Zoom読書会でレベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』を読んだ。
女性を何も知らない無知な存在と見下して説教したがる男性仕草を「マンスプレイニング」というが、その言葉のもとになった文章をおさめたエッセイ集である。本文にも書いてあるが、「マンスプレイニング」という言葉自体はレベッカ・ソルニットの考案ではないが、そのもとになるエピソードと発想は全てソルニットのものである。ソルニットは厳密にそこを分けている。(それを読んで、上西充子が「ご飯論法」という問題の抽出を行なったのは自分だが、命名は紙屋である、とわざわざ厳密に分けたことを思い出した。)
レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』については以前感想を書いた。
『説教したがる男たち』は次のような9つのエッセイ・小論から成っている。
1章・2章・3章・5章
ぼく流のまとめであるが、1章・2章・3章・5章が一つのまとまりである。
女を見下して偉そうに解説したがるという男性の話から入っていて、ここでは、男は女をコントロールする権利があるとされ、女はコントロールされるだけの存在であり、何かをいうべき権利を持たない存在、取るに足りない存在、言っていることに信頼が置かれない存在として扱われている。
そのような女の扱いは、最終的に暴力や殺人にまで発展する。
そして、男による性暴力は実にありふれている。
取るに足りない者をコントロールしようとするやり方は、植民地主義、南北格差、IMFによる支配と相似形である。
女性は「取るに足りない者」として歴史上その存在を消されてきた。また、同じように軍政でも「取るに足りない者」としてその存在を消されてきた人たちがいる。
6章
ヴァージニア・ウルフについての批評だ。
そしてスーザン・ソンタグ。ウルフ、ソンタグ、そして自分をつないでいる。
はじめ読んだ時、なぜこの一文がこのエッセイ集に入っているのかよくわからなかった。しかし、よく読むとこれは、この本の主題とも関係している。
ここでのテーマはアイディンティを強化することに反対するだ。例えば「女とはこういうもの」という決めつけを、ソンタグの「解釈」論に結びつける。ソンタグの有名『反解釈』の次の一文である。
解釈とは世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな『意味』によって成り立つ影の世界を打ちたてることだ。世界そのものをこの世界に変ずることだ。(『この世界』だと! あたかもほかにも世界があるかのように。)
なお、ソンタグを引用して、ぼくは過去、次のような一文を書いたことがある。
ソルニットは見慣れたもの、知っているものに分類して所有してしまおうとする態度に反対する。
ソルニットにとって、知らないもの=謎=限定されていないもの=変化し成長していくもの=未知のもの=わからないもの=闇=暗い未来=開かれているものなのである。
批評とはこのような開かれたものであり、無限の対話である、とソルニットは考える。
ソルニットは、女である、日本人であるなどといった「アイデンティティの強化」ではなく、「アイデンティティを失わせて自由にすること」を求めている。
7章と8章
取るに足りないものの訴えをどうしたら聞かせられるようにできるかという戦略について書いている。物語を書きかえ、物事に名前をつけることだ。苦しみに名前をつけるのである。
「レイプ・カルチャー」などといった概念を作り出すことで、物語を書き換え、世界を再発見するのである。
「ご飯論法」という言葉で安倍政権の体質の一つが浮き彫りになったことを思い出す。
9章
思想の革命としてのフェミニズムを扱う。
フェミニズムとは「女性も人間であるというラジカルな概念」という作家マリー・シアーの言葉を引いている。
フェミニズムとは「女性として人間らしく生きたい」とする思想と行動であってしかし同時にその障害となるものと断固として戦うものだ。当たり前の生き方をしたい、しかし断固として。それはまさにラジカルな思想である。
これは、他の社会運動と似ている。コミュニズムであっても、「普通の市民の暮らしがしたい」という要求が出発点にあって、それを実現するために、闘争をするのだから。
この点、2004年に書いた北原みのり『フェミの嫌われ方』についての自分の書評を思い出した。
そこの書評でも書いたのだが、「まさに過激思想とは常識を実行することである」「普通であること、平凡であり続けることが、最もラジカルなことなのだ」。
声をあげたりできなかったという女性の反省について
Zoom読書会ではいろんなことが論点になったのだが、3つほどあげておきたい。
一つは、ある女性参加者の一人が、「読むのがなかなかしんどかった。というのは、自分が受けてきたことが果たして『自分の発言の弱さからくる軽侮』なのか、それとも『女ゆえに見下されている』のか、区別がつかず、結局自分は闘わずに何もしてこなかったのではという自責の念に駆られたから」と述べたことだ。
ソルニットは第1章で次のように述べている。
女性たちはほぼみな、ふたつの前線で戦っている。ひとつはなにか特定のトピックをめぐる戦いだが、もうひとつはもっとシンプルなものだ。声を上げ、思想を持ち、事実と真実に基づいて語っていることを認めてもらい、価値観を持つ。要は、人間らしく生きるための戦い。かつてよりだいぶましになったが、私が生きているうちにこの戦いが終わることはないだろう。私もまだ戦っている。もちろん自分のために。そしてなにか言いたいことがあって、実際にそれが言える日が来ることを願っているすべての若い女性のために。(本書KindleNo.160-165)
つまり具体的な課題とともに、その課題の奥底にジェンダー上の問題が潜んでおり、それと格闘したり暴いたりすることに労力を割かねばならなかったのである。
それは男であるぼくには想像もつかないようなコストである。
しかも、今でこそそうした問題は可視化され、社会的に大きな問題になっている。
以前にこの問題をいちいち取り上げて議論し、格闘し、是正させようとしたら、いったいどれほどの労力がかかったことだろうか。
今ぼくは自分の娘の状況を見て、「学校での勉強のあり方」というものについて、それを改善させるためにきちんと声をあげておきたいという気持ちに駆られている。しかし、いったいどういうルートで言ったらいいのか、行動したらいいのか、見当がつかない。いろんな社会運動をやり学校での各種の要求運動をしてきたぼくでさえ。ぼくは保護者だが、子ども自身ではないから途方に暮れているのである。同志がいないのではないか? 娘の要求と自分の要求は違うのではないか? 担任にもっとよく話を聞くべきではないか? そんなことをしたら忙しい中ただのモンペ扱いになってしまうのではないか? 教育委員会に言うのがいいのか、学校長に言うのがいいのか、担任に言うのがいいのか?……などなどである。
ジェンダーに関わるものは、さらに苛烈な抑圧が加わっている。
だから、たとえ声をあげられなかったとしても、それはある意味で仕方のないことではないかと思うのである。
ソルニットの、あるいはフェミニストの議論の仕方が乱暴ではないかと感じること
二つ目は、「ソルニットの意見は、IMFの専務理事のレイプ事件からIMFの支配体質に比喩を飛躍させたりするなど、乱暴な議論だ」という意見がこれも女性参加者から出た。そして一見それと全然別な意見なのだが、「ソルニットがここで紹介しているように、『そんな男ばかりじゃない』『ぼくは男だけど性暴力などとは関係ない』と居心地の悪さを逃れようとして言い訳するのに私もよく出会って、それを聞くたびにイライライした。どうして共感してくれないのだろうかと」と言う別の女性参加者の意見。
ぼくは、フェミニズム的な議論の仕方に初めて出会ったのは大学生の時だった。その時「男は…」というくくりにして女性の抑圧を論じる姿に戸惑いというか、反感を覚えた。まさに「どうして全ての男のくくりで議論するのか」「そんな男ばかりじゃない」という苛立ちを覚えたのである。ソルニットも同じだが、どうしてこんなアグレッシブな物言いをするのか、と今回読んでみてその苛立ちを思い出した。IMFや南北の支配の問題に話を広げてしまうのも、確かにそれ自体としてみれば乱暴な論の運びだとは感じた。
だけど、まず、女性の側は、いちいち男性やら他の人やらに配慮して、いろんな留保をつけて厳密に話さなければならないのだろうか、という思いもわかる。不安だった、とか、不満だった、ということをまずストレートに爆発させてはいけないのだろうか、と。それはアリだ。もちろん、その主張が広がるためには、より厳密で丁寧な言論に変えていかねばならないとは思うんだけど、まずはそう表明するのもわかるのである。*1
次に、ソルニットが言いたいことは、個別のあれこれのことではなく、いろんな事件やケースの根底には、客観的なジェンダーの構造の問題が潜んでいるという、大きな話ではないのか、ということだ。
たとえば、ぼくらは個々の会社で働いている時、「やりがい」を感じたり「喜び」を感じたりする。あるいは経営陣がすごくいい人だったりする。だけど、だからといって現代の賃労働の根底に資本による搾取という構造がないということではない。個別の労働の現場で感じていることと、その奥底にどういう構造が潜んでいるのかを指摘するのとは別の問題である。
本書の帯に殺人の90%は男性である事実の指摘があるが、男性がある種の暴力性を抱えていてそれがジェンダーに起因しているという指摘はやはり聞くべきものがある。
いわゆる「生産性」問題
三つ目は、ちょっと本書から外れてしまった議論になったのだが、「生産性」の問題――すなわち子どもを産む・産まないは個人の選択であり、そこに介入してはいけないという問題と、少子化を克服するための社会政策を取る問題との関係が議論になった。
要は、少子化克服ということを意識した政策をとる以上、「産めよ増やせよ」というメッセージを送ることになるのではないのか、ということだ。左翼陣営でさえ、「少子化克服のための社会政策を取ることを是認している。それは違和感がある」とある女性参加者が述べたのだ。
その女性の参加者は「私は社会の維持とか、少子化克服などということはどうでもいいことだと思います」と発言した。
ぼくは、AIや移民などに一定頼るにしても、社会を維持するために少子化を克服するインセンティブを意識した政策は取らざるを得ないと考える。それはよく言われるように、子どもを産んだり育てたりすることがなんのストレスもなく、そうしたいと心から思える環境を整えることが大事で、個人の選択に微塵も介入してはならない……というのが建前である。
しかし、今は過渡期で、この二つの原則がうまく両立していない。というか、両者の間に厳密な仕切りが必要なのだが、前時代の政治家や有識者、そして市井の人々がつい「産め」という圧力をかけることで少子化克服をやらせようとしてしまうのである。それは社会の随所で起きている。
別の女性参加者は、「徹底して個人の選択を尊重して子育てしやすいことを追求するだけでいいはずで、少子化克服という原則・政策を立てる必要はない」とも発言した。
良い批評とは何か
議論にはならなかったことだが、ヴァージニア・ウルフと批評について書かれたところでは、「よい批評」とはどういうものかを改めて考えた。
よく漫画の感想を頂いたときに思っていること pic.twitter.com/ktsmle2sZv
— 三角 (@misumi3ja) 2020年7月29日
作品は作者のものだと思われがちであるが、ぼくは作品は社会に投げられた段階で、社会全体のものであるから、もはや社会のものなのであると考える。
もっと言えば、その解釈権はもはや作者が独占していない。
作者すら思いもつかなった作品像を示していくのが批評の役割である。
その意味で、ソルニットの次の批評論は重要である。
卓越した批評とは、芸術作品を解放し、さまざまな角度からの解釈を可能にし、新鮮さを保ちつつ、作品との終わることのない対話にいそしみ、想像力を豊かにしてくれるものだ。解釈に抗うのではなく、閉じてしまうこと、作品の真髄を殺してしまうことに抗う。そのような批評は、それ自体が偉大な作品だ(本書KindleNo.1229-1232)
最悪の批評は、最後の一撃を加えて私たちほかの読み手を沈黙させてしまう。逆に最良の批評は、終わりなど必要ない対話へと開かれている。(本書KindleNo.1237-1238)
だからこそ、ソルニットにとって、わからないもの・謎は変化するものであり、開かれたものだという確信がある。だからウルフの「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」という言葉を彼女は愛するのである。
しかし、
「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」。それは驚くべき宣言だった。いつわりの直観や、暗澹たる政治とイデオロギーの物語の投影によって、不可知のものを知っているふりをする必要はない、という主張だ。「思うに」という一節にあらわれているように、その言葉は闇を祝福し、自らの主張の不確かさすら認めることを厭わなかった。(本書KindleNo.1023-1027)
ぼくは「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」などと最初、ソルニットは訳がわからないことを言っているとしか思えなかった。しかし、未知のものに対して自由で開かれている精神を保つということでありそれが批評的精神でもあるということを考えればそれは得心がいった。
加藤周一が平凡社の『世界大百科事典』で「批評」の項を執筆しているのだが、彼は
ヨーロッパ語では、批評という語の形容詞(たとえばフランス語のクリティークcritique)は、名詞と同じ意味のほかに、〈危機的〉という意味に用いられることが多い。……批評の機能と〈危機的〉との間には事実上の関係がなくもない。……批評精神は、特定の価値の体系が危機に臨んだときに活動的となるから、批評精神の敵視とは、危機的時代の歴史であるということができる。(前掲書25、p.517)
と、一見こじつけのようなことを書いて、ルネサンス、市民革命、そしてマルクス・エンゲルスまで紹介している。これはソルニットが紹介したウルフの「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」という一文の批評精神に通じている。
*1:以前ぼくは、「宇崎ちゃん」ポスター事件である女性弁護士のツイートが雑すぎて、それでは伝わらないと批判したことはある。