ぼくのかんがえたさいきょうのてんのうせい

 日本国憲法第1条は

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く

 っていう具合に「日本国民の総意に基く」わけだから、天皇という制度自体はそもそも基本的人権や平和主義のように「永遠に」動かせない原則じゃなくて、国民の意思で憲法を変えて制度をなくしたり根本的に変更したりすることもできる。

 だけど、憲法を変えず、今の憲法の範囲内でも、「日本国民の総意に基」いて、天皇のあり方をもっと自由にデザインできるし、してもいいんじゃねーか。

 めざすところは、

  1. 天皇個人・皇室のメンバーをもう少し自由に生きさせてあげたい。人としての尊厳=人権を保障するというか。
  2. 明治憲法を引きずるような神的性格・権威的性格を削って、実権のない、しかし親しみと実感のわくシンボルとしての役目=「1日駅長」「〇〇県ぶどう大使」くらいのゆるさにしたい。
  3. 政治家が政治利用をできないようにしながら、同時にその地位が国民の総意に基づくことを制度上きちんと組み入れたい。
  4. 「こいつこそ、ニッポン!」的な統合象徴性はできれば大事にしたい。

といったあたりだ。憲法で定まっていないことは、法律や皇室典範を変えたらいいんだから、思い切ってそこをゆるやかにやるべきだということである。

 

天皇をやめられる・キョヒれる

 まず、天皇がイヤになったら・しんどくなったら交代できる、お休みできる。そういう制度にしたい。即位も拒める。老舗の跡継ぎじゃないんだから「将来はお前に店をまかすぞ」ってな具合に人生を縛られるのは誰でもイヤだろう。

 そこで、女性天皇女系天皇などを取り入れる。

 だけど、それでも順番を強制的に回される方はたまったもんじゃない。「え、〇〇宮がイヤって言ってんの? じゃ、じゃあ次は俺しかいないじゃん!! ちょ、待って待って待って待って。やだよ、おれ……やりたいことあるもん」。

 町内会の輪番、PTAの役員と同じである。 

 

養子をOKにする

 しかし、そこでネックになるのが第2条だろう。

皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

 世襲かあ。世襲じゃあなあ。

 たとえ女子や女系を許容しても、受け継げるメンバーは限られてしまう。

 そこで養子ですよ。

 皇室典範第9条、

天皇及び皇族は、養子をすることができない。

 を変えればいい。まあ、養子構想ってすでにあるみたいなんだけどね。

 民間人で天皇になりたい人がいたら手を挙げてもらって、民主的な手続きでそれを決めて、養子縁組をするのである。歌舞伎の芸養子っぽく。

 AKBメンバーとか、スーパーボランティアの人とか、清原和博とか、ホリエモンとか、イチローとかが手をあげるのである(決め方は後で言う)。

 そして、そういう民間人出身の天皇は、退位後天皇家にいたくなければ離脱する(養子離縁)。

 

天皇を休める

 「しばらく天皇、休みたい」。

 そういう場合は、摂政にやってもらうのである。

 摂政は皇室典範第16条で

第1項 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。
第2項 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。

となっているんだけど、これでは摂政を置く条件が狭すぎる。これを例えば「天皇が、やむを得ない事情で、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く」とかに改正したらいいのでは。

 

天皇について選挙する

 今の天皇の制度は、天皇になる順番をあらかじめ厳格に決め、有無を言わさず生物的に死ぬまで天皇をやらせるところがあって、それゆえに政治が介入する余地が少ない。つまり首相などの政治家が国民にウケるタイミングで即位させたり、気に入らない天皇を退位させたりといった具合に、皇位継承や退位などで政治利用しにくいのである。

 これを皇族や天皇の自由意志でやらせたり養子を取ったりするようになると、今度は政治利用の可能性が高まってしまう。

 そのあたりのジレンマをどうするか。

 そこで、天皇の選挙、もしくは信任投票をしたら?

 3人くらいの候補者の中から選ぶ。

 もしくは1人について信任投票する。

 最高裁裁判官みたいに、直近の国政選挙のときに一緒にやる形で。

 まあ、元来皇室の人は信任投票にして、民間人出身で養子を取る場合は選挙にしたらいいのでは。

 こうすれば、政治家による政治利用も防げて、「日本国民の総意に基く」も制度に組み入れられるわけですよ!

 本当は退位もそういう選挙で認めるかどうか決めるのがいいんだけど、そこまでやると「もうしんどいからやめさせて……」的なことが無理になるので。そこは内閣が出したオッケーが政治利用でなかったかどうかを国政選挙で審判下すしかないわな。

 

 ここまでで、「ぼくのかんがえたさいきょうのてんのうせい」はだいたい終わり。

 あとは、「できれば実行したら?」程度のプラスアルファの提案。 

 

プラスアルファ1:国事行為だけやってね

 天皇の仕事は、本来、憲法に定められた「国事行為」だけにすべきだ。

 それ以外は「公的行為」とされている。例えば共産党だって、公的行為は“憲法の範囲を逸脱しないものはいい”という形で認めている。「公的行為」を認めるという憲法学者は「国事行為の憲法のリストはあくまで『例えば』ってことだから、それ以外もやっていい」と言っている。

 しかし、「公的行為」なんて憲法には規定されていない。「公的行為」なんて認めない、という憲法学者も少なくない。

 憲法第4条はわりとはっきり書いてある。

天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

 だから国事行為以外をやめさせたほうがいい。

 

プラスアルファ2:ニッポンの象徴にふさわしく

 「これぞニッポン」的な象徴のあり方を模索してほしい。

 さてここが難問である。

 例えば、民間養子天皇の場合、AKBメンバーが天皇になったり、スーパーボランティアが天皇になったりする。「オタクこそ今の日本だ」と思えばAKBのメンバーがやってもいい。スーパーボランティアの精神こそ日本的だと思うなら、尾畠さんみたいな人がやってもいい。天皇の仕事は憲法通りだから、国事行為しかやることはない。それ以上はやらなくていい。やってはいかん。でも、こういう元民間人の養子天皇の場合はすでにイメージがあるので、国事行為だけこなしていても大丈夫である。

 しかし、もともと皇室の人、つまり生まれながらに天皇家の人は、なかなかそういう具体的な象徴性を示しにくい。

 「天皇家の人というだけでいいじゃないか」という人がいるかと思うが、前天皇明仁)はそこから脱却し、狭義の「国事行為」のみならず、いろいろ「公的行為」を駆使して動き回って、「感情労働」をこなすことで「平和憲法の理念を受け継ぐ象徴」という、国民全体はもとより、左翼の中でもけっこう人気の統合イメージを得たわけだから、「公的行為」を禁じた上で「天皇家の人というだけでいいじゃないか」とするのは、何となく抵抗を覚えてしまうのである。

 だけど、しょうがないよね。そこは、がまんしてください。

 まあ、どうしてもっていうなら……「公的行為」を多少認めてもいいけど。

 

プラスアルファ3:元号をやめる

 「明仁天皇やめるってよ」みたいなことが頻繁に起きるかもしれないので、元号はコロコロ変わってしまう可能性がある。

 昔の元号みたい。ウィキペディアとかで確認しただけど、2年とかで変わるもんな。特に鎌倉時代のひどさに草。2年で終わった元号が12もある。「天福2年」だってw   三波伸介かよ。

 だから元号の公式利用をもうやめる。混乱するだけなので。西暦だけにする。

 元号は、天皇家が私的に発表するだけにしておく。LINEのメッセージとかでさりげなく使うと、「お、マニアなもん、知ってるね」みたいに、ちょっとおしゃれでプレミアなクール感☆が漂うかも!

 

 

大塚英志の問題提起

 大塚英志は『感情天皇論』(ちくま新書)のなかで、前天皇が「象徴としてのお務め」をビデオメッセージで発し「お気持ち」を表明した時、国民がそのメッセージを事実上スルーしたという旨のことを次のように書いていた(強調は引用者)。

 

この「お気持ち」発言をめぐって顕わになったのは、私たちが戦後憲法下における天皇について「考え」たくないという、「意志」でなく「感情」の国民的共有であった。それは、象徴天皇日本国憲法の定める「国民の統合の象徴」であるのなら、天皇が可能にする「国民の統合」という公共性のあり方について主権者である私たちはそもそも考えたくないぞ、というサボタージュの選択だった、と言える。(大塚前掲書、Kindle の位置No.83-87)

 

 大塚はこの本の中で、統合の象徴という公共性のあり方を主権者としてもっと議論しろよ、という問題提起からまず始めている。天皇は統合の象徴であることを担わされているのに、国事行為しかできないのではその役割は果たせないじゃん、という矛盾を指摘している。

 

感情天皇論 (ちくま新書)

感情天皇論 (ちくま新書)

 

 

 大塚は「公共性」を、近代になって生まれた課題だとして、

「村から東京にやってきたら、隣の人が何を考えているかも分からない。そういう状態から、社会はどうあるべきかという公共性をつくらなければいけなかった」(東京新聞2019年5月18日付)

と捉えているから、むしろドライに国事行為だけをこなす存在にしてもいいと思っているのかもしれないけど。でもそうすると「統合の象徴」という文言が死文化しちゃうんだよね。被災地に行く天皇をマスコミが映す、平和の慰霊をする天皇の姿をメディアが流すから、そして明仁は必死でそこに努力(大塚の謂で言えば、「感情労働」)したから「統合の象徴」っていうのは平成になってもなんとか保たれてきたわけだ。

 大塚は本書の終わりで、こうした矛盾を解決せず、人間疎外を引き起こす「感情労働」を天皇個人に課し続ける天皇制を「断念」すること、天皇を日本から切り離してバチカン化する方向を示している。詳しくは大塚の本を読んでほしい。

 大塚がそう言わざるを得ないのは、天皇制について国民の総意を確認する方法がないからである。

「国民の総意」に基づく「統合の象徴」としての天皇が置かれてしまった。「総意」を確かめる手続きは憲法に示されない。これは、大きな問題だ。難癖をつけているのではない。手続きを経ない合意形成は、議会制民主主義が目指す公共性形成の手続きと相容れないからだ。(大塚前掲書、Kindle の位置No.3341-3344)

 ぼくがあげた「さいきょうのてんのうせい」のモデル(天皇選挙)のようにすれば、その確認の手続きはできるのではないか?

 

 まあ、ぼくがあげた「さいきょうのてんのうせい」のモデルには「それは現行憲法では無理だよ」というものもあるかもしれない。あるいは「この点は許せない」「さらに問題がひどくなる」というのもあるかもしれない。むしろそういうツッコミが聞きたいような気がする。

 

 いずれにせよ、現憲法下の天皇のあり方は固定的に考えずに、もっと自由に議論してもいいんじゃなかろうか。今のくらいで十分じゃない? 親しみやすいよ、という結論になってもそれはそれでいい。