「ジャンプお色気♡騒動」に思う

 これな。

ジャンプお色気♡騒動。【法律家版】 - Togetterまとめ ジャンプお色気♡騒動。【法律家版】 - Togetterまとめ

ゆらぎ荘の幽奈さん 1 (ジャンプコミックス) ぼくもエロマンガを読み、そして「楽しんで」いるし、(エロマンガとはとても分類できないが)今回槍玉にあげられた『ゆらぎ荘の幽奈さん』は、小4の娘も愛読している。

「そのまま真似る」ということはない

 まず、「子どもが性暴力マンガを読んで、性暴力をそのまま真似る」かどうかという問題(「そのまま」がミソ)。ここにはそう難しい問題はない。
 感覚的には、小学校に入ってからは、だいたい虚構と現実の区別はつくだろう、ある程度わかってないやつがいたとしても、小3〜小4くらいには大丈夫だろ、という感じ。
 わかっていなくて、『ゆらぎ荘の幽奈さん』読んで、おっぱい揉むのはキモチよさそうなので、やってしまいそうな男の子とかいるかもしれん。
 そういうコは、「有害マンガ」をとりあげるんじゃなくて、性暴力はいけないということを実際に教えたほうがよい。まあ、そのさいは性にあまり否定的な印象を残さないように、性がすばらしいものだっていうこととセットにして教えたほうがいいと思うが。


わたしのはなし (おかあさんとみる性の本) 絵本とか啓発系マンガも役に立つ。
 ぼくが娘に小学校に入る前にあげた2冊。
 『ぼくのはなし』『わたしのはなし』。
ぼくのはなし (おかあさんとみる性の本) セックスや性暴力の話も書いている。


 多くの場合、規範を教えることで、子どもがそのまま真似てしまう、という問題は解決するのではなかろうか。マンガ表現をどうこうする、という話ではない。まあ、データがあるわけではないので、何か根拠となる反論があれば教えて欲しい。


 さて、ここまでは「マンガで表現された性暴力をそのまま真似てしまう」「性暴力と性表現の区別がつかない」「『幽奈さん』で性暴力を学んでしまう」という心配をどう考えるか、という問題。
 ぼくは、そこはあまり心配していない。*1

「微量」な影響、見えない影響が入り込むという問題

 では、こういう意見はどうか。
 「そのまま真似るかどうかは、あまり問題ではない。むしろ、女性を性的対象としてのみ見る、あるいは女性が性的存在であるということを過度に強調してしまうような視線を育ててしまうのではないか」。「女性をモノとして見る・扱う」という感覚を育てないか、という批判だ。


 うーむ、ちょっと難しい言い回しかな。
 具体的に言おう。
 女の子って、本当はいろいろ複雑な内面を持ってるよね。当たり前だけど。
 だけど、『幽奈さん』の一連のカット見てみなよ。
 かわいい顔。おっぱい。太もも。そういうことだけが強調されてるじゃん。
 そんでもって、「ラッキースケベ」という言い訳がほどこされているにせよ、その強調されたおっぱい揉んでるじゃん。
 男は気持ちよさそうじゃん。
 幽奈という女性が持っているはずの豊かな人格は後景に追いやられ、捨象され、暴力的に切り取られてしまってるんだよね。
 端的に言えば、女の子はおっぱいなんだよ。あるいは、女は太ももなんだよ。
 そういう女性観を、知らず知らずのうちに、心の隅に育ててしまうだろ――っていう話。


 「そんなバカな。俺は女と付き合ってるけど、女はおっぱい、とか思ってねーし。マンガとは区別つけてるよ」というかもしれない。
 だけど、わかんないでしょ。
 自分が女性(異性、または同性)をモノのように扱っている、性的な対象、性的な存在としてのみ扱う、っていう影響が入り込んで、日常の小さなところで出ちゃっているかもしれない。
 そういう「小さな」影響は、「性暴力を真似る」みたいなわかりやすさでは出てこないんだよ。「微細な=無自覚な」影響は、読んだ者の中にこっそりと残る可能性がある。それが日常の女性に対する態度や視線の中に現れないとは限らないんだよ。……という批判。


 これは、簡単には否定できないと思う。
 というか、作品の正面の効果やテーマとはズレたところで入り込んでいる視点や価値観というのは、微量であるけども、長期間にわたって蓄積されていくんじゃないかという危惧は確かにある(これもデータや根拠があるわけじゃないけど)。


 でも、それはこうした「ちょっとエッチ」なマンガだけに限らない。
12歳。1 (ちゃおフラワーコミックス) 例えば娘が熱心に読んでいた、まいた菜穂12歳。』は、「ちゃお」の看板作品であるが、あれを読んでいると、女子が庇護されるべき存在という感覚とか、女子文化を理解する男子を待ち焦がれてしまうメンタリティとか、そういうものを知らず知らずのうちに植え付けてしまうのではないか、という批判が成り立つ。
 そういう少女マンガの刷り込みというのは、思った以上に深い影響を与える。
 藤本由香里は、

少女マンガのモチーフの核心が、自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧れの男の子に、『そんなキミが好き』だと言われて安心する、つまり男の子からの自己肯定にある、ということを最初に指摘したのは橋本治である。(藤本『私の居場所はどこにあるの?』朝日文庫p.22)

と述べた上で、自分(藤本)はこの刷り込みの虚構性をその場で悟ったものの、最終的にこの少女マンガの呪縛から脱するのには20代の終わりまでかかったことを告白している。


 つまり、エロマンガに限らず、あらゆる虚構の作品が持つ何らかの価値観の刷り込みは現実の人間に、善かれ悪しかれ、影響を与えるのである。どんなに読者が「現実と虚構の区別は付いている」と言っても、虚構作品から大なり小なりの影響を受けてしまうものなのだ。


 強姦とか近親相姦を描くマンガは「こんなことは現実にやってはいけない」と意識されるのに対して、普通の少女マンガはそういう批判意識を持たずに読まれる。それどころか、女子にとって素晴らしいもの、ということで読まれているわけだから、その中に潜んでいる価値観の方が、無批判な刷り込みをされやすい。
 そういう意味では、少女マンガはステルスであり、規範の検知に引っかからず、読者たる少女たちの精神に侵入してきてしまう。エロマンガよりもはるかに「有害」ではなかろうか?

 したがって、すべての虚構作品について、「これは間違っている」「ここは青少年に悪影響がある」といって規制を始めると、何も残らなくなる。もしくは「政治的に正しい虚構作品」にすべて改造されてしまう。
 そういう愚は避けるべきだろう。
 現実の教育や勉強の中で、公正さを学ぶことが一番の解決方法だ。
 それがさまざまなマンガを読むときの「ワクチン」であり、「解毒剤」となる。


 しかし。
 なおも、問題がある。

虚構作品が現実に与える悪影響について声を上げることは間違いか

 では、虚構作品が現実に与える悪影響について、制作サイド(作者や出版社)にモノをいうことは無意味なことだろうか?
 例えば、エロマンガは、女性をモノとして扱う考えを多少なりとも助長させるのではないか、という批判は、決して全否定できるものではないと思う。データや根拠はないけども、自分の中にそういう否定的影響が蓄積しているという心配はある。
 自分の表現が(微量ではあっても)誰かを傷つけているかもしれない、あるいは社会に悪影響を及ぼしているかもしれない、そういうことについて、制作サイドが自覚を持つべきだろう。
 それで表現を変えるか、その重さを引き受けたまま、表現はそのままでいくかは、制作サイドが判断すればよい(法に触れるような人権侵害でなければ)。そのようなコミュニケーションが制作サイドと読者・受け手との間で成立すべきである。
 「政治的公正さからゴチャゴチャいうな」とか「嫌なら見るな」というのはダメな対応だ。(ただし、一定の悪影響があることを知りつつ、あえてそういう抗議は聞かないようにしている、という態度の取り方はありうる。)


 だから、あなたの作品は、現実にこういう悪影響を及ぼすのだ――そのことを制作サイドへ説得的に伝えること、さらに同意する人をつのり、徒党を組んで伝えようじゃねえかと呼びかけることは、意義のあることなのだ。


 ただし、現実に及ぼす悪影響については、例えば『幽奈さん』の場合、「性暴力と性表現を混同している」タイプの批判では的外れだし、制作サイドにも響かないように思う。制作サイドもなるほどと思うような事実や論理構成でなければ、受け止めてもらえないことはいうまでもない。


 ぼく自身がエロマンガを堪能しているけども、それは全くナイーブに快楽を貪っていていいものではない、という後ろめたさがある。ぼくが楽しんでいる表現は、誰かを傷つけていないかということだ。多くの場合は、その暴力性を自覚しつつ楽しむ、というわきまえをするしかない。
 他方で、ぼくは政治的な公正さについて、自分の肌感覚に染み付いてしまっていることがあるから、そういう角度でマンガを「さばく」こともある。もしも自分の中にある政治的公正さの規範が生硬でなく、ちゃんと自分の感性と馴染んでいて、普遍性のあるものならば、そういう批判は「面白く」書けるだろうし、制作サイドにも、そして社会にも届くにちがいない。
 だからこそ、『幽奈さん』を楽しむ視点もわかるし、問題視する視点についても門前払いをすることができないでいるのである。

*1:ちなみに公平のために言っておけば、『ゆらぎ荘の幽奈さん』はストーリー上、性暴力を公然と称揚しているマンガ(例えば主人公の男子が女性のおっぱいを意図的に揉み、女性が嫌がるのを楽しむ、など)ではない。主人公の男子高校生コガラシが美少女たちのおっぱいを揉んでしまうのは、ほとんどの場合衝突などの「事故」「不可抗力」として描かれ、その度にコガラシが謝ったり、厳しい制裁を受けたりする。いわば、コガラシはキャラクター設定として、どちらかといえばストイックで真面目で、他人を尊重するタイプなのだ。ただ、そうであることが理解されたとしても、このマンガに対する「性暴力」という批判は起きると思われる。そしてぼく自身も、主人公のおっぱいを揉む契機が「意図的」か「事故」かということだけで作品の「楽しみ方」が変わることは、おそらくない。