ユニ『憎らしいほど愛してる』

 上司と部下の恋愛を描いた「社会人百合」である、ユニ『憎らしいほど愛してる』は昨年買って読み、「ほうっ…」と堪能したわけだが『このマンガがすごい!』のベスト5にはあげずに「次点」ということでコメントで紹介するにとどまった。

 

憎らしいほど愛してる

憎らしいほど愛してる

  • 作者:ユニ
  • 発売日: 2019/07/30
  • メディア: Kindle
 

 

 しかし、今年の秋になってふとしたきっかけで読み直し出したら、もうこれが止まらないくらいにハマってしまった。毎日読む始末である。

 1年前はFLOWERCHILD『割り切った関係ですから』や『イブのおくすり』に夢中であったが、今はその熱中度合いが逆転している。

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 FLOWERCHILDが実はつまらなかった、ということではなくて、今自分がどこに重点を置いて百合を読んでいるのか、という、ただそれだけの差に過ぎない。

 『イブのおくすり』をはじめ、FLOWERCHILDの作品には快楽そのものを直截に描写するシーンが多い。そういうものをまさに読みたかったのである。ひとは「性的な存在だ」ということを社会的立場を忘れて思い起こさせるような絵柄と筋立てに熱狂したのである。

 

 ひるがえって『憎らしいほど愛してる』である。

 商品企画の部署に配置された、元営業のエースである藤村と、企画課長としてこれまた有能な浅野の恋愛だ。浅野に恋心を抱いていた藤村は残業後の2人だけの飲み会で自分の気持ちを打ち明けて「本気でなくてもかまいません なんなら遊びでも…」とホテルに誘ってしまってから秘密の逢瀬が始まる。

 しかし、浅野は結婚している。しかし、その内実は空洞化している。

 このように「遊び」と割り切った関係から出発して、仕事を絡めながら、やがて空虚な関係を打ち破って本当の恋愛へとたどり着けるかどうかを描くのである。

 

 今自分がなぜ『憎らしいほど愛してる』にハマっているのかを考えてみると、この作品の前段に出てくる上司と部下の関係、すなわち“これは遊びであり、お互いは性的な存在・性的な対象でしかない”という割り切りを貪婪に消費しているのだなと気づく。

 いや、実は『憎らしいほど愛してる』の結末はそのような「遊び」の関係を立ち去れるかどうかを描くものであるから、作品の本質からはズレた楽しみ方をしていると言われればその通りである。

 初めて浅野と関係を持った翌日、藤村が

昨日はけっきょく課長のこと 美味しく頂いてしまった…

と反芻するセリフ・コマがある。ユニはキャラクターが性的欲望を野心的に抱く時に「舌なめずり」としてそれを表すことが多い。

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ユニ『憎らしいほど愛してる』KADOKAWA、kindle99/216

 また、人事部署での百合模様を描いた『ヒトゴトですから!』でも

小森さんは… 女の子を食べたい側よね?

と表現する。いや、「食べる」と表現することは異性恋愛の作品でも、他の百合作品でもそれほど珍しいものではないけども、ユニの場合、それがとても際立っている。

 

 「食べる」とは、ひとが一方的に欲望の対象を消費してしまう行為である。対象はなんらの主体性を持たない。まさに手段であり、「モノ」のように扱われるのだ。しかし、それは合意の上だから、「お互い様」だという民主性がかろうじてそこに保たれている。ぼくは、“相手をなんの遠慮もなく「性的な存在・対象」とみなして、それをお互いにきちんと合意しているという割り切り”に、いま心底渇えているのだなと深々と自覚した。

 

 

 そして、『憎らしほど愛してる』において、やや上滑りで生硬な会話も、グッときてしまう。

「…忙しいと思うけど プライベートも充実してる? してないって言われたら仕事の割り振り考えるかも」

「そんなとこまで マネジメントしてくださるんですか!?」

「うーんどうかなぁ 聞くだけ聞いてみようと思って」

「えーっそれひどくないですか!?   私が言い損になるか持ってことじゃないですか!」

「そうかも?」

「ひっどい」

  絵面がないとわかりづらいので以下に画像引用するが、酒の席でふざけながら浅野が藤村のプラベートを聞き出しているシーンである。

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ユニ前掲kindle35/216

 この「そんなとこまで マネジメントしてくださるんですか!?」が訳も分からず好きなのである。これ、男女の上司・部下の関係でやったとしたら、ぼく的には相当生々しい感じになる。そして、もし「そんなとこまで マネジメントしてくださるんですか!?」と部下(女性)が上司(男性)に言ったとしたら、明らかにセクハラを牽制した皮肉である。

 しかし、ここでは、そのセリフがそうした抑圧性を完全に失って、逆に気遣いや優しさのようになってしまうのだ。

 百合を読むときの読者の受け止めが一様ではないことは承知しているが、ぼくの場合、明らかに「男女の関係ではいろんな抑圧性が想像されてしまうというモヤモヤから自由になれる装置としての同性愛」として百合を読んでいる。

 だから、「二人で残業後に飲みに行く」とか「二人だけで出張した先のホテルで存分にイチャイチャする」とかいうシチュエーションもなんの留保もなく楽しめるのである。特に後者は、藤村は出張先で何か起きるかもしれないと期待しつつ、これは仕事なんだからと抑制をかけて部屋に入ろうとする瞬間に「部屋来る?」と浅野から誘われるシーン、最高すぎるだろ。「抑制をかけている」と言えば聞こえがいいけど、藤村が主体性を発揮できないオトコ(=ぼく)みたいでホント感情移入して読む。

 

 浅野の一つ一つの自分への仕草にドギマギして「反則でしょ!?」とか「近いし…ものすごいいい香りがするんですけど」とか、「ひょっとしたらこの人は自分のことが好きなのでは?」と期待してしまう藤村がかわいいというか、ぼく過ぎてしまうというか。

すっぴんでこんなに綺麗だなんて

どうかしてますね

っていうセリフもどうかしてるほど素晴らしい。顔とか容姿を、なんの社会的顧慮も払わずに、存分に堪能しているのである。藤村が、というより、読者であるぼくが。それもこれも、やはり百合であり、虚構であるからだろう。

 だけど、なんか作品の本質的なところを否定しちゃうみたいになるけど、既に体の関係を持っているのに、そこに「愛されている」という要素というのは、全くきっぱり分かれるものなのかね、とは思う。

 これは古典的なテーマだけど、「性欲(あるいはそれをベースにした恋愛)」と「本当の愛」は別のものだという話。前者は相手を性的な対象としてのみ扱うが、後者はもっと全人格的である、というふうに教科書的には言えるけども、たぶん現実にはそんなにすっぱりキレイに分かれているものではなくて、前者だけと割り切ったはずが、後者にまで次第に染み及んでいくというのが、現実の成り行きであろう。FLOWERCHILD『割り切った関係ですから』などはタイトルからしてそういうものである。

 

 

 だから、藤村が浅野がしばしば見せる「愛」に戸惑うのは、ぼくから見ると「いやそんなに迷わなくても…。たぶん課長はあなたのことが本当に好きだよ」と思わざるを得ないのである。

 ぼくにとっては、藤村と浅野の関係が「わりきった遊び」から「本当の愛」へと発展していくかどうかはあまり関心がなく、むしろ前者の関係にハアハアしている。

 

「先のことを考えなくていい関係」とは

 本作で、浅野と藤村がカラダだけの関係を持つようになってから、浅野は心密かに思うことがある。

 浅野は、藤村との関係を中間的に総括して、

  • これは好奇心である。
  • これは浮気をする夫への当て付けである。
  • これは部下として仕事をよくしてくれて、懐いてくれる藤村へのご褒美である。
  • ベッドテクニックが「優秀」であり、自分はその快楽に溺れつつある。
  • 藤村は「それ以上の関係」を決して求めてこない。「先のことを考えなくていい関係がこんなに楽だなんて知らなかった」。

と考える。

 「先のことを考えなくていい関係」が「こんなに楽だ」と浅野は考えるのだ。

 「先のことを考えなくていい関係」とはなんだろうか。

 「カラダだけの関係」という意味だろうか。それとも「女同士だから結婚も出産もないという関係」という意味だろうか。

 少し前に浅野の内語としてこうある。

でもこの関係はあなたの浮気とは違う

私たちは女同士で

この関係の先には何もないのだから

  浅野は妻になり、家庭を持ち、母になることが「期待」されている。そのような「先」がある関係が、浅野と夫との関係であり、夫と浮気相手の関係(夫が浮気相手と子どもをつくってしまうかもしれないし、浅野と別れて別の家庭を持つかもしれない)であるというふうにも読める。

 では、女同士でパートナーを組み、共同生活を行うという「家庭」を持つことは、「先のことを考えなくていい関係」だろうか。

 なぜそれにぼくがこだわるかと言えば、結末で浅野は藤村への愛に目覚めて、夫と離婚し、藤村との共同生活を始める。それが結論であるとすれば、そのような女性同士の共同生活も「先のことを考えなくていい関係」なのだろうかと思うからである。しかし、この時点で浅野は藤村への自分の愛に気づいていない。だとすれば、「カラダだけの関係」のことを「先のことを考えなくていい関係」と考えているのではなかろうか、とも読める。もしそうだとすれば、「カラダだけの関係」が終わり、「愛に基づく共同生活」が始まった時点で「こんなに楽」な関係は終わってしまうのではなかろうかと思うからだ。

 そしてぼくの仮説は、浅野が考える「先のことを考えなくていい」「こんなに楽」な関係とは、「カラダだけの関係」だということだ。

 こんなことを執拗に書くのはなぜかと言えば、ぼくは、作者・ユニは、どうも「カラダだけの関係」というものに、実は高い価値を置いているのではないかという疑念があるからである。「疑念」と書いたが、別に「カラダだけの関係は尊いと思うことは悪いことだ」と言いたいのではない。

 ユニは、『ヒトゴトですから!』でも、同作の主人公として登場する2人、小森と山野辺にパートナーをとっかえひっかえさせる、いわば「女漁り」をさせているのだが、なぜ二人がそんなことをしているかと言えば、小森は生涯のパートナーを見つけるためであり、山野辺は本当に愛していたパートナーに裏切られてある意味で女性不信に陥っているからである。しかし、同作を読むとき、ぼくはユニが「本当の愛」を探しているようにはどうしても思えない。むしろパートナーを頻繁に替えて「カラダだけの関係」を持つことを楽しんでいるように思えるのだ。

 そして何よりもぼく自身が「カラダだけの関係」こそが「こんなにも楽」だというふうに思っているのである。誰かとそんな関係になったことはないけど(真顔)。

 

『ヒトゴトですから!』の山野辺が…

 ところでビジュアルについて言えば、浅野・藤村ではなく、ユニの作品の中では圧倒的に『ヒトゴトですから!』に出てくる山野辺である。しかもプライベートの化けているときの方ではなく、「喪女」と罵られている仕事モードの山野辺。

 

 

 仕事モードなのにこんなに綺麗だなんて どうかしてますね、って言いたいくらいだよ。特に山野辺の袖を少しまくったシャツ姿がもうね。知的で仕事ができる感じが素敵すぎる。

 『ハチクロ』の美和子さん、『Under the Rose』のレイチェル、そして山野辺である。

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