人工知能学会の表紙のこと(補足)


 人工知能学会の表紙について、少しだけ補足します。
 基本的には前のエントリーで書いていますので、この問題については新しい論点というほどのものはありません。
 また、コメント欄で議論になっていることについては、コメント欄で書いています。
 なので、以下は「余談」です。


 書きたいのは、自分の暴力性への向き合い方についてです。


神的批評 ぼくは、かつて雑誌「ロスジェネ」で編集委員をいっしょにつとめた大澤信亮の「宮澤賢治の暴力」(『神的批評』所収)を読んだ時、「不快」な批評であると感じ、そのことを本人にもメールしました。批評critiqueの語源が危機を意味するcrisisと同じであることから、批評の真価はひとの価値観や見方を揺らがせることにある、と言う人がいますが、その意味からすればぼくに不快さを抱かせたことは批評の成功であり、「不快」とは大澤の批評への一種の賛辞でもあります。


 宮澤賢治は、菜食主義者として有名ですが、それは暴力性の否定から生じているといわれます。彼の『よだかの星』にいたっては他の生き物を殺してきた自分を否定しついには星になってしまいます。
 大澤はそこから宮澤賢治の暴力について考えていきます。
 これを読んだ時、「そんなふうに、そしてそこまで悩まなきゃいけないのか!?」と思いました。これが感覚的に「不快」さを感じたという意味です。
 しかし、それは取るに足らないから「不快」なのではなく、ぼくの根拠を突くから「不快」だったのだろうと思います。


 ぼくは漫画『ブラック・ラグーン』の評を書いたとき2ちゃんねらーやオタクの一部が、たえず自分がおこなうことの「偽善」に懊悩し、そこから一足飛びにあらゆる社会運動の嘲笑へとすすむ「誠実さ」について批判したことがあります。また、宮崎駿が「自然と人間の共生」などありえないと「絶望」したことへも、批判を書いたことがあります。


 近代的な楽観がいまだにぼくを支配しているので、やがて社会は変革されていくのに、「小さなこと」にこだわりすぎて前へ進めなくなっているように見える人たちの様子にイライラするのです。


 とはいえ、自分の中にある暴力性について自覚がなければ、いとも簡単にスターリン主義者になってしまうでしょうし、すでにもうなっているのかもしれませんが、ぼくが抱えている暴力性への指摘があればやっぱりそれは甘受しないといけないわけです。
 すっぱりと「関係ない」「問題ない」としてしまえればラクなわけですが、それができないので苛立つわけですし、「不快」になるのです。


 ぼくの態度について、暴力性を否定する立場から批判している人々に、反語でなく純粋に疑問として聞きたいのですが、その人たちは自分の暴力性についてどう考えているのでしょうか。自分はそのような暴力性とは一切無縁であると思っているのでしょうか。それとも、「よだかの星」になろうとして、どんな小さな暴力性も見過ごさずに正して生きているのでしょうか。
 くり返しますが、皮肉や批判ではないので、そのあたりのことをどう思っているのか聞かせてほしいところです。