Zoom読書会をやっている。
このコロナの状況下なのでせっかくだから『ペスト』を読もうということで読んだ。
記憶について
いろいろ思うことはあるんだけど、とりあえず、この箇所。
ペストによって閉ざされた街で、ペスト被害に対するボランティアとして組織された「保健隊」でともに活動したタルーについて、その死後、医師リウーが思いをはせるシーン。
彼がかちえたところは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日かそれを思い出すことになるということである。ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。(カミュ『ペスト』、新潮文庫、Kindle の位置No.5187-5190)
真実のところ、リウーにはなんにもわからなかったし、そんなことは別に問題ではなかった。彼の心に残るであろうところのタルーの唯一の面影は、彼の自動車のハンドルを力いっぱい握りしめて操縦している男の面影であり、あるいは、今はもう身動きもせず横たわっている、このがっしりした体の面影であるだろう。一つの生の温かみと、一つの死の面影──知識とは、つまりこれだったのだ。(同前No.5202-5206)
カミュはペストも戦争も、人間に降りかかる不条理を同列に見なしている。「ペスト」を「戦争」に替えて読んでもいいと思う。
天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。(同前No.617-619)
カミュが『ペスト』で示している態度は、ペストが災厄全体を代表していることに見られるように、人間がそれに抗って勝利できるかどうかはわからない、というか敗北し続ける。
しかしそれでも、リウーたちは「保健隊」に参加して「自分にできることをやる」という最小限のことをやろうとした。
だがペスト=災厄とか不条理とかいったものが繰り返されるだろうから、それでも自分にできることは何かと言えば忘れないこと、つまり記憶することなのだ。
黙して語らぬ人々の仲間にはいらぬために、これらペストに襲われた人々に有利な証言を行うために、彼らに対して行われた非道と暴虐の、せめて思い出だけでも残しておくために、そして、天災のさなかで教えられること、すなわち人間のなかには軽蔑すべきものよりも賛美すべきもののほうが多くあるということを、ただそうであるとだけいうために。/しかし、彼はそれにしてもこの記録が決定的な勝利の記録ではありえないことを知っていた。それはただ、恐怖とその飽くなき武器に対して、やり遂げねばならなかったこと、そしておそらく、すべての人々──聖者たりえず、天災を受けいれることを拒みながら、しかも医者となろうと努めるすべての人々が、彼ら個々自身の分裂にもかかわらず、さらにまたやり遂げねばならなくなるであろうこと、についての証言でありえたにすぎないのである。(同前No.5511-5519)
こうの史代を思い出す
生きとろうが 死んどろうが
もう会えん人が居って ものがあって
うちしか持っとらん それの記憶がある
うちはその記憶の器として
この世界に在り続けるしかないんですよね
晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない
じゃけえ 笑うたびに思い出します
たぶんずっと 何十年経っても
こうの史代は『夕凪の街 桜の国』から、戦争体験における「記憶」についてくり返し描いてる。主人公の一人が、原爆の体験を回想するシーン。
わたしが忘れてしまえばすんでしまう事だった
(こうの『夕凪の街 桜の国』双葉社p.26)
この直後に、この諦念を否定するように記憶の象徴としての原爆ドームの大ゴマが入る。
カミュは「忘れてしまう」ことを断罪してはいない。忘れてしまうのである。
そのことを、ペストから解放された人々が、ペストによって犠牲になった人たちを忘れて騒いでいることを次のように書いて表している。
暗い港から、公式の祝賀の最初の花火が上った。全市は、長いかすかな歓呼をもってそれに答えた。コタールもタルーも、リウーが愛し、そして失った男たち、女たちも、すべて、死んだ者も罪を犯した者も、忘れられていた。爺さんのいったとおりである──人々は相変らず同じようだった。しかし、それが彼らの強味、彼らの罪のなさであり、そしてその点においてこそ、あらゆる苦悩を越えて、リウーは自分が彼らと一つになることを感じるのであった。
(カミュ前掲No.5504-5508)
だからこそ記憶、というか、記録をしなければいけない、とする。
「あきらめ」から「自分にできること」へ
この記憶・記録の問題とは別に、不条理に対して人間は所詮抗えないという「あきらめ」、アパシーをいったん受け入れてしまった後で、しかしその上で何か自分にできることはないのかと考える様子は、大西巨人『神聖喜劇』を思い出させた。
戦争の反動的な性格を認識しつつどこにも変革の可能性を発見できなかった主人公・東堂は絶望に陥る。その結果「世界は真剣に生きるに値しない」「本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい」という「若い傲岸な自我が追い詰められて立てた主観的な定立(テーゼ)」にたどり着く。その上で「私は、この戦争に死すべきである」という実践的な結論を得る。
しかし、軍隊生活を送るうちに、この虚無主義的なテーゼは侵蝕されていく。同年兵たちの中に人間的な連帯を自然な感情として感じ取り、本当に必然として、言い換えれば至極自然な成り行きとして連帯を形にした大胆な「反抗」に及ぶのである。
この展開に、リウーやタルー、あるいはランベールといった登場人物たちが「保健隊」に入って、決してペストという絶望そのものには打ち勝てはしないのだけども、自分にできることをやる姿は、カミュがこの後具体的に明らかにした「反抗的人間」のように思われた。
リウーと東堂は別の生き様であるが、共通する理性をそこに感じた。