ここには、国家による強引な職業区分、しかも農業への区分という力が働いていたことが示されている。
 しかも、農民とおぼしき人であっても、農業以外の稼ぎ(手間賃仕事など)でも暮らしており、金子・武本は網野の議論を紹介して、狭義の農業の比重は江戸時代で40%ほどでしかなかったとしている。

たとえば、江戸時代の事例として、ごくわずかな農地を持っているだけで一年のほとんどを廻船交易に従事していた人が、たまに帰ってきた時に農業をやっていた場合、主たる生業は廻船の仕事であって、農業は廻船の仕事の合間を縫って行う副業であったことは明らかです。にもかかわらず、この人は、廻船の仕事は「農業」の副業として「農間稼ぎ」「作間稼ぎ」と記録されることになります。(前掲書)


神聖喜劇 (第3巻) ぼくはいま、第二次世界大戦の初期に対馬の連隊に入営した青年主人公を描いた、大西巨人神聖喜劇』を引き続き再読している(小説版・マンガ版ともに)。これはもう本当に面白くて仕方がなくて、Kindle版でもそろえ始めてしまったうえに、風呂に入る時はたいがいマンガか小説をその「おとも」に連れていくほどなのだ。
 同作品の中盤で、主人公・東堂と同じ班にいる同僚兵士・橋本が、自分の職業を上官・上級者にただされて、「農業」であるとはっきり言わないくだりが出てくる。

村上(少尉)「橋本は農業だな」
橋本「はい…いんえ…そん、去年 違う、ありゃ一昨年じゃったか………あんときゃ始めは叔父しゃんが足に怪我ばして…」
神山(上等兵「何をごたごたしゃべっとるかお前は 百一〔嘘つきのこと。百回に一回しか本当のことを言わないようなこと――引用者注〕は止めろ 村上教官殿は地方でのお前の仕事は農業か――百姓か、とおたずねなされておられるのだ!! うぅ、その、なんだ 農業なら“農業であります”とお答えしさえすればそれだけいいんだよ な、橋本」
橋本「はい それじゃけん橋本は あん… 百姓もするとはしょったとでありますが、そんほかにも土方やらなんやら〔中略――引用者〕橋本二等兵は…あん 身上調査の時にゃ大前田軍曹殿も神山上等兵殿も“要らん事を言うな 簡単に言え”とばっかり言うとられまして そん…… 入隊前の仕事を聞かれました時にも…」
神山「余計な事は言わなくていいんだよ… 簡単……うぅん手短にお答えせよ」
村上「神山上等兵 その兵にしばらくそのまま言わせてみよ 橋本 言いたかった事を言ってよいぞ」
大西巨人・のぞゑのぶひさ・岩田和博『神聖喜劇』マンガ版、幻冬舎

 橋本は学歴が低く、受け答えがうまくできない。しかし、それは必ずしも愚鈍という意味ではない。お前の職業は農業だ、という不合理な上官・上級者の決めつけに納得できずに、抗おうとするラジカルな姿勢がこのような形で現れているのだ。
 なぜ橋本が自分の職業を「農業」だと言わないかといえば、農業以外の生業をたくさん持っているからだ。そのことを迅速に、要領よく伝えることができずにいるだけなのである。それを察した、古年兵の村崎が橋本の言いたいことを代弁する。

橋本はだいたいは百姓〔農業のこと――引用者注〕しとりましたが それだけじゃ立ち行く事がむつかしゅうありましたから 農閑期なんかにゃ、ほかにいろいろ土方やなんやら臨時の仕事もしとった 


しかし身上調査の場合にゃその臨時の稼ぎをいちいち事細かに説明する暇がなかっただけで、嘘を吐いたとじゃないと申しとるでありまっしょう……

 
今日午前中その事でちっとばかりややこしい食い違いが起こりましたもんでその事訳を、橋本は、百一でも千三つでもない糞真面目の場所も相手も構わじにここで教官殿にくわしゅうお話しせにゃなんごと思うとるとにちがいありまっせん…

そういう訳で地方での橋本の本業はたしかに農業のはずであります
(大西・のぞゑ・岩田前掲書)

 ぼくはこのやりとりを、まるで筒井康隆の小説「心臓に悪い」にあるような、間の悪い、イライラする、しかしどことなくユーモラスなやりとりとして読んだ。また、上官・上級者に対して「糞真面目」に本当のことを言おうとする橋本のキャラクターを表そうとするエピソードなのだと読んでいた。
 それはそれで間違いはなかろうが、金子・武本の本を読んで網野の「百姓≠農民」説を思い出し、上官・上級者が国家を代表して橋本を「農民」というカテゴライズに納めさせようとしている意図も描かれているのではないかと思うようになった。

 たとえば、その後には、対馬には売春婦が一人しかおらず、その女性は農業と兼業しているのではないかという噂話が出てくる。東堂の所属する班の班長である大前田軍曹は次のように吐き捨てる。

“ショウバイヲンナ”のすべたが そこの樽田に一人だけおるそうな のう? 神山
なんぼ男護ノ島で精進続きの明け暮れじゃったちゃ、よっぽど物好きの如何物食いででもなかりゃな そげな片手間にゃ百姓仕事をさせられとる泥臭うて薄ぎたないすべた淫売を…ろくに持ちもせん金を使うて抱きに行く奴はめったにおるめえ…(前掲書)


 3巻では、「農本主義的言論」(前掲書)によって理想を掲げる村上少尉が、「殺して分捕る」ことが戦争の目的だと騒ぐ大前田を叱責する。皇国・日本の戦争の目的はそのようなものではなくアジアの解放である、というむねのことを村上は述べるのであるが、最後に兵士たちに自分の訓示の意義を再確認させようとして「戦争の目的」をたずねると、二等兵・橋本は

日本の戦争は殺して分捕るが目的であります

と答えてしまう。そう答えた瞬間の村上の空虚と絶望を描いたコマの可笑しさはぜひマンガ版を見てほしい。
 橋本は村上に反逆しようとか、左翼的立場からそのように言ったとか、そんなつもりは微塵もなかった。「殺して分捕る」ことこそが橋本の感じられる最も本質的でゆるぎないリアルだったからこそ、そう答えたにすぎない。村上が説教している「アジア解放」という「理想論」も、何を言っているかわからず、そう答えたにちがいない。


 国家が「農民」としてまとめあげ、さらに「兵士」として一色に塗りつぶそうとする意図が、現場・現実の雑多さ・豊かさによっていかに挫折させられるか。あるいは戦争の理想論も、人々の皮膚感覚のリアルさの前にはいかに無力であるかを、『神聖喜劇』は実に様々な角度から教えてくれる。