『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスター問題を考える

 『宇崎ちゃんは遊びたい!』を使った献血ポスターとそれをめぐっての太田啓子弁護士のコメント・行動が炎上しているな。

togetter.com

 太田は詳しくは述べていないようだが、要するに宇崎ちゃんの「巨乳」強調のイラストが「無神経」であり「公共の場での環境型セクハラ」であるからという理由で赤十字に何らかの苦情を言ったものと思われる(くりかえすが、この理由は推測に過ぎない)。

 

 これに対するツイッターなどのネット上のコメントを見ると、「あいちトリエンナーレ」の騒動と重ね合わせて、これも表現の自由に対する攻撃ではないのか、という意見がけっこう目立った。

 

「巨乳強調」は女性の人権を侵すか

 そもそもの問題として、巨乳を強調したイラストを大勢の前に掲示するのは女性の人権を侵すこと、「環境型セクハラ」になるのか。

 

 結論から言えば、「環境型セクハラ」=法令上の人権侵害とは思えないが、女性を性的な存在とのみみなし、部分化・パーツ化した存在とみなす意識を強化するかもしれない。(ただ、どんな虚構作品でも政治的にみて公正でない意識を強化する可能性はありうる。)そして、その不公正を批判する意見を述べることはありうる、ということである。

 

 「環境型セクハラ」ではないことについては弁護士の吉峯耕平が書いている。ぼくなりに思うことについてはこの記事の末尾にまとめておくので、読みたい人はそちらをどうぞ。

 

 ただ、太田の言いたかったことは、『ゆらぎ荘の幽奈さん』問題以来一貫していると思うけど、“個別女性の多くは豊かな全体性を備えた一人の人間であるのに、それを巨乳=胸だけ強調して性的なパーツのように扱い、部分化された、性的な存在としてのみ扱うことは、女性全体の尊厳を傷つけるもので、多くの男性(女性や他の性を含めた)の女性観に歪みをもたらす”ということなのだろう。たぶん。太田の気持ちを「忖度」*1して言えば。

 法的にみてアウトではないものの、政治的には公正ではないジェンダーの加圧を高くするものだ、というのがおそらく太田の主張じゃねーのか。

 

 これもぼくはこの種の性的なコンテンツを「楽しんでいる」一人として、前から言っているが聞いておくべき・受け止めておくべき警告ではあると思う。

 宇崎ちゃんは虚構の人物であり、性的パーツ化を「楽しんで」おけるのは虚構の領域だけだ。*2 そして、そういう虚構コンテンツがひょっとしたら、ぼくらの現実の意識の中にこっそりと侵入して、女性への偏見・誤解を広げるかもしれない可能性についてもきちんと認識すべきだ。

 

 そして、これも前から言っているように、その種の政治的公正さから外れたもの、いわばポリティカル・コレクトネスを備えていないと思われるものは、性的なテーマだけでなく、まさに無限に存在する(家族、戦争、犯罪、宗教、暴力、年齢などなど)。そうした無数の警告の一つひとつに、どれくらいの「注意」の資源を割けるかは、まさにその人次第なのだろう。

 

 例えば中川裕美は最近「しんぶん赤旗」で「少女漫画とジェンダー」の連載をやったけど、『NANA』『星の瞳のシルエット』『神風怪盗ジャンヌ』といった少女マンガの中にジェンダー上の不公正がどのように忍び込んでいるかについて語っている。

 

 あるいは、政府が最近、映画『宮本から君へ』に麻薬取締法違反で有罪となったピエール瀧が 主演 出演していることをもって、「国が薬物を容認するようなメッセージを発信する恐れがある」として補助金の不交付を決定した。政府による不交付の是非とは全く別に、作品の中にそういう不公正が入り込んでいると主張することは、一般的にありうるのである。

www.yomiuri.co.jp

 

 そして、もうまったくいま手近にあるだけだから例に挙げさせてもらうだけなんだけど、たかぎ七彦アンゴルモア 元寇合戦記』であっても「元・高麗軍の残虐さを創作上過度に強調することが、モンゴル人や朝鮮人の民族性に対する偏見を助長する可能性がある」という批判も成り立ちうる(ちなみに、ぼくはこの作品を「楽しんで」いる)。

 

 つまり、創作物はほとんどのものが大なり小なり政治的不公正を含んでいる。どこかで誰かを傷つけていることは避け難いと言ってもいい。

 しかし、これにすべて対応して不公正を除去しようとすれば「政治的に正しいおとぎ話」になってしまう。

 

政治的に正しいおとぎ話

政治的に正しいおとぎ話

 

 

 創作が成り立たないのである。

 政治的不公正を批判する指摘というものは、当たっている場合もあれば、外れている場合もある。また、当たっていても、影響がほとんどないという場合もある。

 「不公正だ」という指摘に対して、ひとつひとつ実際に不公正かどうかを検証していけばいい。そして、作家は、その指摘や検証(議論)を受け止めて、そのままにしておくか、作品を修正するか、撤回するか決めればいい。そしてその態度に対して……という無限の連鎖が続く。それが表現や言論の自由というものだ。

 

 「宇崎ちゃん」については「女はおっぱいだよな」的な見方、「女性は性的な存在である」「女性は性的なパーツである」という見方を強化するおそれはある。環境型セクハラではないが、不公正さが含まれていると思う。だから、そうしたポスターに「これはジェンダー的に不公正ではないか」と意見を言うことはありうる。というか、言うべきだ。

 

もっとていねいに説明すべき

 ぼくが思うのは、指摘する側(つまり太田)の「雑」さである。

 「環境型セクハラ」という形で指摘すれば、「厳密に言えばそうではない」という批判が返ってくるのはわかりそうなものだし、そうなれば「環境型セクハラでないから、太田の主張は間違い!」で話が止まってしまって、「女性は性的な存在であるというジェンダー上の不公正を助長する」という肝心な部分が聞いてもらえなくなる。

 「女性は性的な存在である」という主張・メッセージがなぜ不公正か、ということも、いつでもていねいに説明する必要がある。普通に考えると、セックスする場合、女性は性的な存在になる。おっぱいという「パーツ」を味わうセックスをする人だっている。「その一面を示すことがなぜいけないのか?」と思う人はいるはずだ。

 性的な存在だという側面は、ぼくらの人格の大切な一部だが、一部に過ぎない。その一部を切り取って誇張する(文学や創作とはそういうものだと思うけど)ことが、あまりにナイーブであればあたかもそれが女性の(あるいは男性や他の性の)全体であるかのような錯覚を広げてしまうことがある。

 そこを丁寧に説明してほしいのである。

 「なぜ説明の手間を我々が取るのか? 自分で考えろ!」という主張をする人がいるけど、ぼくはまったくそうは思わない。いくら虐げられた人であっても、社会運動をする側はいつでも理解が及ばない人にていねいに説明しなければ理解は広がらない。と、コミュニストの一人として思う。

 

 

表現を批判することと表現を撤去させることの差

 「環境型セクハラ」というふうに言えば、法令上の違反であることをイメージさせ、ほぼ自動的にその表現を封じ込める力が生まれる(かのようである)。

 ある表現を批判することは自由であり、旺盛にやるべきだ。しかし、表現を消させることは慎重でなければならない。「いま自分は一つの表現を取りやめさせるかもしれない」という自覚もなく、法令上のレッテルを、「便利な道具」のように扱われては困るのだ。

 

 憲法学者である志田陽子は表現の自由の前提として次のように述べている。

 

人類の発展には真理の探究がつねに伴ってきた。これを塞がず前進させていくためには、国が上から「正しい答え」を押し付けず、人々が自発的に切磋琢磨できる言論の場(思想の自由市場)が必要である。(志田「芸術の自由と行政の中立」/「議会と自治体」第258号所収p.45)

 

 「思想の自由市場」というイメージからすれば、流通を規制せず、できるだけ自由に流通させて、しかしその中で切磋琢磨して、価値のないものを淘汰していったほうがよいはずだ。

 ヘイトスピーチはその典型だけど、ヘイトスピーチ解消法はヘイトスピーチ(本邦外出身者に対する不当な差別的言動)そのものを「許されない」(前文)としつつも、それを罰則による禁止や規制はせずに、啓発や教育によって、つまり国民一人ひとりが「思想の自由市場」でよい「商品」を選び取る力をつけさせることで「解消」をめざしている。

 これが将来規制法・禁止法になったとしても、基本的な構成は同じだろう。緊急避難で規制することがやむをえないもの以外は国民一人ひとりの啓発や教育に待つことが根本なのである。

 つまりヘイトスピーチに対するポリコレ棒を国民の内側にビルトインすることが大切だというわけだ。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 同じように、安易に表現を抹殺してしまうのではなく、それを批判することによって克服していくことがこの問題での「大道」だと言える。 言い換えれば、表現そのものの存在を否定(展示取りやめ・撤去・公刊中止・回収など)することを求めるのは相当慎重であるべきだ。特に、左派やリベラルは「表現の自由」の価値を高く称揚しているだけに、安易に撤去や中止を求めるべきではない(あくまで「安易に」であって、撤去や中止を絶対に求めてはいけないわけではなく、効果的な場合もある)。

 

 前にも言ったけど、ある人の表現に対して批評する権利は当然にある。それを口にするのも自由だ。もちろんその中身が、政治的公正さを求めることを動機にしていたとしてもである。

 そして、政治的公正さから表現を批評することはただ権利として存在するだけでなく、その角度からの批判が正鵠を射ている場合もある。ぼくもよくやる。

 だから、太田が政治的公正さの角度から、民間団体である赤十字にポスターについて意見を述べたこと自体は、間違っていないと言える。

 

 ただ、単に批評にとどめず、「表現そのものをやめろ(公刊したり発表したりするのをやめろ)」というのはどうか。結論から言えばそのように要求することは権利としては存在するし、たとえ表現が法に触れていない場合であってもそれはありうる。言ったほうがいい場合すらあるだろう。

 しかし、民・民の関係の中で言えば、その表現が政治的公正さから言って非常によくないものですよ、と伝えるだけですでに十分に役割は果たしているはずだ。あえて表現そのものをやめろ・撤回せよと要求して、その表現の存在を「抹殺」してしまう必要はないのではないか。

 自民党がつくるポスターについて「戦争を正当化し煽るものだ」「ジェンダー上不公正だ」と仮にぼくが考えたとしても、それを「撤去せよ」とは、ぼくはあまり言いたくない。*3

 

 先に挙げた中川は『神風怪盗ジャンヌ』が処女信奉という不公正を忍ばせていると批判した。『ジャンヌ』が少女に与える影響の方が、おそらく宇崎ちゃんポスターより大きいだろうが、中川は決して「だから『神風怪盗ジャンヌ』は絶版にすべきだ」とは要求すまい(いや、もししてたらビックリだが)。

 

 今回のケースで言えば、「宇崎ちゃんの巨乳の強調は、女性蔑視である。このポスターを私は支持しない」と表明し、赤十字に伝えればそれで終わり(目的を十分に果たしている)であって、「ポスターを撤去せよ」とまでいう必要はないのだ(太田がそこまで求めたかどうかは知らないが)。

  民間団体や民間企業にとっては、批判されること自体が、この表現を不快に思う人がいるのだなという単純な投票になり、その結果、その民間団体・企業は勝手にポスターの撤去・存続を判断するからである。(ただし、それは「江頭2:50をポスターで使うと嫌悪する人が多いので使わないでおこう」という判断と同列なのだけど。)*4

 

公の場の表現だからいけない?

 次に、「公の場の表現だからいけない」という意見について。

 市民の批判を受けて、大勢の人がよく見るような表現(駅のポスターなど)を撤去することはある。しかし、それはあくまで作家や民間団体の自主的な判断に過ぎない。作家や民間団体は表現の自由を行使して、表現を公表し続ける権利はある。表現の自由はそれくらい重いものだ。政治的な不公正があったからという程度の理由で当然に撤去されるべきものだと批判する側が考えるのは、根拠がない。

 ちなみに、公的団体のポスターについてはどうか。

 赤十字は「日本赤十字社は国の関連機関ではなく、あくまでも独立した民間の団体」である。なので、当然それは表現の自由の行使の主体となる(出版社や政治団体表現の自由の保護を受けるのは当たり前であるように)。

 となれば、太田が赤十字にモノを言ったというのは、民・民での関係ということになる。市長や首相に請願して、ある表現活動をやめさせるように要請したわけではないのである。

 太田の行為はいかなる意味においても表現の自由の侵害ではない。

 

 公的な団体のポスターを、公的団体に要請して撤去させる行為はどう考えるべきか。

 先に紹介した志田陽子の次の指摘を読んでほしい。

 この「表現の自由」は、一般人に保障される自由である。「公」はこれを保障するための仕事をする側に立っている。……その一環として、自治体が「自然豊かな郷土」とか「非核都市宣言」とか「ヘイトスピーチは許さない」など、その自治体の価値観や政策方針を打ち出し、これを告知するための表現活動をおこなうこともできる。これを広めるために自治体の長がみずから発言することもできる。これは行政サービスの一環としておこなわれることであって、一般人と同じ「表現の自由」によるものではない

 憲法の言葉で言えば、「公」は憲法尊重擁護義務のもとに、「自由」ではなく職務を進めるための「責任」として、さまざまな説明や啓発をおこなっている。公人が公人の立場において発言をするときには、この仕事の一環として発言をしていることになる。

 とくに公人が、正当な権利を行使している人を指してその行為の価値を貶める発言をしたり、排斥的な発言をすることは、人権擁護のための責任(憲法尊重擁護義務)を負う公職として、慎むべき事柄である。(志田前掲p.46-47、強調は引用者)

 一般的に啓発ポスターを公の機関、例えば福岡市がつくったとしよう。それはものすごく単純化して言えば市長が公職として作成していることになる。そして市長は忙しいし、絵が下手なので、職員に任せ、職員も絵が下手なので、それを作家に委託した……というほどのものである。つまりできあがったポスターは、市長の仕事としての成果物であり、それは「表現の自由」を適用しないものである。

 となれば。

 市の責務を果たすものとしてのポスターに対して、市民が政治的公正さの角度からモノを言い、そのポスターをやめるように言うことは十分ありうることだ。市に対する請願と同じであり、憲法で保障された行為である。公権力によってポスターを撤回させることになるが、これは民間に対するものとは区別される必要がある。

 例えば『はだしのゲン』をポスターに使うことを、何らかの「政治的公正さ(自虐史観はおかしい)」を理由にして市長がやめる場合は、「表現の自由を侵す」からけしからんのではなく、市長が考えた「政治的公正さ(自虐史観はおかしい)」が間違っているのではないか、という角度から批判することができるのみである。

 これに対して、美術館に展示されたイラストは違う

 その場合、そのイラストは市長ではなく、あくまで作家のものであるから、市民の意見があったからということを理由に市長の指示で外したりすることは、その作家の表現の自由(厳密には、行政の一定の支援を受ける芸術における「芸術の自由」)を侵すことになる。

 もし、「宇崎ちゃん」が福岡市の美術館に展示されていて、「あれはセクハラだ」という意見をもとに市長がその撤去を命じたら、その市長の行為は文化芸術への干渉になる。

 

このポスターはアウト? セーフ?

 よく宇崎ちゃん献血ポスター擁護派が「じゃあ美術品のヌードはどうなんだ」と持ち出す。

 そうすると「美術館に飾られた芸術作品とは違う」「公衆の面前ではなく限定されている」式の反論が返ってくる。

 しかし、例えば、以下のような新聞広告はどうか。

 

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15日付西日本新聞夕刊

 モローは女性を「男性を誘惑する邪悪な存在」として描き続けた。そのような女性観をモロ出しにした(シャレではない)こんな「歪んだ女性観」にもとづく「扇情的ヌード」を何十万人もの人が読む新聞に載せるというのは「環境型セクハラ」ではないのか?

 

 そして、次のような広告はどうか(架空のものです。念のため)。

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 おそらくこの2つは太田からは批判されまい。

 なぜだろうか。

 それは、美術作品として扱われていることによって、この広告には作品に対する自覚的な取り扱いがある、と考えられているからである。つまり批評的に取り扱われていることがわかるパッケージなのだ。

 逆に言えば、「宇崎ちゃん」の性的なメッセージを無自覚に使っている献血ポスターには太田はモノを言いたくなるのである。「女はおっぱい」というメッセージを強化している可能性について製作側は毫も考えていないかのように思えるから。

 そして、そのような太田の心配はよくわかる。

 「ジェンダー上の不公正を助長する恐れがありますよ」という意見を知っておいてほしいのだろう。言われた方は「あっ、そうなんだ」と思ってくれれば、それで太田の目的は達成されるはずである。

 いや、もしこの2つも太田が「けしからん!」って言ったら、それはどうかしていると思うけど。

 

批判は旺盛に 表現はできるだけ自由に

 先の「思想の自由市場」という比喩からすれば、表現の領域はできるだけ自由であったほうがいい。

 だから批判はどんどんやればいいと思うけど(それは太田による宇崎ちゃん批判も、「平和の少女像」への批判も同様である)、撤去要求は慎重にすべきだ(くりかえすが、民間団体や作家に対しては、絶対にしてはいけないということはない。撤去判断をするのは畢竟作家なのだから)。

 

 左派やリベラルが「政治的不公正を含んでいるからその作品を撤去せよ」というふうに主張するのはあまりうまくない。まあ、世論喚起の問題提起としてはなくはないけど、表現の自由を損なう可能性についてよく考えた上で、要求してほしい。

 政治的不公正を含んでいるという批判の表明は旺盛にすべきだろう。しかしその説明は丁寧に。

 そして根本的には、政治的不公正、例えばジェンダー上の不公正さを批判するポリコレ棒を国民の中にビルトインするような啓発・教育・学習の方にもっと重点をおくべきじゃないのか。そうなれば、自然にそうした不公正な表現は減るし、もし出てきてもそれが虚構上のネタだと受けてもすぐにわかる。

 「地球環境にいいことをしよう」という意識が広がれば、地球環境にやさしい商品が売れて、良くない商品が淘汰されていくようなもので、環境に悪い商品をわざわざ差し止める必要はなくなる。

 

 

付録:ぼくなりに考えた「環境型セクハラ」とまでは言えない理由

 最初に述べた、今回の太田のツイートで言うところの「環境型セクハラ」には今回の「宇崎ちゃん」が該当しないのではないかと考える理由を以下に述べておく。

 以下、必要のない人は別に読まなくていい。

 ILO第190号条約「仕事の世界における暴力とハラスメントの除去に関する条約」では、ハラスメントは「人権を侵害し、あるいは人権を損なう可能性」があるもので環境型セクハラはその一形態であり、働く人の人権を侵す(可能性がある)。

 「『仕事の世界』の問題じゃないだろ」というツッコミはその通りだけど、同条約第3条では職場だけじゃなくて「(f)往復の通勤時」というのも入っているので、まあ、ここはそういう話として進める。*5

 環境型セクハラでよく例にあがるのは次のような「ヌードポスター」の例である(厚生労働省の事業主用啓発パンフから。もともとは「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置についての指針」による)。

 

「環境型セクシュアルハラスメント」とは

労働者の意に反する性的な言動により労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなどその労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じることです。

●典型例

……事務所内にヌードポスター掲示しているため、その労働者が苦痛に感じて業務に専念できないこと。

 

 しかし、例えば、「上目遣いにアヒル口で媚びている女性のポスター」はどうか。「女性を男性に媚びる存在として強調しており、女性の尊厳を侵している」ということから「苦痛であり仕事に集中できない」という訴えがあったら、それは「環境型セクハラ」と言えるだろうか。

 「言えない」と感覚的に思うのではないか。

 つまり「ヌードポスター」から「上目遣いにアヒル口で媚びている女性のポスター」までの間に「水着の女性」「服を着てはいるが、あられもないポーズをしている女性」「巨乳で服を着ている女性」など様々なバリエーションがある。

 

 そして、「『服を着て、巨乳を強調している女性のイラストが掲示されているポスター』が通勤途中にある」というだけでは、法的な意味では「環境型セクハラ」と言えないのではないか(条約による国内法が仮に整備されたとして、このイラスト掲示をハラスメントと断じることはできない)。

 こういうものは社会的な風潮、人間関係などで決まるものだから、一概に言いにくいけども、社会的にこれを「能力の発揮に重大な悪影響が生じるなどその労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じる」ものとするのは難しいだろう。

 「不快」を感じる人には、通勤途中ではなく、職場に貼ってあったら「不快」さの度合いはさらに増すと思うけど、それでもやはりセクハラと断じるまでは難しかろう。

 したがって、環境型セクハラとはまで言えない

*1:言葉の正確な意味で。

*2:現実の人間関係に持ち込んでも良い。許されると合意された現実の人間関係なら。例えば、ある種のセフレみたいな関係は、普段の全面的な人格など関係なく、お互いを性的な存在(さらに言えば巨乳だからセックスしたいと言う理由だけでも十分)とだけ認識しあって関係を楽しむように合意しているわけで、それを他人からとやかく言われる筋合いはない。

*3:くりかえすが「絶対に言わない」とは言い切れない。

*4:なお、「宇崎ちゃんはオタクねらいで効果を上げているんだから問題ない」という意見もあるかもしれないが、赤十字の調査では献血者数(延べ人数)は2010年度の533万人から2017年度473万人と12%減少しており、同期間に16-69歳人口が8878万人から8472万人と5%しか減少(総務省人口推計より)していないことと比べると、献血者数は人口一般の倍以上のペースで減っている。つまりもし今年度のデータが出て献血者数が減っていた場合、“オタクは吸い込まれてきているが、他の層はドン引きしている”という仮説が成り立ってしまう可能性がある。まあそこまで言わなくても、検証なしには「宇崎ちゃんでオタク層が献血にきているから問題なし!」と単純に言うわけにもいかないのである。

*5:ちなみに日本は賛成したが未批准。条約にもとづく国内法は整備されていない。