さっき「シン・ゴジラ」をテレビでやっていたので、娘と見る。
昨年一家で映画を観たときの感想を記事として書いた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20160819/1471537816
この一文に対して、日本民主主義文学会代々木支部の同人誌「クラルテ」第8号で、谷本諭が批判をした……。
いやいやいやいやいやいや。まてよ。
谷本の批判には「某ブログ」とあるだけだ。
どこにも「紙屋研究所」とは書いてないのである。
ひょっとしたらぼくのことではないかもしれない。
谷本の文章には「某ブログの訂正を直言する」というふうに「直言」=「思っていることをありのままに言うこと。また、面と向かって直接に言うこと。」(デジタル大辞泉)とあるのに、「某ブログ」というぼんやりした対象に「面と向かって」「直接」言っているようなのだが、それはひょっとしたら、ぼくのことではないかもしれない。ね?
「これ、俺のことじゃん!」などと自意識過剰になるのはいかんので、以下ひとりごちる。
独白ターイム。
だれのぼくへの批判かはわからないけど、某氏の批判に少しだけ反論してみる。反論してみようと思ったのは、単なる自己防衛ではなく、そのことを論じることで虚構作品を批評するとはどういうことか、という生産的な議論にもなるだろうと感じたからだ。
批判は2点あるようだ。
一つは、ぼくが「虚構なのだから文句をつけるのだ」と主張しているとされて、その理屈は創作文化全体への批判を封殺することになるという批判。
もう一つは、須藤遥子『自衛隊協力映画』の引用が恣意的であり、誤用であるという批判である。
ここでは前者(第一の批判)についてだけ書く。いきおい、第二の批判についても言及するが本格的なものではない。
つまるところ、“虚構であるのは明瞭なのだから、何を描いても問題ではない、文句をつけるのは野暮だ”という論理に行き着く。それは、創作文化へのあらゆる批判を封殺する論理につながりはしないだろうか。
ぼくは以前、「『ジャンプお色気♡騒動』に思う」という記事を書いた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20170707/1499363338
また、「人工知能学会誌の表紙のこと」という記事も書いた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20131228/1388242783
それ以前にもこうした立場はブログだけでなく紙媒体でも何度も述べてきた。
要約すれば、エロであろうが暴力であろうが、少女や少年に対する規範の刷り込みであろうが、虚構は必ず大なり小なり人に影響を与えるということだ。
そのことを承認した上で、作者はその影響に対する批判を受け止めなければならないとしつつ、エロのみを取り出して規制することはあらゆる表現の規制につながってしまうので慎重であるべきだ、とぼくは主張した。
だから、虚構なので影響はないし、批判はすべきでない、という立場は取っていない。
これは事実の基本。
その上で。
ある作品が、進歩的な影響、あるいは反動的な影響、もしくはその両側面どちらも備えた影響を人に与えることはある。っていうか、普通は与える。
まず、すぐに観察されることは「十人十色」――作品を読んだ(観た・聞いた)人が100人いれば、100通りの影響がある。これは各人の主観の上でいろんな受け止めが起きるというレベル(主観的影響)の問題もそうだが、人が歩んできた人生やおかれた環境は違っているので、受け取る客観的な影響も、人によって違い、同じということはまずない、という意味でもある。
しかし、そこから少し進む。
作品から人が客観的に影響を受ける、という事実があることをいま承認した。
その客観的影響のうち、主要なものを取り出すことによって、十人十色というレベルではなくて、その作品が社会的に与える影響というものを客観的に定めることができる(と信じる)。
作品は社会の中に置かれ、「社会の中での作品」としての価値や評価が(ある程度)客観的に定まるはずだ、とぼくは考える。(だから「感想は人それぞれだから」ということをとりあえずは承認するけども、そこにとどまりたくはない、というのがぼくの立場である。)
作品への評価は(1)見た人の主観で終わるのではなく、(2)一人ひとりに客観的な影響を持つ。しかし、(3)さらにそれは一人ひとりに止まらず社会的に評価をされ、価値が定まる。
唯物論者たるぼくは(3)の立場で本来作品を批評する。(1)や(2)はそれ以前の段階である。
つまり、こういうことだ。
その作品の社会的におかれた客観的な位置、社会的な評価、つまり作品の本質規定と、その作品が与える様々な客観的影響やそれへの抗議は(関連はあるが)別の話、区別されるべきである。
そう考えた時に、「シン・ゴジラ」の本質は「ミリタリズム賛美映画」だろうか。
ここでいう「ミリタリズム」とは、
政府や軍隊を“国民を守ってくれる存在”と描けば、それは容易に、戦争や軍備を“尊いもの”と肯定するミリタリズム(軍国主義)につながっていく。
と使用される、(ある意味)特殊な用法としての「ミリタリズム」である。
「シン・ゴジラ」を観て単純に「自衛隊SGEEEEEE」となる人がいるのはわかる。
さらに、そういうナイーブすぎる人たちだけでなく、「これは虚構であって現実の自衛隊や政府の話ではない」とちゃんと割り切って観ている人たちに対しても、「政府や軍隊を“国民を守ってくれる存在”と描」くことで、「戦争や軍備を“尊いもの”と肯定する」意識、すなわち(ここで特殊な用語として使われているところの)「ミリタリズム」が観ている人の意識にそっと侵入してくるということは十分ありうる。
しかし、それはこの映画の本質だろうか。
前の「シン・ゴジラ」の記事でも書いた通り、この映画を反核映画として見ることもできれば、対米従属批判として見ることもできれば、有事における政治の現状批判として見ることもできれば、311の戯画と見ることもできる。
多義的極まる見方がなされ、その随所を写実的なリアリズムが支えている。
その結果、作品全体を見ればそのどれかの側面に拘束されない、「壮大な娯楽映画」という本質が浮かび上がるのではないか。
作品の本質規定をする際に、本質ではない部分としての「自衛隊賛美」を取り上げることは作品の本質を見誤るという意味でぼくは「野暮」とした。
ただし、「自衛隊の現状に対する無批判な意識の侵入」としてそれを抗議する権利は何人にもあるし、上述の通り、ないとは言い切れない。*1
先ほど言及した『自衛隊協力映画』を執筆して自衛隊の怪獣映画などへの協力史を調べてきた須藤は、同書の中で映画協力についての「現代ナショナリズム」の問題を指摘する際に、自分の批判の性格について次のように書いてる。
先に断っておけば、自衛隊協力映画に「防衛省によるプロパガンダ映画」という一面的なレッテルを貼るのは不可能である。(須藤p.24)
須藤がもともと『自衛隊協力映画』で批判的に言及していたのは、「ジコチュー・ナショナリズム」である。
簡単に言えば「愛する人のために自分は命を投げ出す」と言いながら、その命を投げ出す行為は、国家の利益になるというようなナショナリズムのあり方である。須藤はこれを「新自由主義的な自己責任イデオロギー」であるといい、自衛隊協力映画は、その「内面化に一役買うことになるだろう」と批判している。
いわば、須藤の「自衛隊協力映画」批判は「規範強化」という影響をこっそりと侵入させているという批判であり、「政府や軍隊を“国民を守ってくれる存在”と描けば、それは容易に、戦争や軍備を“尊いもの”と肯定するミリタリズム(軍国主義)につながっていく」というところの「ミリタリズム賛美映画」批判とは違うように思われる。
何れにせよ、須藤の上記の文章は「シン・ゴジラ」よりも前、2013年に書かれたものであるし、その批判が「シン・ゴジラ」にも当てはまるかはふさわしい検討が必要になる。