斎藤幸平+松本卓也編『コモンの「自治」論』

 本書は、「自治研究会」と題された研究会のなかで、各章の著者がそれぞれの現場の「自治」論をもちより、討論を行って完成させたものである。(本書p.277)

 現代資本主義が地球をはじめ人民の共有物=コモンを食いつぶし、切り売りしながら「略奪による蓄積」をすすめるもとで、「自治」の力でコモンを再生しようとする。その問題意識を持った7人の論者による論集である。

 

 

 

 まず白井聡。「大学における『自治』の危機」。

 大学自治論であるが、主に学生自治について書かれている。

 簡単に言えば1990年代初頭くらいまで多くの大学に存在した学生自治のようなあり方がなければ大学の空間は貧しいものになって、若者の主権者としての成熟を阻害してしまう、という議論。

 実は、これはぼくの素朴な実感にピッタリ一致する。

 そうだそうだ! と言いたい。

 だが。

 それは単に、オッサンの「昔はよかった」論ではないのか?

 という気持ちがどうしても拭えないのである。

 ぼくらの頃とは全く違う、学生たちの新しい環境やあり方によって、古い世代にはわからない感覚が育っているのではないだろうか? という気持ちがどこかにあるのだ。だから、学生をめぐる現状の総否定に近い白井の議論は、ちょっと躊躇してしまう。

 

 次に松村圭一郎。「資本主義で『自治』は可能か?——店がともに生きる拠点になる」。

 店、商店とか個人が開くあの「店」。

 店が資本主義を考え直す自治の第一歩になるというのだ。

 本書の中では、彼の議論が一番参考になった(刺激を受けた)かもしれない。

 資本主義とか、市場の新自由主義イデオロギーとか言われると、私たちはひとりでそれにどう立ち向かっていけばよいかわからず、途方に暮れると思います。個人がひとりで資本主義を倒したり、組織的な政治運動を始めたりするなんて、とても自分にはできそうにない。難しくてよくわからない問題に関わるのは面倒なので、人任せにする。その態度の裏には、そんな絶望感が関係しているように思います。

 でもグレーバーがいうように、社会全体がひとつのシステムに覆われつくすことがないならば、すでにその巨大なシステムとは別の動きや働きをしている「すきま」のような小さい場所に目を向けることが、システムそのものに対抗する最初の一歩になりうるのだと思います。

 資本主義のただなかにありながら、資本の論理とはまったく違う形で営まれている店から「自治」を考えてみる。それは、そもそも政治とは、国会や国連総会などの大きな組織的な場でのみ起きていることではない、と発想の転換をすることでもあります。(p.75-76)

 

 岸本聡子。「〈コモン〉と〈ケア〉のミュニシパリズムへ」。

 言わずと知れた杉並区長である。

 ミュニシパリズム(自治体主義)を解説し、そこに〈コモン〉と〈ケア〉の概念をつないでいる。

 実は「参加型予算」について知らなかった。

 バルセロナの例が書いてあるが、住民自身が地域で必要とする事業を提案して、住民投票で選ばれたものが執行されるという。2020年には600をこえる住民投票

 杉並区でも行われており、岸本によれば「日本でも導入している自治体がいくつかあり」(p.111)ということだ。

www.city.suginami.tokyo.jp

 その評価はまだよくわからないが、ぼく自身が調べてみるきっかけにはなった。

 

 次に、木村あや。「武器としての市民科学」。

 市民科学と自治についてだが、専門家独占・官製化した科学ではなく市民が主体となる科学の意義や限界を論じながら、そこに生じるジレンマについて述べる。「科学の民営化ではないか」という批判だ。

ここで述べてきたような新自由主義のジレンマは、市民科学に限られるものではなく、自治的な運動や取り組み一般に言えることかもしれません。というのも、自治的な運動には行政や自治体ではカバーできないような社会問題を、自分たちで解決していこうという側面が強くあるからです。ところが、自分たちの問題を自分たちで解決したり運営したりする運動が、結果的に公的な制度の不足を補完する役割を押しつけられるだけになってしまう。あるいは自己責任の論理に回収されてしまう。市民科学もまた、その例外ではありません。(p.136)

 これは自治会・町内会などで強く感じることだし、「自治」を強調する市民運動が、自助・共助論と親和性を高めてしまうのもよく見かける光景だ。思わず本に「まさに!!」と書きつけてしまった。

 特に明瞭な解決策が木村から提示されるわけではない。

 両者(公的なものと、私的・自治的なもの)の関係を原理的に示すことは本書の役割だったはずだが、そこはあまり成功したとは言えない。

 

 松本卓也。「精神医療とその周辺から『自治』を考える」。

 精神医学から反精神医学運動を経て、ポスト反精神医学(半精神医学)の現在を解説する。まさに弁証法的な発展と言えるが、多くの運動はテーゼからアンチテーゼをへてジンテーゼへと発展してきた。そこに自治という契機が入ってくるのだ。

それは、異質な他者(マイノリティ)を迎え入れはしても自分自身は決して変化することのない社会、つまり「多様性」を単なるお題目として肯定しているに過ぎない社会ではなく、異質な他者を歓迎することによって自分自身が変化する可能性に開かれた社会を構想することにもつながっていきます。(p.176)

はどうにも耳が痛い話である。どんな人・コミュニティでも全く変わらないということはないだろうが、ここで求められている変化は社会の変化と言えるところまでのラディカルな変化だろう。ぼく自身がそのような変化をしているとは到底思えない。

 

 藤原辰史。「食と農から始まる『自治』——権藤成卿自治論の批判の先に」。

 食と農と自治を考える際に、権藤成卿という思想家を取り上げ、この批判的克服を呼びかけている。

 藤原の議論は自治論としてはあまり得るところがなかったのだが、食と農の運動を考えていくうえでは、参考になった。具体的には「食堂付大学」という藤原自身の試みに興味を持った。

 

 最後に斎藤幸平。「『自治』の力を耕す、〈コモン〉の現場」。

 うーん。ここはなかなか微妙であった。

 まず、自治・自由・自律をキーワードにして、現状を批判するありさまは、どうも自己責任や自助、「強い個人・市民」を想起させてしまう。そういう立派な人にならないと社会は改革できないのだろうか?

 社会変革において政治改革に重きをおく思想や行動を「政治主義」として批判するのだが、その際に下からの運動、保守化した世間の価値観を変えさせていく主体の確立を目指そうとする。

 ぼくは「思想を変えさせる」ということや「マイノリティをマジョリティにする」ということに軸が置かれてしまう運動や思想にはどうにも懐疑的になる。いわば教育による人間改造によって社会を変えようとしており、それは無理だろうと思わざるを得ない。

 コスパ思考を批判する言説は心地よい。

 しかし、それで本当に社会が変わるだろうか、と思う。

 いや、そういう思想を無条件に肯定せよとは思わない。しかしそれを否定することで社会変革をするという描き方には無理がある。

 斎藤は中央集権型の運動(民主集中制をそこでは取り上げている)を20世紀型として批判し、水平型の運動を提起する。

 しかし、「水平型」の運動が単純にうまく機能するかと言えば、必ずしもそうではない。実際にオキュパイ運動の失敗などから、斎藤自身もそれを修正せざるを得なくなっている。完全水平は完全分散になってしまい、力が発揮できないのだ。

 結局、斎藤が修正して落ち着いた地点というのは、ネグリ・ハートのマルチチュード概念を足場にして、“戦略は指導部、戦術は現場”ではなく、戦略を大衆が考え、指導部がそれを代表して動く、というものだった。

 しかし斎藤が批判する「20世紀型の前衛党」であっても、「いやあ、それならうちもやっていますよ」とたぶん言うだろう。実態がそのようになっていないではないか、という批判はあるかもしれない。しかし、原理的・理論的にはそのような方向を向いているのである。

 だから、まったく新しい組織を無から作り出すべきなのかと言えば、そうではなく、現在ある政党や団体を改良・改造してそういうものにしていっても全然いいんじゃないかと思った次第。

 ただ、それでも斎藤が紹介している自律的市民像は、少なくとも左翼が政党を運営していく際には必要なメンタリティではないかなとは感じた。民主主義において本当に自分の頭で考える市民でなければ、21世紀に対応した政党運営などできはしない。上が言ったことだからと言って無批判に従うクセ、自分で考えたと言いながら自分では何も考えていない怠惰、戦略を考えるのは上の人の仕事で自分は現場で戦術を考えるだけという悪慣れ、大勢に逆らって意見を言うことのできる勇気のなさ……こうしたものの克服は実際には並大抵のことではない。

 斎藤が紹介した哲学者カストリアディスの言葉が重い。

カストリアディスは言います。宗教も伝統も環境も、人間が自分たちでつくり出したものとして反省できるのが近代の自律の特徴である。ところが、規範や法を、神や自然、t歴史、先祖などによって与えられたものとみなしてしまう社会が今でも多い。そんな社会は、他律的な社会である、と。(p.264)

 そうなんだよ。

 小学校の時から規範や法をあたかも所与のものとして、神や自然、歴史のような変えられないものとして教えられる。

 左翼の中でさえこれはある。「そんなことはない。俺たちは歴史や社会の変革に挑んでいる」と言うかもしれないが、組織決定や組織ルールをあたかも「神や自然、歴史のように(自分には)変えられないもの」と思っているふしはないだろうか。

 「人の作ったものは人が変えられる」という近代草創期の楽観を今こそ取り戻すべきだ。

 斎藤は自治の精神、自治アントレプレナーシップを強調する。

 うん、活動家の心構えとしてはわかるけども、これは広く社会を変える力になるかどうかはわからない。あまり強調しすぎれば、やはり教育による人間改造を社会変革の契機にしてしまうことになる。

 ただ、斎藤は、そのような自治をまずは身近なレベルから始めてみようではないかという、岸本や松村の議論の立場に立ち返る。まあこれはぼくも賛成だ。政治や社会を変えるという確信をまずは小さなレベルから始めてみるし、それが運動にとっても大事なことだというのは同意できる。

 

 というわけで、書いてあることは同意できることばかりではない。

 しかし、いろいろと考えることが多い本ではあった。