おかーちゃーん

 祖父が亡くなったときに、荼毘に付す直前に叔父が「おやじー!」と号泣していたのを見て驚いたことがある。叔父はぼくの前では祖父のことを「おじいさん、さっきもらった菓子だけどね…」というように「おじいさん」と呼んでいたからである。叔父の子ども(ぼくのいとこ)たちの前でも同じだった。

 叔父にとってはいつしか「おやじ」が「おじいさん」になって長く「おじいさん」呼びだったのだろうと思う。いよいよ火葬の前に「子ども」に戻ったのである。

「九州の国宝 きゅーはくのたから」展より

 つれあいを娘との関係で「おかあさん」と呼ぶことがある。「おかあさんに渡してきて」みたいなだけでなく、直接、「おかあさん、俺の携帯見なかった?」みたいにも。

 

 ふざけて「おかーちゃーん」と呼んでみたことがある。

 すると自分でもびっくりするくらい、甘ったるい感情がずるっどろっ、とどこかから出てきた。

 小さいころ実家でぼくは母親のことを「おかあさん」「ママ」ではなく「おかあちゃん」と呼んできた。ちなみに父親は「おとうちゃん」、祖父は「おじいさん」、祖母は「おばあさん」である。6人家族で暮らした十数年間、すべての家族メンバーがこの呼称を統一して使用していた。この呼称はあまりに安定していたため、そのように呼ぶことが普遍的なものだという思い込みすらあった。

 

 いま母親のことを「おかあちゃん」とは呼ばない。「おばあさん」である。孫であるぼくの娘を基準にしているので。田舎の農家で、名前呼びの習慣がないのでこうなってしまう。

 祖父母は亡くなり、ぼくも兄弟も独立して実家を出たので、実家には父母しかない。孫がいる日常ではないから、ふだんは父母はお互いを「おとうさん」「おかあさん」で呼んでいるようであるが(父親は「やい!」と呼びつけていることがある)。

 

 つまり「おかあちゃん」という呼称は紙屋家から消えたのである。

川中島古戦場



 自分の母親を「おばあさん」と呼ぶときも躊躇はある。「おかあさん」という呼称はつれあいが実家にいるとダブる上に気恥ずかしい。「おかあちゃん」はもっと気恥ずかしい。結局一番抵抗がないので、「おばあさん」呼びをしてしまう。

 

 しかし久しぶりになんの躊躇も、遠慮もなく、むしろ、なんだかつれあいに甘えるようなふざけた気持ちで「おかあちゃん」と呼んでみて、前述のような感情に襲われたのである。

 「それは妻に母を求めるマザコンみたいなものでは?」「『おとうちゃん』に感じないのはジェンダーでは?」と言われれば言葉もないが、そういう感情が出てきて、自分の中から取り出された巨大な腫瘍を見ているような変な感動を覚えた。

 

 しかも「おかあちゃん」ではなく「おかーちゃーん」と特別に甘ったるく言ってみたのが余計にそうだったと思う。ぼくが小さい頃「おかーちゃーん」と無防備に呼びかけるケースは、母親に何かを要求する時だったからだろうと思う。風呂がぬるいので薪をくべてほしいとか、シャツがないけどどこにあるのとか。だから「おかーちゃーん」というトーンには特別な何かがこもっていたのだろう。

 家事を一切してこず、母親(と祖母)に全てを頼り切っていた、ある「日本男児」のなかから「どろっ」と出てきたものが「おかーちゃーん」なのであった。

「九州の国宝 きゅーはくのたから」展より

 ぼくもいよいよお別れの瞬間が来たら「おかあちゃん」と呼ぶのだろうか。