人工知能学会誌の表紙のこと


 くだんの人工知能学会誌の表紙の件。

人工知能学会の表紙は女性蔑視? - Togetterまとめ 人工知能学会の表紙は女性蔑視? - Togetterまとめ

 ぼくのスタンスは、基本的にツイートで書いたとおり。

激萌えする。だが女性差別という批判もわかる。ぼくにも性意識の歪みってあるもん。どんな表現(とその支持)も大なり小なりの暴力性を含んでいるという自覚がないとマズいよね。 / “人工知能学会の表紙は女性蔑視? - Togetterまとめ” http://htn.to/4Pdyiw

https://twitter.com/kamiyakousetsu/status/416368425619832832


 この表紙、大好きである。
 そして、その「大好き」という意識を分解してみると、性欲的なものが入っているかといえば入っている。セクサロイドまでまっすぐに想像することはなかったけど、それにつながっているものはあった。
 他にも「美人」とか「スレンダー」とかいう要素がよかった。認めたくはないが「知的そうなのに従順」という要素もなかったとは言い切れない。


 リアルでAさんという女性がいたとして、ぼくがAさんを自分のパートナーに選ぶのか、とか、Aさんの人間的価値をどこで図るかといえば、そういう基準ではない。人格全体の交流のなかで、相手に人間的に好意を持つ。*1


 他方で、絵・写真・映像は部分的である。ある瞬間・ある時間幅・ある空間幅が切り取られている。
 「性的」「美人」「スレンダー」「知的」「従順」みたいな要素をかぎとって表紙の女性を好きになったとすれば、それは絵からごく一部を切り取ってそれを拡大したためである。全体性のある人間から、ごく一部を切り取って拡大し、それをあたかもその人の全体であるかのように印象づけるのは、一種の暴力性をもつ。
 同じ女性を撮った写真でも、撮り方によって、「扇情的なポルノ」にみえたり「やさしいお姉さん」にみえたりする。女性の人格のどの部分を切り取って提示するかということなのだが、全人格的なはずの人間が、性的な人間でしかないように描かれるからこそポルノは批判されるが、ポルノでなかったとしても、写真や映像は全体の一部しか切り取ることはできず、どうやっても暴力性を帯びる。大なり小なりの。

撮影行為そのもののなかにひそんでいる、この攻撃性、さらに過激な暴力性。ファインダーのなかの女たちを徹底して突き放し、モノとして認識し、奪おうとする意志の鋭利な露出。簡単に撮れるカメラはその攻撃性に従順に反応し、一枚の映像として切り取り、撮影者を勝ち誇らせる。その攻撃性と暴力性を解放する。(吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』p.179)


 切り取られた部分的なものが暴力性を多少なりとも帯びてしまうのは、世の中に流れている価値観のどれかを補強してしまうからである。
 たとえば下のような無害極まると思えるイラストだって、「“子どもは元気で明るく”というステロタイプの理解にうんざりする」という不快さを表明することはできなくはない。
http://kids.wanpug.com/illust43.html

 今回問題になった美少女のイラストということになれば、なおさらだろう。それが男権的社会の価値をナイーブに、無意識に、強化してしまうということは十分にありうる。たとえば、先ほどぼくがあげたような「性的」「美人」「スレンダー」「知的」「従順」の要素だ。家事労働を押し付けられている、というイメージはぼく自身はほとんど感じなかったが、まあ、それも加えてもいい。


 作品は誰が描いたとしても(撮影したとしても)、いったん作者の手を離れれば独立して歩き出す。(もちろん、描き手の物語が強烈に付け加わっているのなら、それコミで作品は独りで動き出すのだが。たとえば「障害者が描いた障害者攻撃のマンガ」みたいなのがあれば、やはり描き手の情報コミで作品が社会に投じられるだろう)。だから、このイラストを女性が描いたか、男性が描いたか、もしくはどういう意図や経緯で描かれたかは今のところあまり関係ないと思う。


 ゆえに、「このイラストは、ある種の男性の歪んだ性的欲望に奉仕している部分がある」というような批判があるとすれば、それはある程度うなづけるものだ。断じてない、とはぼくは言い切れない。当初この絵に対する批判ツイートがいくつかあって、それをそのまま支持することはできないが、一定の方向性は共有できる。


 そのこと自体には自覚的でありたいし、謙虚でありたい。
 「そんな気持ちは毛頭ない」「言いがかりだ」と本気でいえる、何の歪みもない人もいるだろうが、実際にはそうでない人は少なくないだろう。本当は自分の中に抱えている歪みを見ずにそういう批判を素通りするのはいかがなものか。


 そのうえで。


 「表現してはいけないレベルかどうか」という問題に移る。
 それはない。
 表現を法的に禁止される(たとえば名誉毀損とか猥褻とか)という話は言うに及ばず、自主的に控えなければならないとかいうラインさえ、もっとはるかに向こうである。


 自主的に控えるべきラインがどこかということは、本人の美意識の中だけであろう。たとえば韓国人を揶揄するマンガを描くかどうかは、本人がそれを美しいと思うかどうかにかかっている。他方で、たとえば安倍総理ヒトラーに似せた絵を描くかどうかも同じ問題である。


 もし今回のイラストについて、作者が「これはある種の男性の性的な歪んだ欲望を投影したものだ」という認識に達したとしても、そういう自覚を持ちつつも絵を撤回すべきような美意識を持ってほしいとは到底思わない。


 別の言い方をすれば、暴力性を含んでいるが、相当に小さなもので、世の中にありふれたものだ、ということである。「ありふれたものだからその部分も免罪される」ということにはならないが。*2


政治的に正しいおとぎ話 歪みのあるものがすべて「許されない」とすれば、すべてをポリティカル・コレクトネスで裁断することになり、『政治的に正しいおとぎ話』になってしまうだろう。
 表現はどれほど俗悪であっても、他人の権利をおびやかすまでギリギリ自由であるべきだ。もちろん批判も自由である。それが長い目で見て社会を民主主義的にし、健全にする。だから、不快だと思う人がいても発表することには大義がある。


 だから、これは「描くな」とか「撤回しろ」とかそういうレベルの話ではない。
 「性的な歪みがある」という批判はありえるな、という程度である。ただ、それは世の中のイラストの多くがそのような歪みを持っている。ことさらこれだけが歪んでいるというものでもない。(くり返すが、だといって、その小さな暴力性自体に開き直ることは許されない。)


 そのうえで、「学会誌の表紙であったことの妥当性」という問題が論じられているが、これはもう別の問題である。
 学会がどんなイメージを強調したいかということなんだから、学会の人たちにしかわからないし決められない(たとえば「ものすごく堅実なイメージでいきたい」という学会の合意があるとしたら、今回の絵の起用は、全然別の理由でこれは場違いだったことになる)。
 そういう合意が何もなかった場合はどうか。そのときは一般の雑誌と同じになるのだから、ぼくが上記に述べたのと同じ問題になるわけで、性的な歪みがこの絵には入り込んでいると認めたとしても、「学会誌だから控えるべきだった」とか、「撤回すべきだった」ということにはならないだろう。

*1:いい子ぶってこう言ってるつうより、全体性で選ばないとリスキーでしょ。数十年歩むであろうパートナーとの生活が控えているのに、「胸がデカいから結婚した」とかある意味ですごく勇気があると思う。

*2:「暴力性は小さい」と言ってしまう時点でまったく謙虚ではないと言われそうだが、それは甘受するしかない。ぼくには本件が「大きな暴力性である」とまでは思えなかった。