花津ハナヨ『情熱のアレ 夫婦編 夫婦はレスになってから!』

 夫婦の間のセックスやセックスレス、不倫を描いたマンガがいろいろあるんだけど、花津ハナヨ『情熱のアレ 夫婦編 夫婦はレスになってから!』に出てくる会話や温度感覚が自分にぴったり照準が合っていて、なんども読み返してしまう。

【おまけ描き下ろし付き】情熱のアレ 夫婦編 ~夫婦はレスになってから!~ 1 (Love Silky)

 主人公の美雨と、パートナーの直太朗の夫婦(幼稚園に通う娘が一人いる)の物語で、この夫婦にはすでに4年間セックスがない。

 思ったことを3つほど書く。

 

手作り工作としてのセックス

 一つは、「セックスレスを超えて5年ぶりに夫とセックスをしたら、それはもう自分と夫が作り上げたセックスではなくなっていた」件。「浮気」確定だと美雨に悟られてしまうのである。

 直太朗は美雨と付き合い始めた当初は自信なさげで、どうやったら快感を得られるのか、というか、お互いにとってどこが気持ちいいのかを手探りで作り上げていく共同作業としてセックスができていた。

 ところが、5年ぶりに再開させたセックスは

私たち二人が作ったものじゃなくなって

彼が他の人と作ったものとなっていました

 という。

 うわー、そりゃホラーだ、と思う一方で、セックスというのは本来そういうもので「ハンドクラフトとしてのセックス」であることが普遍的なのだと改めて感じた。

 特定の相手とのセックスというのは、ミリ単位の微細なズレを修正して作り上げていく精巧な工作に似ている。だから出来上がったフォルムというのは、いかに「一般的な姿」、例えば映画やビデオで見るようなものと比べると奇妙奇天烈な形になっていても、それがそのカップルに合っているのなら、そのカップルに十二分にカスタマイズされた姿なのであって、そこでは「一般性」は何の意味も持たない。

 一夫一婦制のもとでのセックスって、このようにいつでも手作り工作みがあるわけだが、そこには、その特殊なセックスのあり方、つまりある種の「狭さ」を批判する材料がないのだとも言える。他から学んできて自分たちのセックスはもっとこういうふうに改善できるのではないか、ということが基本的にないからだ。

 昔つきあった人たちのセックスと比較して、現在のパートナーとのセックスを批評的に考えることはできるだけども、せいぜいその範囲である。

 不倫や風俗によって日常的に比較の材料を得ることができる条件があれば別だが、一夫一婦制のもとでは基本的に禁止されている。

 あとは、知識として仕入れてくるくらいになる。

 そういう本はいろいろある。ネットにもそうした知識が出ている。だけどそれを積極的に取り入れて実際の改善に結びつけるというのは、相当な意識的努力が必要なんじゃなかろうか。しかも性的なタブーが世の中にはあるから、そんな努力をしている人は稀有ではないのかと思う。

 「いや、別に改善なんかしなくても、そのカップルが二人で(文字通り)手探りで作ってきたセックスがあればそれでいいのでは?」という結論になるわけだけど、不幸にしてその工作物が不具合であったら、(ふーん、セックスってこんなもんか…あんまり面白くないね)ってな感じでそのままセックスレスになるってこともあるんじゃないのだろうか。セックスレスになってもそれでカップルが続いていけばそれでいいけど、セックスがないことによって失われる円滑さもあるんじゃないかとも思うのだ。

 

 美雨の場合、セックスが回復したことでいろいろうまくいくようになった夫婦仲や家族関係というものがまさにそれだと思うのだが、美雨は「じゃあセックスを我慢して受け入れていればよかったのだろうか…」と悶々とする。それに対して、幼稚園のママ友から、そういう努力している美雨の姿、トライ&エラーを繰り返す美雨の姿は「好きだ」と言われ、結びつきが強くなった美雨・直太朗のカップルの姿を賞賛される。「正解ってひとつじゃないよね」と言われるのである。

 

 ぼくはセックスを改善する機会を得たいと思う派である。

 本作では美雨のママ友(マキ・王子)カップルが得難い話し相手になる。このカップルは実は前作『情熱のアレ』の主人公カップルの「その後」なのであるが、少なくとも1〜2巻までは美雨・直太朗夫婦の問題をあぶり出すための、ある種の理想モデルのように扱われている。(「王子」はあだ名。「王子様」の意味)

 マキ・王子夫婦は、セックスグッズを扱う会社で働いているから、ある種の「専門家」であるし、そういう話題にも慣れている…っていう設定である。

 性の話題を振っても引かれない。フランクに性が話題になる。

 そしてテキトーではなく、専門的で、公正な意見が返ってくる。

  あ〜こういう友達が欲しい〜と思ってしまった。

 

セックスする権利

 二つ目は「セックスする権利」について。

 その王子・マキ夫婦が珍しくケンカをするのだが、その原因がセックスなのである。

 王子はストレートにマキに次のように要求する。

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花津ハナヨ『情熱のアレ 夫婦編』2、白泉社、kindle95/207

 このコマだけ見ると、王子の表情といい、自信を持った断定調といい、何だよ何様だよお前はパートナーに「セックスする権利」を主張できると思ってんのかよと思ってしまうコマである。

 しかし、よく読めば必ずしもそうではない、単純にそうとも言えないことがわかる。

 王子の要求はできれば毎日セックスがしたい、だけど妥協して週1回にしているのだという。

 マキによれば王子とのセックスは「フルコース」のようなもので、美味しいけど毎日食べるのは…というものである。その上、マキの昼間の仕事が繁忙期で体力を温存しておきたい。 王子もそれをわかっているからずっと何も言わなかったのだが、ついにトラブルになったのだという。

 いわば、王子はセックスについて粘り強く交渉を続けてきたが、ついに爆発させてしまって、上記のようなキツい表情のコマになったということなのである。王子は傷ついていた、ということである。

 

 アムネスティ日本が、買春に関して金銭を払ったからという理由で「権利としてのセックス」を要求することを批判している

いかなるセックスも同意がなければならないということだ。権利としてセックスを要求することは、誰にも許されない。

 これは買春に関わってのテーゼだけども「誰にも許されない」とあるように、たとえ夫婦間であっても事情は同じだろう。夫婦であるという理由でセックス権があらかじめあるわけではない。

 だから、このコマを最初に見たとき、「あっ、これは『セックスする権利』じゃねーの!?」と思ってドキリとした。しかしよく読めば、王子の爆発の、やや不公正な表現であったわけである。

 奇妙なもので、王子のこのセリフ自体は、マキに対する交渉としてはアリだとぼくは思う。つまり「セックスの回数が少ないから考慮してほしい」と表明すること、そして「あなたが応じる気がないなら、あなたが合意しさえすれば『外』で自分は満たしてくる」と表明することは。

 どちらも相手の判断や合意を無視して、自分の権利として主張し行使してしまうと全く誤ったものになる。それくらい微妙なセリフだと思う。

 逆に言えば、こうした王子とマキの交渉はぼくから見て非常に理想的なものである。本来セックスの回数についてこうした公然たる交渉が行われるべきではないだろうか。

セックスのことで話し合うって発想なかったな…

とこの王子・マキの話を聞いた直太朗がつぶやくのは、非常に重要な気づきである。

 

「女として扱われたい」

 三つ目は「女として扱われたい」という言葉。

 2巻で、美雨は、バイト先のマッサージ店の店長の飲み会に合流して、全く知らない男女、しかし気さくな人たちとセックスについての話をする。

 ためていることを吐き出すためにもらった時間で、美雨はその飲み会参加者にこんなことを告白する。

「さっき要さん(飲み会の参加者)に『赤塚さん(店長)に手ェ出されてない?』って言われたのがうれしかった」

 そして告白中に自分で気づく。

「だってもうそういう対象として見られることないって思ってたから……  あ」

「ん?」

「私“お母さん”になったから自分で女の気配を消していたくせに 女扱いされたかったんだな…」

 

 「女扱いされる」。

 ここでは必ずしも自分のステディである直太朗に「女扱い」=性的対象として見られることに限定されていない。

 女性を性的対象としてとらえることには、特に最近厳しい風潮がある。

 拙著『不快な表現をやめさせたい!?』でも述べたけど、女性のさまざまな人格の側面のうち、性的な側面だけを取り出して、モノのように扱うことは女性を二級市民として扱う風潮を助長させるだろう。*1

不快な表現をやめさせたい!?

 

 しかしだからと言って、「性的な対象として見られたくない」「性的な存在として扱われたくない」というわけではない人もいる・シチュエーションもあるのである。「性的な自分もいるよ」と声をあげたいのである。

 「はっ! 性的に見るなって言ったり、見ろって言ったり、一体どっちなんだよ!」という声が聞こえてきそうだが、「性的にだけ見るな。だけど性的な一面もある全面的な人間だっていうことも知ってほしい。そういう当たり前の気持ちなんだよ」と反論されるだろう。

 美雨はそう告白して涙を流してしまうのだが、性的な自分をどう表現したらいいかわからない、むしろ過重とも言える性的表現へのストレスが美雨を追い詰めている。

 

ちょうどいい温度

 以上である。

 セックスレスや不倫を扱うマンガ作品はいろいろある。そこには必ず「恋愛」的な要素が入り込むので、どうしても主人公が陶然となったり、逆にロマンチックにシリアスになったり、あるいは真面目な文脈で深刻になったりしてしまう。

 もちろん、読者としてそこにハマれば、そうした感情を深く沈みこませる描き方に共感できる。実際ぼくはそのようにして楽しんでいる。しかし、読者によっては、そこから少しでもズレてしまうと、自分にはどうでもいい他人の恋愛や家庭事情を見ているような気になってしまう場合もある。

 「勝手にやってろ」と。*2

 

 ところが、本作の花津の作風はどこかしらギャグっぽい。マヌケなコミックエッセイのようなゆるさがあって、いつも一歩引いて見ているような視線で読めるのである。万人にとって「読みやすい」のではないかと感じる。

*1:と言ってもその本で書いたように、そうした表現を規制することには必ずしも賛成しない。

*2:韓国ドラマ「ロマンスは別冊付録」を見たとき、主人公の女性〔イ・ナヨン〕の労働実態や女性の地位、あるいは出版社としての物語には大いに興味をそそられたのだが、その女性と男性〔イ・ジョンソク〕との恋愛のイチャイチャ描写には自分でもびっくりするほど関心が持てなかった。『僕の心のヤバイやつ』の男性主人公の暗さ・僻みっぽさはそのまんま自分を投影できて、主人公がクラスの女子といい関係になるたびに「ふぉぉぉぉ…」と心が踊ってしまうのだが、イ・ジョンソク自身、およびその役柄くらいハイスペック(イケメン・作家・大学教授・出版社編集長)になるとたぶん(ぼくと)違いすぎて(ぼくが)全然入り込めないんだと思う。