(性的な話題が以下書かれています)
『文学女子に食べられる』についてもう少し書いておきたい。
↓の記事の続きである。
後輩(女性)が先輩(男性)を誘い、後輩の部屋でベッドに並んで座り語り合う構図、「お耳…… 舐めますね…」というセリフ、体を拘束されて目隠しをされる先輩に後輩が「大丈夫ですよ〜…♡」「怖くないです…♡」「全部気持ち良くなりましょうね〜…♡」と声をかける様子などの一連の要素はものすごく風俗みがある。
風俗のような性技の熟練があるのに、恋愛であるという体裁なのだろう。「風俗のような性技の熟練がある」というのは風俗であるかどうかが重要なことではなく、「男性がイニシアチブや調整・合意を取らなくても、女性があらかじめ性的に積極的・能動的であり、性的な快楽に誘われることが目的とされ、そのことが保証されている」という意味である。
ぼくが『文学女子に食べられる』よりも『文学女子に食べられる2』の方に興奮するのはなぜか。
冒頭。1週間焦らしたのちに二人で会った時に
「この前よりも… もっと… すっごく気持ち良い事して… 可愛がってあげます…」
と後輩が耳元で囁くのは、まさに「男性がイニシアチブや調整・合意を取らなくても、女性があらかじめ性的に積極的・能動的であり、性的な快楽に誘われることが目的とされ、そのことが保証されている」ことの証明である。
現実の女性が「あらかじめ性的に積極的・能動的」であるかどうかはわからない。男性が女性にのような能動性を求めているならそういう能動性を引き出すような駆け引き・やりとりという「努力」が必要だし、そういう「努力」をしたとしても、引き出されてこないことは無論ありうる。当たり前だ。人格を持った生身の人間なのだから。相手はこちらの思い通りのキャラクターではないのだ。
セックスという機会を、自分や相手が性的な対象となり、単なる性的な存在になるということだけのものとして求めるぼくからすれば、一番大事なことはそこで性的な快楽・快感を得ることなのである。
だとすれば、女性の側が「あらかじめ性的に積極的・能動的」であってほしいと強く願うことになる。女性にこうした性的な主体性・能動性を求める動機はこれだけではないかもしれないのだが、今自分についてあれこれ考えてみて、結局こういう理由なのかもしれないと一応の結論を得ている。
なお先輩からのメールを見て「毎日ひとりでシてたの…」もその要素ではあるし、大昔のアダルトビデオとかエロマンガで見たことがあるような気がするセリフなのだが、そこはあまり訴求しない。女性がマスターベーションをすることが昔は重大な秘密事だと思われていたからそういうセリフもインパクトがあったのだろうが、現代ではそうでもないので。
そして後輩がゆっくりとボタンを外して乳房をあらわにするシーンが長く分解されているのにものすごく興奮する。これは単に「おっぱいが好き」という性的嗜好だと思う。
そして、この巻は先輩の乳首を攻めるシーンがすごく多い。
これがおそらくこの巻が好きな最大な理由。これも単に性的嗜好の問題。
ただ、他のマンガではこういうシーンがあっても、1コマないし数コマで終わってしまうのだが、本作ではこの過程が繰り返し描かれている。それだけでなく、乳首のいじり方がいく通りも描かれているのもなかなかお目にかかれない。
一つ目は、指に唾液をつけてそっと触り「つー」と糸をひくパターン。
二つ目は、指の腹で「くちくち」とさわるパターン。
三つ目は、人差し指で「くにくに」と軽くいじるパターン。
四つ目は、口で「ちゅーちゅー」と吸うパターン。
五つ目は、舌先で「れー」(「れろれろ」という舌先のイメージを変化させたもの)と舐めるパターン。
六つ目は、口ないし唇ないし舌ないし歯で「もぐもぐ」と「食べる」=軽く噛むパターン。
七つ目は、舌で積極的に「ぺろぺろ」と舐めるパターン。
八つ目は、一度先輩をイカせて敏感にした後に、やや強く人差し指で「カリカリ」と掻くパターン。
九つ目は、先輩が盛大にイッた後に、仕上げのようにして「ちゅううううううう」と口で吸うパターン。
そして、乳首全体を指で挟んで「ぎゅうううう」と絞るパターン。
こんなにたくさんのバリエーションがあるのだ。先輩の性的な高まりにしたがって後輩が舌や指の動きを変えていることが本当に細やかに伝わってくる。
乳首について「いじめられるの…好き?」という「いじめる」という表現も、そこを偏執狂的に攻撃するような異常なイメージがあって、よく練られていると思う。「いじられる」ではダメなのである。
そして、全く自分の不明であったのだが、ローターとかバイブのような性具って、女性のマスターベーションに使うだけなのでは? と思っていた。
しかし、本作でアナルプラグを先輩に差し込んでそれを外側から「トントン」と指で叩くことで前立腺を刺激している様子を見て「あっ、こう使うんだ」と思った。
そして、それを刺激するために後輩は左手を使ってしまい、右手で先輩の乳首を掻いているので両手がふさがってしまう。
舌は先輩の耳を舐めて快楽を高めるのに忙しい。
つまり口もすでに他の戦線に投入されてしまうのである。
そうすると、先輩の乳首をいじる仕事は、片方「お留守」になってしまう。
そこで、両手・口が相手のできない方の乳首にはローターをつけて快楽を与え続ける。
ローターってこういう使い方もできるのか…と今さらながら知る。
後輩はあえて男根を触らないし、先輩の両手は後ろ手に拘束されているので自分の男根が触れないようにしてあるのも、実に淫靡。
この後、後輩の膝で授乳するかのような姿勢に先輩をさせて、先輩に自分の乳首を吸わせつつ、テンガを使いながら男根に刺激を与えている。
いわゆる直に「手コキ」をするよりも、その方が快感を与えやすいのだろうか。
そして先輩の乳首にはローターがつけっぱなし・動かしっぱなしになっている。
ここでも、性具は両手や口を自由にしながら快楽を与え続けさせる道具として機能していることがわかる。またしても「性具ってこんなふうに使うんだ」と思う。
そして最後の最後でようやく正常位でのカラミになるのだが、指・手・口が快楽を高めるために総動員される。足で締め付けるというのもそのためだったのか、と改めて認識する。全てが快楽のためなのだ。
ただ、それだけでもない。
先輩が「うぁぁぁぁぁ すっ 好きっっ」と叫び、後輩が先輩の頭を撫でながら「好きっ かわいいっ かわいいっ かわいいっ かわいいっ」と叫び返す。あえて、ここでは手や口は直接の快楽のための刺激から外して、精神的な愛撫のために使われている。後輩は紅潮しながら笑っている。
「好き」というのは「愛している」という意味以上に、性欲の高まりをこう表現しているのだろうと思うけど、絶頂近くの表現としてまことにふさわしい。こうした表現は最後の最後でようやくやってくるのである。乱用しない。
ちなみに、セックスの時に叫ぶ「好き」が性衝動の激しさを意味するものでしかない(ことがある)、という気づきはいつまちゃん『来世ではちゃんとします』2巻、p.8で大森桃江とセフレのFくんのセックスシーンで得られたことだった。Fくんのがっつき=性衝動が「好きだ」に変換されている様が大森の悟った苦笑とともに下の2コマではとてもうまく表現されている。
話を元に戻す。
つまり本作、『文学女子に食べられる』『文学女子に食べられる2』は、とてもロジカルにできている。
細かいプロセスや描写が説明的で、論理的なのである。
他のエロマンガではこういうものがすっ飛ばされている。単に「叫べばクライマックス」「授乳ポーズで乳首を吸っていれば母性的」「拘束や道具を使えば背徳的」というものではない。ましてや「乳房が大きければ過剰に女性的」というものでもない(いや、それはぼくの性的嗜好の話に過ぎないのかな…)。
ポルノというのは女性を性的な対象・性的な存在としてみるという風潮を助長するという批判がある。
本作は、「女性を」ではなく、明らかに「男性を」である。ぼくは「先輩」の視点を獲得し、性的対象としてモノのように扱われ、また豊かな人格の全体性を捨象されて、ただの性的な存在に成り果てる。だからこそ、興奮するのである。これもまたポルノである。