山本直樹『分校の人たち』 「ユリイカ」での『レッド』論にも触れて


ユリイカ 2018年9月臨時増刊号 総特集◎山本直樹 ―『BLUE』『ありがとう』『ビリーバーズ』『レッド』から『分校の人たち』まで― 「ユリイカ」2018年9月臨時増刊号「総特集=山本直樹」で「猟奇からエロを経て人間的なものへ――『レッド』小論」を書いた。


 連合赤軍事件は、事件そのものとしてサブカル的な「面白さ」を持っている。
 だから『レッド』論ではなく連合赤軍事件論になってしまわないように、山本直樹の『レッド』という作品を評するように心がけた。


 とはいえ、『レッド』は当事者の記録に山本なりに忠実に描いた、いわゆるノンフィクションであるから、その「面白さ」は、連合赤軍事件そのものがもっている現実の豊かさに根拠がある。だから連合赤軍事件そのものが持っているサブカル的な興味としての「面白さ」を排除することはできず、むしろある部面ではそこを積極的に論じる必要があった。
 しかし、やはり『レッド』の中でのその「面白さ」の表現は、山本がこの事件のどこを切り取ってセレクトし、どのようにグラフィックにしたかということに依存している。
 だから作品としての「面白さ」と事件としての「面白さ」が、切り分け難く、糾える縄のごとく現れる。
 そのあたりを苦労しながら、しかし自分なりに描き出してみたつもりでいる。無理に『レッド』論にもしないし、かといって無理に連合赤軍論にもしない。作品を読んだ時に感じる『レッド』の「面白さ」、そのような「自分の感想」という特殊性・個別性の中にある普遍性を浮かび上がらせる作業をした。
 機会があればお読みいただきたい。


 「ユリイカ」で永山薫らが書いているが、森山塔として登場した山本の鮮烈さの記憶・位置付けは、ぼくの中にはまったくない。時代がもっと後だからである。ぼくが最初に山本直樹を読んだのは、「スピリッツ」で連載されていた「あさってDANCE」だった。そして『YOUNG&FINE』である。
山本直樹『YOUNG&FINE』 - 紙屋研究所

 永山たちの世代やエロマンガをこれでもかと読んでいる人たちとは別に、なぜぼく自身が山本の作品をエロいと思っていたのか、あるいは山本のエロさ(例えば『ビリーバーズ』や『フラグメンツ』のいくつかのシーンなど)をいつまでも記憶しているのかは、自分の中での謎であった。上記の『YOUNG&FINE』についての感想はそれを自分なりに解き明かそうとする一つの試みであった。


 最近描かれた『分校の人たち』はフラットに他のエロマンガと比べても、(少なくともぼくにとって)相当にエロいな、と思う。
 中学生と思しき(明示されていない)男女3人(女ドバシ、男ヨシダ、転校生の女コバヤシ)が、好奇心で裸で抱き合ったり性器を触りあっているうちに、ペッティングやセックスに及んでいき、やがてのべつまくなしセックスをしているという身もふたもない話だ。
 東京都の青少年健全育成条例の規制に挑戦するかのように、未成年(と思しき男女)の性行為の描写が、そして「汁」=体液のほとばしりが、ページの割合分量も気にせずえんえんと描かれている。あるいは、『レッド』でほとんど封じたエロ(山本によれば『レッド』はエロからの「出向」でありエロを禁じられた「下獄」である)を解き放つかのように念入りに描写している。
 反権力的で挑発的だからエロい、と感じたのでは全然ない(それはそれで別の立派さではある)。
 純粋にエロい。オカズとしてエロいのである。
 「ユリイカ」で多くの論者が述べているように、山本直樹が当事者に没入しない距離を保ち、クールに、突き放したように眺める視線が、『分校の人たち』でも十二分に生かされている。
 『YOUNG&FINE』でも『BLUE』でも『ビリーバーズ』でもエロの描写は物語の中のごく一部である。しかし『分校の人たち』では、服を脱がして、性器や乳首に触り快楽を得るまでの描写が細々と分解されて本当にずっと続く。
 ドバシは興味のないふりをしながら、あるいは小さく怒りながら、溺れこんでいく。コバヤシは積極的に性に関心を向けてまるで自然の観察でもするかのようにハマっていく。二人の少女の視線がまさに「クールに、突き放したよう」であるくせに、少女自身は恋愛的な感情を一切持たず、快楽のためだけにそこに没入していく。作者・山本はそれをもう一段外から「クールに、突き放したように」眺めている。
 ヨシダには恋愛的な感情が見られない。どちらかといえば性欲に突き動かされている少年である。そして、一見主体性ありげに二人の少女の体を求めるけども、それはどちらにも拒絶されないという十分に安心な環境のもとで見せる能動性にすぎない。80年代的な、男性主体である。

森山塔は情熱的ではない。少なくとも情熱をむき出しに迫るようなことは描かない。森山塔のセックス描写は即物的で、まるで生物学者が、とある生物の生殖行為を冷静に観察しているようにすら見える。(永山薫「身も蓋もなくエロス」/「ユリイカ」前掲p.38)

山本直樹の『分校の人たち』を読んだ時、「ああ、森山塔が帰ってきた」と感じた。……そこにあるのは性器というより泌尿器であり、即物的に反応する敏感な粘膜である。(永山前掲p.40-41)


 「少年と少女が遊んだりふざけあっているうちに、性を知り、そこにハマってしまう」というのはエロの中でもよくあるシチュだし、ぼくも好きな設定である。
 このシチュエーションが最大限に生かされるように、山本の淡々とした、突き放した視線が少女二人のキャラ設定を生み、没主体的な男性主体を生み、そして生物観察のような細かく長いエロ描写を生み出した。
 「よくある設定」だけど、それが山本の視線によって徹底的に・最大限に強化されているのである。
 他のエロマンガが、(今回の「ユリイカ」の特集でも言及されているが)性交時の擬音のうるさいほどの記述や、ページの制約で(比較的)あっさり絶頂に至ってしまうのに比べてなんという贅沢なつくりであろうか。
 「そうそう、こういうものを読みたかった」と読みながら思った。