あいちトリエンナーレに行った。むろん再開された「表現の不自由展、その後」に行くつもりだったのだが、3回抽選に挑戦し、結局当選できなかった。
抽選を待っている間、愛知芸術文化センター内にある、「表現の不自由展、その後」以外の展示を見て回った。
これは、ぼくの目的からすると、実際に鑑賞してみて、とてもよかった。それは「政治的」であることときわどい境目を接している作品、あるいは「政治的」そのものである作品をたくさん見ることができたし、あるいは「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねないような作品をたくさん見たからである。
その二つの非難はいずれも「表現の不自由展、その後」の作品、とりわけ「平和の少女像」をはじめとする2、3の作品に向けられている言葉である。その非難の境目を曖昧にし、解体してしまう作用をぼくのなかでもたらした。
現代のアートと言われるものが、人の感性に入り込んでそれをざわつかせようと思えば、政治に触れないわけにはいかない。企業あたりが作った「人畜無害」な「絵本」のような“ふんわりしたもの”だけに限定することなどできないはずである。そのような「政治的」かつ「これがアートなの?」的な作品をたくさん見ることができた。
そして、「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねないような作品。〇〇にはいろんな言葉が入る。「プロパガンダ」「インタビュー動画」「描きなぐり」「広告」「いたずら」「教育フィルム」「朗読」……。
山口つばさ『ブルー・ピリオド』に出てくるこの言葉を思い出す。
主人公が同じ講習生が「あれも工夫の一つじゃん」と指摘したのを聞いて、反省する。
また表面的なところで思考停止するところだった
画材って絵の具とオイルのことだと思ってた
絵って思ってたよりずっと自由だ
政治的なもの
例えばこういう作品を見た。体制に反対するなどして暴力を受け、母国や移動先の国にいられなくなった人たちのインタビュー動画である(キャンディス・ブレイツ「ラヴ・ストーリー」/A33)。あまりにも長すぎるので全部を「鑑賞」することはできなかった。
これは、ベネズエラのチェベス政権に反対し、しかも同性愛者である教授のインタビューである。それ以外にもシリアから逃れた女性のインタビュー動画があり、この教授と交互に映像が流れる。
実は、これは演者が語っている「再演」である。*1
この部屋の後ろに、同じ語りを、本人が語っている映像がある。「語る」という行為が客観視され、批評的になる。「語り」に共感し過ぎている自分や、逆に「演技だろう」と距離を置いてしまっている自分を発見することになる。
ただ、奥の部屋の方は吹き替えも字幕もないので、(ぼくのような英語ができない日本人には)その意図があまり果たせていなかった。人も表の部屋ほどいない。ただ、声のトーン、容姿はわかる。写真の同性愛者である教授は、こんなに若く、たくましくない。むしろ年老いて、貧相なのである。演者の見た目、声質に左右されている自分を発見する。
しかし、現実にその鑑賞室はどんなふうになっていたかというと、そんなキレイに、作者の意図通り、鑑賞者たちは“踊らせ”られないのである。
鑑賞する人はこの部屋に釘付けになっていって、人の出入りが他の展示に比べて小さく、このインタビューを長い時間聞いている人が多かったように思えた。つまり暴力を受けた人間のインタビューに強く惹きつけられている状態になったのである。いわば普通のドキュメンタリーを見ていた状態のまま無批評にそこを出る人も少なくなかったように思われる。
この作品は、例えばベネズエラやシリアの最も熱い「政治的なもの」を取り扱っている。政治的であるがゆえに、ぼくらはこの演者の再話映像の前でナイーブに聞き入ってしまわないかどうかテストされるのだと言える。
そして、表の部屋だけで出ていく人がいれば、これは一種の「プロパガンダ」でしかない。あるいは、「ただのドキュメンタリー映像」に過ぎない。
この作品一つをとっても、政治的なものを避けたり、「これは単なる〇〇であって、アートではない」式の非難をしたりすることは、説得力を失ってしまう。
あるいはこれ(タニア・ブルゲラ「10150051」/A30)。
鑑賞者は入り口で手にスタンプを押される。解説を読まない限り、その説明はない。
この数字は2019年に国外へ脱出した難民の数と、脱出が果たせずに亡くなった難民の数の合計だ。
だがそんな数字を見せられても何も心は動かされないだろ?
そこでこの作家はメントールの充満した部屋に鑑賞者を入れて無理やり涙を流させる。実際、俺も「泣いた」。「人間の知覚を通じて『強制的な共感』を呼び起こし、客観的なデータと現実の感情を結びつけるよう試みている」というのだが、この試みが大失敗している(結びつかない)ことによってむしろ数字=抽象化が引き起こす問題を突きつける。
岡崎京子が『リバーズ・エッジ』で語ったように、オゾン層破壊をいくら数字で示しても「だけどそれがどうした? 実感がわかない 現実感がない」(p.13)というのがぼくらの中に絶えず起こる問題なのだ。
「広島を『数において』告発する人びとが、広島に原爆を投下した人とまさに同罪と断定することに、私はなんの躊躇もない」と詩人の石原吉郎(「三つの集約」)は怒りを込めて告発し、その告発の系譜を、こうの史代『夕凪の街 桜の国』も引いているのだ、とする見方もある。
タニア・ブルゲラは、そのような異常を、メントール部屋を企画することで表現している。
人によっては、「これがアート? ただのこじつけでは…?」と思うんじゃないか。少なくとも、河村市長を熱烈支持し、大村知事を非難した、うちの親はそう言うに違いない(決めつけ)。
「難民」の扱いは日本では極めていま「政治的」な問題である。
ここでも、冒頭に述べた、焦げ臭いほどの「政治的」な臭いと、「これがアート?」的な摩擦がある。
あるいは、これ。
袁廣鳴(ユェン・グァンミン)「日常演習」(A20)という作品で、ドローンで都市の上空を飛ばした映像である。
全ての作品をそのように鑑賞したが、まず解説を読まずに展示を見る。その後、戻って解説を読み、再び作品を鑑賞した。
この作品も、まず鑑賞してみた。すると、どこかで見たことがある光景だなあ…という思いが生じ、ビルの文字でどうも中国のようだと思うのだが、ぼくは中国本土に行ったことはない。しかし台湾になら行ったことはある。「ひょっとして台北では?」と思っていたら、河川敷の映像を見て、あっ、これは台北だとほぼ確信する。
台北は人がたくさんいたから、街に一人も人がいないというこの映像がいかに異様かを実感する。早朝に撮ったのかな、とも思ったが、それにしても一人くらい外にいてもよさそうではないか。しかし一人もいないのである。
鳥だけはいる。
まるで、人間だけがいなくなったかのようなSF的な、そして不気味な光景である。
実は、「台湾で1978年より続く『萬安演習』という防空演習を捉えたものです。この演習は毎年春先に実施され、日中の30分間人々は屋内へ退避し、自動車やバイクなどの交通も制限され」るのだという。
ぼくは解説を読んでただちに福岡市で最近行われた北朝鮮のミサイル落下の避難訓練を思い出した。
この不気味さ、異様さは、政治的なものと直ちに結びつく。
なぜなら、高島市政を支持する人や安倍政権を支持する人なら、こう言うのではないか? 「北朝鮮のミサイルが飛ばされていて、そのことに備えるのは当たり前ではないか」。なるほどそれはそうかもしれない。少なくともこの当時はそうだった。
しかし、それを「異様」と感じることまで、その人たちはおそらく文句を言いたいのではないか。「訓練は当たり前・当然なのだから、異様と感じる方がおかしい」と。
だが、例えば、この福岡市での訓練は、核が炸裂して大量の死者が出るというシナリオは決して採用しない。そんなことをすれば世論が大騒ぎになるからである。あくまで政権のシナリオにそった範囲での「訓練」であり、そのために身体と精神を馴致させようとするものなのだ。
その意図だけが強烈に迫ってきて、不気味さ・異様さを覚えるのである。
この作品はある種の「政治的なもの」なのだ。そして、人によってはただ上空をドローンで飛ばしているだけの記録映像であり、「こんなものがアートなのかよ」と思うのではなかろうか。
「これがアートなの?」
「政治的なもの」との際どい境界の上にある、もしくはどっぷりと「政治的なもの」に浸かっている作品はまだまだたくさんあった。紹介しきれないほどである。
「政治的」かどうかは全然別にして、「これがアート?」と思うような作品はたくさんあった。
まあ、もともと現代アートってそういうこと言われがちなもんだろ?
例えば、文谷有佳里の一連の展示作品(A16)は、いかにも素朴にぼくらが想像する「現代アート」である。これはもうぼくにはまったく分からなかった。
ぼくが面白いと思ったのは、例えばこれ(澤田華「Gesture of Rally #1805」/A29)。
あるオフィスの写真に写り込んだ「正体不明のぶよぶよした何か」をあれこれ想像し、その想像結果や調査結果をディスプレイしたという作品で、スライム状のおもちゃでは? とか、鶏肉では? とか、なんだか「オモコロ」あたりのネタブログを読んでいるような気分になった。
他には、石場文子「2と3、もしくはそれ以外(わたしと彼女)」(A09)。
「これ、ただの俺の家の写真やん」と笑い出しそうになる。
輪郭線が写真の上からでなく、現実の物の上に描かれているらしい。すぐに「こんなもんがアートなのかよ」と思うわけだが、そういえば娘が水彩画で絵を描く時、輪郭線をつけたりつけなかったりするとふと思い出す。ぼくも水彩画を描くときに迷う。
黒い縁は現実には存在しないよな、と。
しかし、黒い縁取りを入れたくなるのだ。
色ではなく、縁取り=輪郭線によって世界を再構成しようとする。
輪郭線を入れることで、確かに変な認識の揺らぎがあることは認めざるを得ない。
これらはほんの一部だ。
要するに展示会場には、「政治的」な作品、あるいは「これは単なる〇〇であって、アートではない」と言われかねない作品が溢れている。
会場に行って実際に他の作品を見てみれば、「平和の少女像」だけを区別して「排除」するということの正当性が揺らいでしまうだろう。
最後に
会場には、「日本のアジア侵略を正当化もしくは正当化に利用された戦前のアジア主義の言葉」が「展示」されている(高山明『パブリックスピーチ・プロジェクト』/A60b)。
岡倉天心『東洋の理想』、孫文『大アジア主義』、柳宗悦『朝鮮の友に贈る書』の3つである。映像でテキストが流れ、それを朗読するのが聞けるのである。
とりわけ柳宗悦。
娘が持っていた小学校の歴史教科書に紹介されているのだが、ぼくは全文を読んだことがなかった。
しかしこれは……まさに「あいトリ」のテーマだし、「あいトリ」をめぐって起きた問題だよね!? とびっくりしてしまう。ちょっと紹介してみる。
この頃日に日に貴方がた〔朝鮮〕と私たち〔日本〕とは離れてゆく。近づきたいと思う人情が、離れたいと思う憎しみに還るとは、如何に不自然な出来事であろう。何ものかの心がここに出て、かかる憎しみを自然な愛に戻さねばならぬ。力の日本がかかる和合を齎し得ない事を私は知っている。しかし情の日本はそれを成し就げ得ないであろうか。(カッコと強調は引用者)
想えば私が朝鮮とその民族とに、抑え得ない愛情を感じたのは、その藝術からの衝動に因るのであった。藝術の美はいつも国境を越える。そこは常に心と心とが逢う場所である。そこには人間の幸福な交りがある。いつも心おきなく話し掛ける声が聞えている。藝術は二つの心を結ぶのである。そこは愛の会堂である。藝術において人は争いを知らないのである。互いにわれを忘れるのである。他の心に活きるわれのみがあるのである。美は愛である。わけても朝鮮の民族藝術はかかる情の藝術ではないか。(強調は引用者)
しかし、解説では、孫文・柳・岡倉の3つの文章を次のように紹介している。
アジアの友情と連帯を志し、現代人の情にも訴える名文だが、他者を同化する危険を孕むものでもある
これはあくまで「素材」であって、作家はこれを使って「その後2ヶ月半かけて、3つのテキストは複数のラッパーによって変奏されると同時に、アジア3都市のヒップホップ・コミュニティにも持ち込まれ、それぞれの言語とスタイルに変換される」のだという。
これこそ「政治的」なものそのものであろうが、だからと言ってそこに干渉することは許されない。
「アートは政治的なものやアートでないものとの境界がないのだから、アートには一切公金を支出すべきではない」という主張になれば、一種の論理一貫性は保てる。だけどそれは畢竟「美術館廃止運動」とならざるを得ない。
行政は専門家に選定を委ね、市民は是非をふくめて心を騒がせながら鑑賞するという「行政の中立性」を確保することが一番いいと思う。
ちなみに、会場では津田大介が歩いているのを何度も見た。鑑賞している市民に声をかけられて気さくに話していたり、握手をしていた。
*1:写真の演者はアレック・ボールドウィン。