共産主義では労働時間の抜本的短縮がどうして可能なのか

 どうして共産主義では労働時間の抜本的短縮が可能になるのでしょうか。

 いろんな説明があります。

 

3つの説明

 一つ目の説明。労働時間が「必要労働時間」(自分が生きるための衣食住を生産する労働)と「剰余労働時間」(それを超える分)に分かれ、「剰余労働時間」を搾取されることで「自由に処分できる時間が奪われている」という説明です。だから、剰余労働時間を短くすればいい、というのがこの説明の答えです。

 

 二つ目の説明。

  1. “搾取がなくなり社会の構成員が全員生産に参加するので労働時間が短くなる”
  2. “資本主義特有の浪費がなくなりその分は労働して生産しなくていいから、時短できる”

 この二つの条件を挙げて説明をする場合があります。

 1.は搾取者=資本家が生産活動に参加するという意味です。

 2.は恐慌による破滅で商品が不要になるとか、大量生産・大量消費を煽る売り方とか、ひんぱんなモデルチェンジとか、カジノなどの社会的に害悪のあるサービスや財を売るとかです。証券業などの金融部門をこの「資本主義的な浪費」として数え上げる人もいます。

 

 三つ目の説明。生産力が上昇すると資本主義では労働者がリストラされるけど、社会主義共産主義ではそれが時短に使われる、という説明です。不破哲三は、自分が鉄鋼労連で働いていたので鉄鋼の話を例にして、生産力の上昇を時短に使うと、鉄鋼だけなら労働時間を今の5分の3に減らせるとしています。

 

3つの説明の検討(1)

 一つ目の説明について。

 もし剰余労働をすべて労働者のものにしてしまえばいい、その分を全て自由に処分してしまえる時間だと思ったら、それはとんでもない間違いです。

 社会・経済の実態から言って、労働者の労働が社会のすべての富を生み出しているのだとしたら、労働者が生活する分だけを生産したらもうそれで他の富はつくらない、なんていうことになったら大変です。

 

 大ざっぱな話ですが2022年の雇用者報酬=労働者の給料だとしてそいつは288兆円、GDP全体は549兆円ですから、労働者の給料以外は全部自由時間(つまり労働しないこと)にしたら、GDPは半分になってしまいます。

 マルクス

剰余労働一般は、所与の欲求の程度を超える労働として、つねに実存し続けなければならない(『資本論』第3部第48章)

と言っていて、搾取をなくしても剰余労働は存在すると述べています。剰余労働をゼロにしろとは言ってません。

 当たり前です。

 剰余労働は資本家自身の個人的な消費や楽しみのためだけにあるわけではないのです。

 それは社会のために使われています。

 具体的には、労働者が作り出した富は、利潤だけでなく地代や利子となります。現代ではそれだけではなく、かなりの額が税金や公金として国家や自治体に持っていかれて(それは労働者からも持っていかれます)、年金とか公共事業の原資になります。

 マルクス自身も『資本論』の同じ箇所で不慮の出来事の保険、高齢者・子どものための必要分、拡大再生産などのために剰余労働は必要だと書いています。要するに、社会保障だとか、社会資本(公共事業)だとか、安全や治安だとか、欲望の発達(文化活動や社会の水準の向上)などの経済の計画的な拡大のために、「衣食住=給料分だけでいい」とは絶対にならないからです。

 一つの目の説明では、搾取分を全部時短に回すことになり、社会保障や生活向上、蓄積の原資はどうなってしまうのか、全然考えていないのです。*1

 まあ、こういう単純な理解をしている人はいますけど、そういう説明を大真面目にしているような共産主義者はいません! …たぶんいないと思う。いないんじゃないかなあ。ま、ちょっと覚悟はしておけ。

 

 二つ目の説明について。

 これはマルクスを典拠にして説明されることがあります(『資本論』第1部第15章、『資本論』第3部第48章および『資本論草稿集』7)。

 マルクスの『資本論』第1部第15章では、今の生産力・経済力のままであると仮定しています。*2つまりこの二つ目の説明は「今の生産力水準を前提としたら」という条件をつけているのです。うーん、その前提、要るんですかね。

 見ていきましょう。

 具体的に言えば、2022年のGDP549兆円の経済水準と仮定して、という意味です。

 「2022年のGDP549兆円の水準でも労働時間の抜本短縮ができる」という意味だとすれば、それが1.や2.で可能になるでしょうか。

 1.を考えてみます。

 1.とはつまり「搾取者である資本家が就業者数に入る」という意味でしょう。

 搾取がなくなる→社会のすべての構成員が平等に生産活動に参加するようになる→一人当たりの労働時間は大幅に短縮されるようになる…ということです。

 マルクスは『資本論』で資本主義のもとでの剰余労働を「剰余労働の敵対的形態」として、資本家を想定して「社会の一部のまったくの無為」であると呼び、社会主義では「労働しない人々〔資本家や利殖生活者〕の扶養のための労働はいっさいなくなるであろう」と述べています。

 マルクスはこう書いたけども、それを現代でそのまま適用できるでしょうか。

 できるって?

 それはあの…豊田章男がラインで働けば時短になる、という意味なんでしょうか? まあ、それは極端だとしても、資本家階級が生産労働人口に入るから短い時間でGDPが達成できる、という意味のように聞こえます。うーん、しかしそんな未来図はあまり想像できないし、それで時短が起きるというのはあまり現実的じゃないと思います。

 橋本健二(『新・階級社会』)によれば資本家階級すなわち経営者・役員は254万人います。でもこの人たちは就業人口に算入されているんですよね。就業人口の4.1%を占めています。つまりすでにGDPの計算に入っているのです。

 利子・配当生活者というデータがあるんですが、これが全部利子・配当だけで生活している人だとしても、その総数は23万人です。

todo-ran.com

 これらの人が全部働くようになったとしても23万人ですよ…。

 例えば日本の就業者数って、2001年は6412万人で2012年には6280万人、2024年には6766万人に増えているんですよね。300万人の増加です。

 これは高齢者や女性が働きに出るようになったからです。

 つまり、「社会の一部のまったくの無為」を働かせるよりも、単純に人口の減少とかのほうがはるかに大きな要因ですし、高齢者や女性が働きに出るとか、そういうことのほうが現実的じゃないんですかね?

 

 2.はどうでしょうか。“資本主義特有の浪費がなくなるのでその分時短できる”っていう話ですね。

 社会的に不要な部門に資源を回す必要はないから、そこを切り捨てて必要な部門にまわせ、というのは、現代の経済政策でもよくある話です。

 例えば、大阪万博なんかにヒト・モノ・カネを投じるんじゃなくて、能登半島の復興に回すべきだ! みたいな議論です。

 これはこれであるとは思います。どこが不要で、どこが必要かは、公共的な事業ではあらかじめ人為的・計画的に、ある程度判断ができるでしょうし、現在も行われています。

 でもこれは、どこかの不要部門の資源を切って、必要な部門に回せという話じゃないんです。労働時間抜本的短縮の話なんです。つまり、ある部門をバッサリ切り捨てたら、その部門の財・サービスを生産するために社会は何もしなくていい、という、そういう話なんです。切った代わりに他の財やサービスを生産したら意味がないのです。

 例えば万博のようなムダづかいイベントを切るとします。でも、介護に人が足りない、医療に人が足りない、水道管や橋梁の老朽化を改修する原資がない……そういうところに資源を回さないといけません。

 だから、浪費部門をなくせばある程度は時短に回るとは思いますが、限界があると思います。

 生産の無政府性に基づく「浪費」はどうか。

 これは、例えば各企業がバブルに踊らされて熱狂的な生産を行い、ついに恐慌による破局を迎えて、それらが一切に売れなくなり廃棄せざるを得なくなる…というような想定です。(恐慌のような破滅的な姿をとらなければ、市場経済のもとで価格による調整が行われ、最終的には商品は売れることになります。)

 しかし、そうした恐慌がどれくらいの頻度で起こり、また廃棄量がどれくらいなのか、そして、その解決方法としてかつてソ連がやっていたような一元的な計画経済がいいのか、市場経済のもとでマクロ的な調整を行うべきなのか、そして一番肝心なことですが、それによってどれくらいの労働時間が削減できるのかはわかりません。

 前述のとおり、生産力は現在の水準を前提にしていますから、ここでもやはりある程度は時短に回るとは思いますが、限界があるということになってしまいます。

 大量生産・大量消費・大量廃棄の見直しはどうでしょうか。

 確かに儲けのために不必要な大量生産・大量消費・大量廃棄をあおる資本主義の生産・消費スタイルは見直されるべきですし、見直されていくことになるでしょう。しかし、問題は大量生産・大量消費・大量廃棄が見直されたとして、その部分に費やされていた経済資源が引き揚げられ、その生産が不要になることで労働時間の抜本的な短縮に結びつくのか、ということです。

 前述のとおり、ここでも生産力は現在の水準が前提です。*3

 今の日本の家庭ごみので一番量が多いのは紙ごみ(雑がみ)ですが、こういう紙ごみやプラスチックごみが、現在の生産力水準を前提とした上で、資本主義的な生産関係を改革することでどれくらい浪費が見直されるのか、それによってどれくらい労働時間が短縮されるのかはわかりません。頻繁なモデルチェンジを止めるということも同様です。ここでもやはりある程度は時短に回るとは思いますが、限界があるということになってしまいます。

 また、この話をするときに、証券業などの金融部門の大半を「不要なもの」だとしてこれを社会としての浪費部門だとみなす向きもありますが、それは本当にそうなのか、金融部門のどこまでが社会的な無駄=「浪費」と言えるのか、大半をなくしてしまって社会や経済は回るのか、などについては、社会合意もないし、科学的な見通しもありません。いずれにせよ「金融部門のリストラによって、その部分は社会資源を使わなくてよくなるので労働時間の抜本短縮ができる」などというのは、相当乱暴な見通し、非現実的な想定だと思います。

 

 二つ目の説明のイメージというのは、資本家の労働参加(1.)と浪費部門のリストラ(2.)ですよね。

 GDP549兆円はa労働人口×b労働時間×c労働生産性で計算されます。

 GDP=abcです。

 労働時間を半分にすることを目指すなら、0.5bですよね。

 aがプラス300万人(資本家階級300万人が新たに労働者として生産に加わる)だとしても、プラス4%くらいなんですよね。つまり1.04aです。

 1.04a×0.5b×c=0.52abc

 やっぱり浪費部門をGDPの半分くらい無くさないといけない。……いやぁ、無理あるっしょ。*4

 もちろん労働時間の抜本的短縮は半減じゃなくて2割削減(週労働日5日を2割減らすっていうことは週4日働くようにすること→週休3日制の実現)でいいということになれば、浪費部門の削減も2割カットでいいわけですが…。それでもGDP2割カットなのです。想像しがたい。*5

 ごちゃごちゃ書きましたが、要するに「搾取者が生産に加わる」という効果はまあ、無視していいレベル。「浪費部門を経済全体から削ぎ落とした割合≒社会全体が労働時間を短縮できる割合」ということになります。3割時短したけりゃ、GDPの「ムダ」を見つけて経済を3割マイナスする。5割時短したけりゃ経済のムダを5割減らす。そういうことです。

 ヒジョーにキビシー!

 

 結局この二つ目の説明は「今の生産力水準を前提にして時短をするとしたら」という仮定を置いているので、それが説明に無理を生んでいるように思われます。

 

3つの説明の検討(2):三つ目の説明が一番自然

 三つの目の説明について。

 この解明が一番自然だと思います。

 不破哲三は2004年に若い人(民主青年同盟)を相手に行なった講演で次のように述べています。

 私は、日本共産党の本部の仕事に移る前、鉄鋼労連という労働組合に十一年ほどいましたから、そこで親しみのあった鉄鋼産業での発展を追ってみました。

 調べてみると、日本の鉄鋼の生産量は、一九六〇年から二〇〇一年までの四十一年間に、二二一四万トンから一億〇二八七万トンに、四・六倍に増えました(粗鋼生産量)。ところが、労働者一人当たりの生産量は、同じ期間に、七四トンから五七六トンに、七・八倍に増加しました。生産力がそれだけ発展したのです。

 生産量の増える割合より、一人当たりの生産量(生産性)の方がより急速に増えたということは、資本主義のもとでは、その分だけ、労働者の数を減らすことができる、ということです。実際、生産量は四・六倍にも増えたのに、鉄鋼産業に働く労働者の数は、この期間に、三〇万人から一八万人にまで減らされました。

 では、生産力が発展したという条件を、労働時間の短縮に活用したら、どんな結果が生まれるかを、考えてみましょう。生産性が七・八倍になったんだから、労働時間を七分の一にしろとは言いません。労働者を減らさないで、三〇万人という数のままで、一億〇二八七万トン(四十一年前の四・六倍)の鉄鋼が生産できる、という計算になります。これは、週六日の労働を三日半に減らせる、ということです。〔…中略…〕

 資本主義社会では、生産力が上がったら、その分だけ労働者を減らして、職場に残る労働者は、これまで通り目いっぱい働かせる、それで社会の失業がひどくなっても、仕方がない、というのが、当たり前の理屈になっています。生産力の発展を、労働時間の短縮に活用するなどという考えは、利潤第一主義からは生まれてこないのです。

 社会が生産手段をにぎって、社会全体の利益、人間の生活と発展を第一とする未来社会では、そのおおもとが違ってきます。生産力が発展したら、その条件を、社会の富をより豊かにする目的にどれだけ活用するか、そして労働時間を減らして労働者の自由時間を増やす目的にどれだけ活用するか——そういう段取りを計画的に組めるような仕組みが生まれてくるのです。(不破「新しい世紀と新しい綱領/『報告集 日本共産党綱領』所収、p.258-260)

 これが一番しっくりきます。

 例えば、AIなどの各種技術革新が導入されると、労働者が仕事を失うかもしれない、という不安は今世界中を覆っています。(下記記事が「社会主義」を標榜する中国の話だというのはまことに皮肉な話ですが、ここではまさに資本主義的な関係そのものですね。)

jp.reuters.com

 

 資本主義的な関係のもとでは生産性の向上はこのようにリストラの恐怖となって現れてしまいますが、社会主義下では時短に結びつきます。

 生産力の上昇は今後必ず起き、ある意味で無限なわけですから、これから労働時間の抜本短縮を展望できることは無理な話ではありません。

 そして、これは遠い将来の話ではなく、資本主義のもとでも同じ労働時間でたくさんの経済価値を生み出せるようになれば、その分を労働時間の短縮に使うということもできるし、時短ではなく社会保障の原資としてもいいわけですし、労働者の生活向上——つまり賃上げに使ってもいいわけです(資本主義下では大闘争が必要ですが)。

 ただ、日本共産党関連の文献からはこのタイプの言い回しは2004年のこの講演を最後になくなってしまいました。どうしてなのかはわかりません。

  え? 生産力(生産性)だってそんなに急に伸びないだろうって? その通りですね。

 ただ二つ目の説明のように「現状の水準を仮定して」という前提を置かなければ(つまり今すぐ時短するという仮定をしなければ)、労働生産性は20〜30年で大きく進歩できます。1990年と現代を比べると日本の労働生産性は1.5倍にもなっています。他方、就業者数は1.1倍にしかなっていません。生産性の上昇こそ経済価値を作り出す主要なファクターなのです。

 

剰余労働の処分が資本家の独占物ではなくなることが本質

 共産主義の目的は、労働時間の抜本的短縮によって自由時間を創造し、人間の全面的発達を獲得することだ、というのはぼくもそのとおりだろうと思います。

 しかし、「どういう条件で労働時間の抜本的短縮が起きるか」が未整理であり、なおかつ「搾取がなくなるとはどういうことか」ということを考え抜いていないために、そこには理論的な混乱があるとさえ言ってよいと思います。

 前に述べたように、人間は自分が生きるための衣食住を生産する労働を「必要労働」と言います(マルクス主義者の中では)。これを超える分を「剰余労働」というわけですが、階級社会では、この剰余労働は支配階級のものにされてしまいます。剰余労働をどのようにするか(その結果生まれた剰余生産物をどう処分するか)は、その時代ごとの支配階級の独占物であるわけです。

 かつてはその剰余労働分は、すべて支配階級がその処分を決定し、根こそぎ奪われていきました。これが「搾取」です。したがって、贅沢な生活も、自由な時間で知的・身体的に全面発達できるのも、支配階級でしかかなわない夢でした。

 しかし、時代が進むにしたがって、剰余労働をどのように処分するかということに、労働者階級が口を出すようになりました。賃金を上げろ、ということはもとより、老後や傷病時の給付=社会保障に使えということが広がりました。民主政治の進展で、資本家が手にしていた剰余労働分は税金として国家に納められ、その使い道は、基本的には資本家のためのものではあるとはいえ、公共事業にもっと使えとか、こういう社会事業に使えとか、そういうことを、労働者をふくめた民衆が声を上げ始め、それが反映されるようになりました。

 その中で、「剰余労働のうち、一定の部分は剰余労働をさせずに、時短をせよ」ということも資本主義のもとで広がりました。その結果、資本主義下であって労働時間は短縮へ進み、ヨーロッパなどでは週休3日の動きが進んでいます。

ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』(文藝春秋)より

 ぼくは前に、置塩信雄を紹介しながら、次のように書きました。

 搾取がなくなる、とは一体どういう事態なのか。
 置塩は、搾取の廃止とは剰余労働の消滅を意味するのだろうか、と問いをたて、そうではない、と結論づける。
 「問題なのは、剰余労働を行うのかどうか、どれくらい剰余労働を行うのか、剰余労働で生産された剰余生産物をどのような使途にあてるのかなどについて、労働者がその決定を行うのでなく、誰か他の人びとが決定し、労働者はそれに従わねばならないという点にある。そして、そのようなとき、労働者は搾取されているのである」「剰余生産物の処分の決定を誰が行うか」
 つまり、ここにたいして社会が決定にくわわれれば、搾取は存在しないのである。

 搾取された分を、時短に使うのか、生活向上に使うのか、社会保障や蓄積に使うのか。置塩信雄が言ったように、搾取の廃止とは剰余労働の処分の決定が資本家の独占物ではなく、労働者・社会が関与できるようになること、という整理が必要なのです。 

 そして、剰余労働の処分に対して労働者や社会が関与する割合を増やしていくということは、社会主義になって初めて起きるのではなく、資本主義のもとでも進みうるし、社会主義は労働者党が政権を握ることでそれを抜本的・合理的に進ませるものであって、その限りでは資本主義下での改革・闘争と地続きであること、時短だけでなく社会保障の充実や賃上げと同じ平面の問題であることが明瞭にわかります。 

 

日本では

 日本でも労働時間は短縮しています。

厚生労働省労働経済分析レポート No.4」2024 年2月2日

 しかし『男女共同参画白書 令和5年版』で、「フルタイム労働者の一人当たり労働時間は、90年以降の景気後退期全体を通してみても大きな変更はない」「非正規・パート職員の増加が労働時間減少の主な理由となっている」と述べているように、日本で起きている労働時間の短縮はいびつです。

 フルタイム労働者が長時間働き続けることはあまり変化がなく、パートや派遣のように短時間しか働かせず安い賃金で雇用の調整弁にされている非正規労働者が激増しているということが相まって全体の「労働時間の短縮」が起きているわけですから。誰も幸せになっていないのです。

 

 ただ、もし、非正規労働者の時給を他の先進国並みに、例えば時給1700円に引き上げ、人生の3大資金と言われる「教育費」「住居費」「老後資金」を社会保障によって充実すれば(教育無償化、公営住宅の増設・住宅手当の創設、最低保障年金など)、短時間労働者であっても家庭や子どもを持って「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることができるようになります。

 短時間労働者であることが幸せな人生を送れる水路になりうるというわけです。

 

 共産党の田村智子は次のように言っています

日本の労働者の労働時間はヨーロッパ諸国に比べて、年間400~600時間も長い。正社員には、残業や休日出勤をやってでも仕事をこなす責任を押し付ける。非正規で働けば、低賃金が押し付けられる――これでは、「自由な時間」を奪われるか、人間らしい生活を支えるお金を奪われるか、どちらかを選べというのと同じではないでしょうか。

 先ほどぼくが述べたような意味で、この二つの対比はポイントをついていると言えるでしょう。

 

*1:マルクスは、社会保障や社会資本、拡大再生産などの原資にあたる部分を、「必要労働」の概念を拡大して、「必要労働」で作り出すものの中に算入するように述べたことがありますが(『新版 資本論』3、p.920)、不破哲三はその概念拡大はちょっと不自然であり、「研究の課題」だと述べて(不破『「資本論」全三部を読む 新版』3、p.105)、マルクスの整理に疑問を呈したことがあります。

*2:労働の強度と生産力が与えられているとすれば、そして労働が社会の労働能力あるすべての成員のあいだに均等に配分されていればいるほど、また、ある社会層が労働の自然的必要性を自分自身から他の社会そうに転嫁することができなくなればなるほど、社会的労働日のうちで物質的生産のために必要な部分がそれだけ短くなり、したがって、諸個人の自由な精神的および社会的な活動のために獲得される時間部分がそれだけ大きくなる」(日本共産党中央委員会社会科学研究所監修 カール・マルクス『新版 資本論3』p.920)

*3:マルクスはやはり『資本論』第1部第15章で「社会的に考察すると、労働の生産性は、労働の節約によっても増大する。労働の節約は、生産手段の節約だけでなく、あらゆる無用な労働を避けることも含んでいる。資本主義的生産様式は、個々の事業所内では節約を強制するが、その無政府的な競争制度は、社会的な生産手段と労働力の際限のない浪費を生み出し、それとともに、こんにちでは不可欠であるがそれ自体としては不必要な機能を生み出す」(マルクス『新版 資本論3』前掲)と述べています。現状の水準であっても、労働の節約=浪費のカットは、そのまま生産力の向上と同じことを意味すると言いたいのです。

*4:金融・保険業界の名目GDPに占める割合は4.6%ですから、まあ、全部無くしても5%ほどしか「浪費」は節約できません。

*5:でもエコロジカル・フットプリントのデータを見ると、世界全体では1990年くらいに「地球1個分」の資源を使う経済を超えちゃっているんですよね。ということは1990年の経済水準以上のものは「浪費」であり、経済を1990年までに戻す必要があるということもできます。1990年の日本のGDPは437兆円。あっ…だいたい8割、つまり2割減じゃん!