新井孝重『戦争の日本史7 蒙古襲来』


 住民有志のガイド役として元寇防塁を案内し、福岡市博物館の展示で、その人たちになぜか元寇について説明するハメになった。シロウトのにわか教師風。
 そのとき、
「元と高麗の連合軍に攻められたあと、高麗に逆に攻めていく計画も立てるんですけど、船の技術がなくてダメになったんです」
と説明した。
 すると参加者から、
「あれ? 遣唐使とか遣隋使とか出してましたよね?」
という疑問が出た。当然である。ぼくもそう思ったもの。
「古代にその技術はあったんですけど、廃れてしまうんです」
と説明したのだが、「テキトーな説明をしてツッコまれたので、テキトーな返事をした」という感じになってしまった。ち、ちがうんだ。


 高麗外征を計画していたのはほぼ定説だし、福岡市のガイドにも書いてあるので、そういっていいのだと思うけど、船の技術がなかったからという理由の方は、学者の説でしかないので、まあ、「テキトー」っちゃあ「テキトー」なんだけど。


蒙古襲来 (戦争の日本史7) その根拠の一つが、本書である。


 モンゴル(元)と朝鮮(高麗)が鎌倉時代に日本に最初の侵攻(文永合戦)をおこなったのち、鎌倉幕府は二つの作戦を立てた。
 一つは、防塁(石築地)を築くこと。
 もう一つは、高麗に逆侵攻をかけることだった。
 前者は博多湾岸に20kmもの防塁*1がつくられた。
 後者は結局実現しなかった。

日本の当時の船は外征に耐えなかったのではないか

 なぜ実現しなかったのか。
 獨協大歴史学者・新井孝重は本書『蒙古襲来』(吉川弘文館)の中でこの問いをたて、日本の当時の船は外征に耐えなかったのではないか、という推論をしている。


 新井は、網野善彦などが中世の日本人は活発な海洋活動をしていたと主張していることを紹介して、北九州の松浦党などが鎌倉前期に高麗で海賊的な行為をさかんに行なっていたことを示した上で「これらのことを思い浮かべると、日本に高性能の船があったとも思える」(p.85)と書いている。
 だが、続けて、こうした行為は陸での行為であって、高麗の正規軍と海洋で戦闘したわけではない、と疑問を投げかけている。


 新井は、鎌倉時代に国家規模での戦争に耐えうる戦闘船、兵船がなかったのではないかと考え、ゆえに高麗外征は実現しなかったと推察している。


 たしかに元寇をめぐる記録とか絵詞とか見ても、せいぜい夜襲とかで鎌倉側が攻撃を仕掛けた程度で、大規模な軍艦戦争をした様子がない。新井によれば、弘安合戦で暴風のあと残兵狩りに出撃する様子が『蒙古襲来絵詞』に出てくるが、その船も200石積み級程度のものであったとしている。

古代には遣隋使とか遣唐使を出してたのでは?

 ここで疑問が湧いてくる。
 あれ?
 古代には、遣隋使とか遣唐使を出してたんじゃなかったっけ? とか、そもそも朝鮮に何度も出兵してたんじゃなかったっけ? 
 新井はその疑問に、次のように答えている。

かつて奈良時代には、政府は全長三五メートル、排水量三七〇トンもある構造船を造って、遣唐使を中国へ送り届けていた。……ところがその構造船は、国家の仕組みである律令制が解体するのと一緒にすたれてしまう。(新井p.93)

石母田正氏……によれば、……国家が所有する材料と生産手段に、家族や村から分離した労働者たちが結合させられることによって、国家が必要とする船舶を技術官との設計と指揮のもとにつくっていたのである。/したがって一切の生産条件を独占し集中していた国家が衰退すると、右のような協業と分業の労働編制も否応なく、廃れていった。それは九世紀末の遣唐使廃止ともあいまって、中国渡来系の構造船がすたれていくこともであった。(新井p.94)

 つまり、古代にはあった技術が、なくなってしまった、ということである。

九・十・十一世紀と、律令国家が弛緩と解体の途をたどるが、それはいっぽうで個々の生産者住民が、おのれの生産手段を獲得して、独立した小生産者、あるいはあらたな支配者たる領主となって、地方的・農村的な社会を創り出す過程でもあった。船木山から切り出したクスノキの、単材ないし舳先〔へさき〕と胴瓦〔どうがわら〕と艫〔とも〕の三材で構成する刳舟〔くりぶね〕は、中世社会における労働の個別性に、もっとも適合する在地的な船であった。(同前)

 『絵詞』に出てくる鎌倉方の船も、結局はこの刳舟だった。木をくり抜いて作る、縄文時代以来の船の延長なのである。

歴史教訓的に読む――日本の対外思想に深刻な歪み

 本書の全体像を取り上げるのはぼくの手に余る。
 本書の「教訓的」な部分、つまり歴史反省的な部分だけを取り上げてみる。
 一つは、朝廷も幕府も国際感覚・外交感覚がなく、南宋という反モンゴルの情報ルートのみから戦争一辺倒の選択肢しかとらなかったという悲劇。

モンゴル戦争期の幕府首脳には不思議なほど「外交」を考えた形跡が見られない。かれらの対外反応はほとんど機械的に武断的であり粗暴であった。(新井p.138)

 もう一つは、文永合戦での鎌倉側の惨憺たる状況、弘安合戦での幸運(江南軍の遅れ、暴風)を見れば、もう元・高麗連合に勝利できたっていうのは、ラッキー中のラッキーなはずだけども、それが「神風思想」みたいになって残ってしまったという不幸。

つぎにもうひとつ注意すべきは、モンゴル侵寇の衝撃が列島住民の対外意識に深刻なゆがみを残したことである。……日本の中世国家はいまだかつて経験したことのない、外からの戦争の危機に遭遇した。そのとき、まったくの偶然的自然現象(暴風)によって敵はしりぞけられた。予期せずして帝国主義戦争を退けた「幸運」は、日本人の意識にそれとは逆のものを胚胎してしまった。(新井p.258)

福岡市は元寇防塁をどう「活用」すべきなのか

 元寇防塁として確認された文化財は、実は日本で福岡市にしかない。近代の米軍の日本攻撃を除けば、近代以前の歴史の中で日本が大規模な国家侵攻を受けたのは元寇しかない。その貴重な遺跡である。
 しかも、それは単に「攻められた歴史」であるだけでなく、のちの対外認識の歪みのもとになったという意味で重大な起点でもある。
 そういう貴重な、市全体で考えるべき「地域資産」としての重みは、現在の元寇防塁にはない。
 高島市長は、直ちに金銭を落とす「観光」には熱心であるが、気の長い文化財の「活用」にはほとんど熱が入っていない。
 元寇防塁の「活用」についても、スマホなどでバーチャルに再現することをアプリでやったりしたが、その視点は、あくまで「観光」である。
 埋蔵文化財の活用について、文化庁の委員会は「歴史的・文化的資産としての意義」とは別に「地域及び教育的資産としての意義」を説く。

埋蔵文化財はその土地の履歴を具体的に物語るもので、地域のアイデンティティを確立し、歴史を生かした個性ある地域づくりを進めるうえで重要な要素の一つとして生かすことができる。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/hokoku_07.pdf

土の中から掘り出される遺構・遺物は、先人が実際に創りあげ、かつ使ったものそのものである。住民にとって、それらに直に触れることは自分たちの祖先と時代を超えて直接対話することであり、国や地域の歴史や文化に対するあこがれや知的好奇心を刺激するものである。埋蔵文化財は親しみやすい教材として、学校教育における社会科や歴史の学習に役立たせることができる。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/hokoku_07.pdf

 市の西部にある今津の元寇防塁と生の松原の元寇防塁が比較的整備されており、人気海水浴場のとなりにあるのだが、前者は松原の中に埋もれ、完全に海水浴場の賑わいとは切り離されている。後者は一応浜辺に復元されてはいるものの、まあそれだけというか、「ふーん」という感じなのである。市の中央・東部にいたってはほとんど埋め立てて保存しているので、市民が親しむ機会すらない。
 ぼくは、資料館を作れ、とかそういう話をしたいんじゃない。
 吉武高木遺跡は、いろいろ工夫されていると思うけど、ここまで強く遺跡を意識させるのも、いちいち遺跡ごとにやっていたら大変だろうと思う。
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/yoshitaketakagi/visit/map.html
 例えば山の鼻古墳公園。
https://www.youtube.com/watch?v=CRcqXc7Q_oU
 ここは、前方後円墳を丸ごと公園にしているので、まあ子どもが駆け上がったり、走り回ったりすること自体が、古墳の大きさを体感できるように作られている。掲示板で歴史を勉強するかしないかは別として。
 そんな感じがいいのではないか。
 例えば、九大の箱崎キャンパス跡地では防塁が出ているので、そこを公園にする場合、防塁の高さ(2m弱)を実感できるような模型的遊具があるだけでもずいぶん違うのではないかと思う。
 防塁を見学したり勉強したりするというだけでなく、公園のような場所で自然に触れることができるような遺跡や文化財との接点を考えてみてはどうか。
 

*1:現存するもののみ。