藤野裕子『民衆暴力』

 この本の趣旨は別のところにあるのだろうが、何と言っても同書を読んでぼくが一番に受けたインパクトは、関東大震災における朝鮮人の虐殺について書かれた部分である。

 

民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書)
 

 

 ぼくはこの事件について自著『不快な表現をやめさせたい!?』で次のように書いている。

不快な表現をやめさせたい!?

不快な表現をやめさせたい!?

  • 作者:紙屋 高雪
  • 発売日: 2020/04/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

ヘイトスピーチの怖さは、例えば「在日韓国人」「ユダヤ人」という「人種」としてくくられた人たちが丸ごと「二級市民」と見なされるようになって、その社会の中で「どう扱ってもよい存在」にされてしまうことです。これは単に個人が攻撃されるというだけにとどまらず、社会が壊れてしまうことを意味します。現に日本では、関東大震災の折に「人種差別の扇動」によって、「朝鮮人」と見なされた人が数千人殺害された歴史があり、決して人ごとではないのです。(紙屋p.190)

 ヘイトスピーチの問題で取り上げたように、ここでは扇動によって日本の民衆が行なった虐殺としてイメージされていることが暗示されている。

 この問題について、『民衆暴力』の著者・藤野裕子は、同著の「関東大震災時の朝鮮人虐殺」の章の冒頭で次のように問いかけている。

朝鮮人虐殺の一般的なイメージは、関東大震災時に「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火した」などのデマが流れ、そのデマをもとに多数の朝鮮人が虐殺された、というものだろう。しかし、このイメージには主語(動作主)がない。誰がデマを流し、誰が殺したのか。人びとの間に自然とデマが流れ、自警団が殺害したと、漠然とイメージされているように思う。「民間人によるデマ、民間人による虐殺」というイメージは、本当なのだろうか。(藤野p.139-140。強調は引用者、以下同じ)

 例えば、学校の教科書そのものは手元にないのだが、「以前、高等学校の教科書として使われていた『日本の歴史(改訂版)』をベースにしています」という『新もういちど読む山川日本史』(五味文彦・鳥海靖編、山川出版社)ではこの事件の記述は次のようになっている。

 

新 もういちど読む 山川日本史

新 もういちど読む 山川日本史

 

この大混乱のさなか、「朝鮮人暴動」の流言がひろまり、これに不安を感じた自警団などの手で多数の朝鮮人が殺されるという事件もおこった。(『新もういちど読む山川日本史』p.301)

  主語(動作主)は「自警団など」である。

 ぼくは、知り合いの左翼女性に聞いてみたのだが、やはり主語(動作主)は「自警団」であった。これが広まっているスタンダードなイメージなのだろう。ちなみに彼女が答えた殺害規模は「数十人?」だった。どれほどの人が殺されたのかというイメージも定まっていないことがわかる。

 藤野は本書『民衆暴力』のこの章の最初の節を「国家権力の関わり」と題している。流言の発生源はわからないが、「研究上、見解が一致している点」として「当初から朝鮮人に関する流言・誤認情報を率先して流し、民衆に警戒を促したこと」(p.141)だとする。

 そして、大震災の数年前に朝鮮で大規模な独立運動である「三・一運動」が起き、その時の朝鮮統治の経験者が「関東大震災時の治安維持を担っていた」(p.153)ということが明らかにされる。

 そして本書は、虐殺の実態の記述に入っていく。

 ぼくはこの部分に大きな衝撃を受けた。

 まず、殺害は東京だけなのかと思っていたら関東一円で広範囲に起きていて、東京では軍隊が川などに連れて行って20人とか30人を機関銃で撃つ、収容所の営庭で斬る、というような殺し方をしている目撃証言が紹介されているのだ。(日にちが遅い埼玉では官憲側が民衆を制止している。)

荒川駅の南の土手に、連れてきた朝鮮人を川のほうに向かせて並べ、兵隊が機関銃で打ちました。…あとで石油をかけて焼いて埋めたんです。(p.171*1

 それまでのぼくのイメージは、朝鮮人への恐怖感がデマによる扇動で高まり、東京の町内で自警団ごとに、例えば1カ所で2人、3人、とかいう殺害をされてそれが集積されて「数千人」…というようなものだった。

 それがひっくり返ったのである。

 軍隊・警察自体が手を下して各地で大量の殺人が行われていたのだ。

 この点で、大日方純夫・山田朗山田敬男・吉田裕『日本近現代史を読む』(新日本出版社)は

大震災の混乱のなか、「朝鮮人が井戸に毒をなげこんだ」などのうわさが広められ、数千の朝鮮人、数百の中国人が、軍隊・警察や、在郷軍人などがつくった自警団によって虐殺されました。(『日本近現代史を読む』p.88)

と書いている。高校の参考書でも例えば実教出版のようなところの記述を見るとこれに近い。

 ところが、警察や軍隊による大量の虐殺は統計上も現れず、裁判でも自警団だけが裁かれていった。このような権力の隠蔽が歴史記述にもそのまま影響を与えていくことになる。

 ぼくにとってこの本を読んだ最大の意義は、この本の主題とは全く別に、関東大震災朝鮮人虐殺についてのイメージを大きく覆されたというその1点にあった。

 記事冒頭に拙著の記述を紹介した。その記述自体を変更する必要はないと思っているが、民衆がヘイトスピーチによって扇動されヘイトクライムを起こしたという歴史において、公的なものが果たした役割のあまりに大きさをもっと日本人は噛みしめるべきだと思わざるを得なかった。特に、現代日本で一部の政治家がヘイトそのもの、もしくはその土壌になるような発言を繰り返している重大性に思い当たらなければならない。

 藤野の本書はもちろん関東大震災で起きた事件の事実を叙述するだけが単に目的であったのではない。このような民衆の暴力がどのように引き起こされたのかまでを分析することに意義があるのだ。

 藤野はこの事件(関東大震災での朝鮮人虐殺)を分析し、第5章で「民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理」を書いている。「加害の論理にせまる」という節から入っているように、民衆がそのような暴力へと扇動されていったロジックや背景を追っているのである。本書そのものの意義としてはまさにこうしたところにある。

 

 本書は、まず近代以前、とりわけ百姓一揆など近世の民衆暴力の特徴を描き出し、それとの比較で近代の4つの民衆暴力事件を見ていく。

  1. 新政反対一揆
  2. 秩父事件
  3. 日比谷焼打事件
  4. 関東大震災朝鮮人虐殺

である。

 本書を批評した山根徹也(横浜市立大学教授)は次のように記す。

そのさい著者〔藤野〕は、民衆を一面的に民主化や進歩の担い手とする見かたから距離をとり、他方では、暴力を行使する民衆を野蛮な人々として切り捨てる態度も排しながら、民衆が暴力行使をするに至る状況と、民衆自身の論理を解明する。そこには、与えられた歴史的状況のなかで、民衆がはぐくんだ解放への願望があり、また、民衆自身の固有の生き方の表現であることもあった。(日経新聞2020年10月10日付)

 これは本書の批評としてまことに当を得ていると思うが、あくまで近代の歴史を見る視座としての重要性であるとぼくは感じる。転じてこれを例えば現代の抗議運動における一部の暴力の問題などに性急に適用してしまうことなどは避けなければならない。現代の運動の問題として「暴力」は、ただちに当為の問題として表れるから、「『暴力はいけない』という道徳的な規範だけで民衆暴力を頭から否定」(藤野p.208)すべきであって、歴史の事実を解明する際にのみ、なぜ民衆が暴力を行使したのか、そこにはどんな願望が込められているのか、などの解析をすべきなのだから。

*1:藤野による引用。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』から。