別に「麒麟がくる」をこれからずっと見ようと決めているわけでも、決めたわけでもないし、貶めようとか、逆に持ち上げようとか、なんの意図も持っていない。
この前の日曜日にぼさっとテレビの前にいたら、「麒麟がくる」の第2回が始まって合戦シーンが流れてきた。
そのシーンが殊の外長く、さらにいろんなことを思ったので、雑記的に記してみる。別に専門家でもないし、他の合戦ドラマをほとんど見てないし、本当にシロートの雑感として。なぜそんなにぼんやり、しかし長い時間見てしまったのかということを。
下記の記事も関連しているので、ちょいちょい引用しながら。
(今回の脚本を書いた)池端氏は、『信長公記』だけではなく、さまざまな文献や資料を読み込み、なるべく史実に基づいたリアルな戦国時代を綴ろうと取り組んでいる
大河ドラマの合戦シーンをいくつも見ているわけではなくて、単にぼくの中での印象なんだけど、主人公とかライバルの武将が決断したり喜怒哀楽を表す表情をしたりが合戦シーンのメインで戦闘そのものは添え物みたいだったんじゃないのかなあ。
ところが今回ぼくが見ていたシーンでは、光秀をはじめ斎藤道三や織田信秀以外にも兵士たちの戦闘シーンが結構長く描かれていた。つまり戦闘そのものを描いていた。それで視聴者として「戦闘」ということに関心が向いてしまうのであった。
合戦の現場にいる気持ちに
例えば落とし穴に向かってやってくるシーンがある。しかし、穴に落として殺害するためには、10メートルくらい掘らないといけないのでは? とか思う。また、柵の後ろにいる敵の部隊に向かって突進していって、その柵の直前で穴に落とされるのだが、そんなに固まって突進する必要があるのか? 市街地なんだから通路以外のところからよじ登ったりしてもいいのでは? とか考えてしまう。
無数の矢が空から降ってくるシーンをはじめ、兵士が火だるまになったり、鎧を着たまま死体となって浮かんだりと、戦争の無残さはきちんと描き出している。
あー、確かに矢のシーンも印象的だった。
矢の重量感みたいなものがあった。ぼくは高校時代弓道部だったので、ああいうものが人に当たったら死ぬよな……という感覚を思い起こした。他方で、「矢自体が精巧なものだから、そんなにたくさん打てないよな」とか「木の盾で防げんのか?」とかも思った。
火だるまのシーンは、火のついた草みたいなのを転がして落としていたけど、あんなもの、すぐに避けられるのでは? とも思った。
いや、ケチつけてるっていうより、合戦の現場にいるような気持ちで「自分だったらどう避けるか」みたいな視点になってるんだよ。
殺し合いのテンションが気になった
戦闘、つまり殺し合いのテンションとはどういうものなのか、そのこともずっと気になった。銃を撃つとかいう現代戦ではなく、ドラマで描かれた合戦は白兵戦だったので、いつも「殺してやろう」という殺気がみなぎっていないと遂行できないんじゃないのかなと。逆に言えば、そこまで殺気立つ動機ってどんなものなのか。
当時の合戦は、短期決戦というよりは長期戦だったようだ。「ハリウッド映画だと密度の高い戦闘がエンターテインメントとして描かれますが、実は本当の戦争はもっと緩やかで、半年間くらいずっとやっていたりします。人間は戦えば疲れちゃうし、24時間ずっと戦えるほどタフじゃない。2時間攻めたら疲れます。いわゆる戦国時代幕開け時の戦いなので、通常の戦国ものとは違い、新鮮なんじゃないでしょうか」
「テキトーにやり過ごしておこう。斬り込んでいったら死んじゃうし」とかいう臆病は発動しないのか、という思いが真っ先にたつ。何か強い恨みがあるわけでもなさそうだし、兵士として訓練を受けるわけでもなさそう。
身近にあるもので想像するしかないのだが、例えばヤンキーの河原での大量決闘みたいなものは殺気立っている可能性がある。ヤクザの出入りでもそうだ。報償めいたシステムが明確に作動している感じでもなく、おそらく相手を「やっつけてやる」とか「殺してやる」とか、まさに雰囲気、士気が醸成されているかどうかだけ。
検証する資料もないが、手近に西股総生『戦国の軍隊』(角川ソフィア文庫)がある。この本をもとに、兵士たちのモラールやモチベーションを考えてみる。
正規兵と非正規雇用兵の二重構造
西股の同書の結論によれば
戦国の軍隊は、正規兵である侍と大量の非正規雇用兵とかならる、二重構造を特徴としていた。(p.275)
非正規雇用兵というのは、非戦闘作業員を除けば、「傭兵としての足軽」「領主が軍役によって動員した雑兵」(p.207)の二種類である。
足軽は「基本的には武士ではない者、つまり主従制の原理が適用されない集団」「彼らは金品で雇用され、軽装で戦場を疾駆し、放火や略奪に任じた」(p.119)。雑兵は「戦闘員の七割ほど」(p.199-200)を占め、「あいつぐ天災と、追い打ちをかけるように起きる戦争、生きるすべを失った庶民が手っとり早く食いつなぐ手段」(p.202)であったとする。「社会的な地位上昇を求めて、あるいは手っとり早く飯を食う手段として、兵隊という仕事を選択する」(p.201)。
足軽と雑兵は役割的にどう違うの? という疑問に西股は「実態としてほとんど同じ」(p.208)としている。ただ、雇われ方の違いとして足軽を「契約社員や派遣労働者」とし、雑兵を「パート・アルバイト」としている。足軽の方が職業的であり、雑兵の方は臨時的だというわけである。
足軽・雑兵らの中には、自ら進んで志願した者や、何らかの理由で地域社会からドロップアウトした者も当然いたが、彼らを非正規雇用兵として大量動員する戦争は、大量の難民を生み出して、非正規雇用兵の供給源となった。(p.276)
つまりまあ、圧倒的に「難民」だというわけだ。そこにヤクザや半グレなどのようなアウトローが混ざる。
西股は農民から徴用された「農兵」とかいうものはよほどの危機の場合以外は存在せず、「兵農分離」というのはおかしな話だと言っているのだが、その論争には立ち入らない。まあ、雑兵は「食い詰めた流民・住民」だとすれば、その中に「ふだんは農民、ときどき兵士」が結構な数いてもおかしくはない。
戦国の軍隊は、大半が足軽か雑兵=非武士階級ということになる。それらの難民+アウトローを、すでに公権力化している武士集団、まあ警察とか軍隊のようなものが統率して戦争をする……みたいなイメージであろうか。
足軽や雑兵は略奪が目的なの?
金や飯で集められるのだが、それってどこまで戦うの? という疑問が起きる。
西股は藤木久志の『雑兵たちの戦場』(朝日選書)を典拠にしながら、戦場の略奪(食料・物品・人間)の横行を挙げている。それがまあ報酬ということになる。
西股は伊勢宗瑞(北条早雲)が初期の戦闘でどこから人数を調達したかを次のように書いている。
おそらく宗瑞たちは、収穫物の略奪というエサを示すことによって、志願者をかき集めて傭兵部隊(足軽衆)を組織したのだ。そして、戦争に勝利すると討滅した相手の所領を、多米氏や荒川氏といった傭兵隊長や、笠原氏・大道寺氏といった被官・縁者らに分配して兵を養わせる、ということをくり返しながら軍隊を創り上げていったのではあるまいか。(p.123)
こうした西股の仮説というか推測に過ぎないので、別に通説でもない。しかし、他に手がかりもないので、これをもとにドラマのシーンを見直してみる。
勝利によって略奪ができるから、一応勝敗にはこだわる。つまり、殺しに向かうモチベーションが得られる。
しかし、命あっての物種だから、そこまで真剣にはできない。
足軽・雑兵らが逃亡をはじめても、侍たちが最後まで踏みとどまって勇ましく討ち死にするのは、当然であった。(p.210)
侍たちは戦功によって直接に評価されるシステムであったから、無謀な「先駆け」「一番乗り」をふくめ戦闘のモチベーションは高かった。西股はその様子を秀吉の小田原征伐の際の記録から紹介している。
斎藤道三と織田信秀の小さな合戦のようなものは、上記に書いたような大規模な「非正規雇用兵」がおらず、いわゆる武士集団だけで戦っていたのかもしれない……とも思い直してみる。
そんなことにぼんやりと思いを馳せる時間であった。