遊んでいる*1男ってクズですか。
いや、ぼくは遊んでいるわけではないが。
ステディがいない状況で遊んでいるとしても、それはそいつの生き方じゃないのか。 何が悪いんだ。
そして、そこに一人の女が現れて「自分のことを好きになってほしい」と言ったとしても、十分ありうることじゃん。
そして、いかに男が遊んでいようと、そのことを承知の上で、女がそれでも構わない、自分の方を振り向いてほしい、振り向いて自分と付き合うことになったら1対1になってほしいと例えば願い、その条件で男を振り向かせようとするのは、何も問題ないのでは。
って思うぼくが特殊なのだろうか。
遊んでいるという行為を行う男は、とにかくクズだと決まっているのか。
それは一夫一婦制社会のもとでのおかしな道徳観念ではないのか。*2
そして本作である。
男(佐成・さなり)がクズ(遊んでいる)なので近づくべきではないと知りつつ、いいやつなので好きになってしまう女(中条・なかじょう)の話。
ダメだ、この男に惹かれちゃいけない、と本人も思いつつ、惹かれる気持ちが止まらないという…。
しかし、男はクズだとされながらも、そのクズっぷりはほとんど物語の中では見えてこない。
どう考えても良さげな男なのだ。
2巻の途中に「1巻を読んでくれた友人の感想」として佐成を「思ったよりクズ」と言っているんだけど、いや全然そんな気がしませんけど!?
俺のクズ基準がアレなのか。
2巻で、家の前で「遊んでいる子」と思しき女性が待っていた時でさえ、これだけではクズという内実は何も描かれてないし…と思わざるを得なかった。
ぼくはさ、なんでこの話がいいなと思って読んだのかといえば、佐成の方じゃなくて、中条の方なんだよね。
中条がグラフィックとしても綺麗だなと思いながら見ているし、照れて赤くなっているのとか、気持ちが浮き沈みする様子がかわいいなと思いながら読むんだよね。
中条の恋の行方を案じて、中条の女友達二人が飲み屋に佐成を呼び出して佐成の品定めをしつつクレームをいうシーンは、全体として可笑しみが漂い、風習として奇妙であり(友達思いの行為から出ているのではあるが)、中条の反応が一つ一つかわいい。
たぶん佐成はクズじゃない。
付き合っちゃいなよ。と素朴に思う。