好きな漫画、気にしていた漫画がいろいろ終わったなあ。いや、連載はもっと早くに終わっているんだけど、単行本の形で次々終了したんだわさ。
きらたかし『赤灯えれじい』。
花沢健吾『ボーイズ・オン・ザ・ラン』。
朔ユキ蔵『ハクバノ王子サマ』。
チーコがいなければサトシは自立できなかった
『赤灯えれじい』は終わってみれば、ぼく好みのいい作品だった。ぼく的基準からであるが、この作品は名作である。
『赤灯えれじい』は、フリーターであり、いじめられっ子でヘタレだったサトシと、やはりフリーターで、ケンカっ早くて気っ風のいい美少女・チーコとの恋愛物語であるが、最初の評で書いたとおり、恋愛を通じて描かれる核心はサトシの自立の物語である。
フリーターの「自立」の物語。
サトシが山のような面接を受け、さんざんヘコむことを言われながら、ついにエロ本のDTPの職につくくだり、それを配置転換されラブホテルの受付・管理をこなすさま、それもまた辞めることになり、工事現場の誘導のバイトに戻りながらも正社員での就労をあきらめないその姿——いまどき珍しい愚直な光景を綴った漫画だ。
こんなにヘタレなのに、こんなに不屈に立ち向かっていく。
へたな解説漫画をつくるより、政府はこの漫画を「再チャレンジ」政策の推奨テキストにすればいいのではないか?
——そう思った瞬間に思い直す。
なぜなら、サトシがなぜがんばることができたのか、ということに思いが至るからだ。
サトシががんばれたのは、チーコがいたからである。逆説的だが、チーコがいなくなってからもチーコがいたからがんばれた。この漫画はそのことをまったくロジカルには語らない。ただただエピソードの積み重ねだけがあり、そのことが「サトシががんばれたのは、チーコがいたから」なのだということを説得的に伝える。
たとえば4巻。
思いつきではじめた二人の夏の旅行。暗闇で歩きながらサトシが言う。
「オレ…チーコがおらんよーになったら…ほんまやばいわ…」
チーコはそれを受けて、自分はもともと友だちがいない人間だったがそれが気楽だった、しかし前の彼氏とつきあって同棲して大きな喪失感をいだいた、と告白する。
サトシとつきあったのは「さびしかった」からなのか?
チーコにもそれはわからなかった。言葉では解析できなかったけども、サトシのことを考えてバイクにのるうちに自然に楽しい気持ちがわいてきた——ということを言葉をつかわずにコマと表情で作者は伝える。
言葉にならないがたしかにサトシといっしょにいたいという感情が自分のなかにあることをこの展開は見事に描いている。
それでもチーコは不安がある。自分の感情がはっきり定まらない。
そこでサトシは思い切って提案するのだ。
「オ オレといっしょに住もう!!」
暗闇のなかで二人は抱き合う。
その抱き合っている描写は、「ラブロマンス」といった甘い風情ではない。サトシの顔さえみえない。チーコのわずかに見える横顔は恥ずかしがっているようにも見えるがどちらかといえばぼくは「決然」としているという印象をうけた。まるで「同志の抱擁」である。
不安や模索をかかえながら、この二人が、まさに暗闇で抱擁し合っているようにお互いなしには生きていけないということを象徴するいいシーンだ。
この旅行のあとで、二人が仕事に励みながら、家ではサルのようにセックスばかりして、ついに激しさのあまりベッドを壊してしまうエピソードがある。行儀正しいロジカルなエピソードで「お互いが支え合う」などというきれいごと的に描くのではなくて、「お互いなしにはもう生きていけない」という貪欲で、だらしなく、行儀の悪い二十代的表現——日夜セックスするという生々しさ——でこれを描いているのがリアルな感じがした。
きらたかしの絵は、ヤンキー漫画っぽさがあり、大きくは劇画の系譜にぞくする絵柄だと思う。そしてぼくは劇画のエロ描写が死ぬほど嫌いなのだが、きらの絵は、劇画的な性描写をギリギリで外れており、萌えることはないが、ただ生々しさを感じさせるようにできている。そのセックス描写に、自分の二十代を思い出す。暗くて狭くて汚い部屋でセックスばかりしているのが二十代的なのだ。
自立に必要な「溜め」「社会関係資本」
話を元に戻す。
サトシはチーコという恋人がいなければがんばれなかった。
サトシの自立のうえで、チーコというファクターがあまりにも大きな位置を占めていることは、ぼくがくどくど説明しなくてもこの漫画の読者であればすぐにわかるだろう。
『18歳の今を生きぬく 高卒1年目の選択』という本には、職場でのつらさ、落ち込みを、地元のさまざまなネットワークが救うという調査を紹介し、そのネットワークを同書では「社会関係資本」と呼んでいる。
「『資本』という概念を採用したのは、ある若者が仕事を選択する際、その若者の家庭がもつ経済的・文化的基盤を、労働市場を渡っていく際の元手、すなわち『資本』として活用していくことを表現したかったからである。この概念は、フランスの社会学者ピエール・ブルデューによって提唱されたものだ。彼によると『資本』とは、家庭の経済的基盤と結びついた『経済資本』、そして家庭にある本や、家庭の中で交わされるコミュニケーション、伝達される芸術などの趣味といった文化的要素が『資本』に転化された『文化資本』、そして友人・知人のネットワークが『資本』となった『社会関係資本』などがあるという。P・ブルデュー『ディスタンクシオン1』石井洋二郎訳、藤原書店、一九九〇年」(前掲書p.131)
「労働市場を渡っていく際の元手」と書かれているように、社会に出てからのストレスやアクシデントなどから個人を救うのは、こうした社会関係資本の豊富さである。「感情資本」というものさえありうる。同書の編者・乾彰夫は「共同資源」とも呼んでいる。
平たく言えば、お金、友だち、恋人、家族、趣味の場、自信——そういうものがセーフティネットになっていくということである。
最近読んだ湯浅誠『反貧困』で紹介されている「溜め」という概念もこれに近いものだ。
「“溜め”とは、溜め池の『溜め』である。……“溜め”は、外界からの衝撃を吸収してくれるクッション(緩衝材)の役割を果たすとともに、そこからエネルギーを汲み出す諸力の源泉となる。/“溜め”の機能は、さまざまなものに備わっている。たとえば、お金だ。……しかし、わざわざ抽象的な概念を使うのは、それが金銭に限定されないからだ。有形・無形のさまざまなものが“溜め”の機能を有している。頼れる家族・親族・友人がいるというのは、人間関係の“溜め”である。また、自分に自信がある、何かをできると思える、自分を大切にできるというのは、精神的な“溜め”である」(湯浅前掲書p.79)
そして、湯浅は「貧困とは、このようなもろもろの“溜め”が総合的に失われ、奪われている状態である」(p.80)として、もろもろのセーフティネットから排除されていったとき「“溜め”は失われ、最後の砦である自信や自尊心をも失うに至る」(p.81)とのべている。
“溜め”は可視化できない、なかなか見えないものである。
だからこそ、貧困から抜け出せない人をみて、多くの人は「なぜ努力しないのか」「なぜ制度を使わないのか」「なぜ…」と自分と同じように考えて、その人を責めるのである。しかし「なぜ」と詰問している人は、実は自分が幾重もの“溜め”をもっていることに気づかないのだ、と湯浅は指摘する。
湯浅は、「二〇〇七年五月、三一歳の男性の生活保護申請に同行した」話を書いている。「対応した福祉事務所職員が『私にも同じ年齢の子どもがいるけど、うちの子は働いているわよ』と言った。その職員には『うちの子』と生活保護の申請をしなければならないほどに追い詰められたその男性との“溜め”の違いがまったく見えていなかったし、見ようともしていなかった」(p.93)。そして、「政府の『再チャレンジ』政策も基本的には同じ発想である」(同)と批判している。
話を再び元に戻そう。
ぼくが、この『赤灯えれじい』という物語は「再チャレンジ」政策のためのフリーター自立物語のテキストとして使えるのではないかと最初に述べて、即座に否定したのは、サトシにはチーコという巨大な“溜め”、社会関係資本が存在していたからである。
そして、そのような“溜め”や社会関係資本なくして人は自立などできないのである。
おかしな言い回しになるが、「オレ…チーコがおらんよーになったら…ほんまやばいわ…」というほどの巨大な“溜め”に「依存」することで、サトシは自立できたのだ。
NHKスペシャル「追跡・秋葉原通り魔事件」(6月20日放映)では犯人の背景にあった「工場派遣による貧困」と「非モテ的孤独」を追った。
「経済的貧困」が、“溜め”や社会関係資本、とりわけ人間のネットワークが失われることと結びついてしまうことへの戦慄が走る。
それだけに「非モテ的孤独」をなんとかしたい、というのは「モテたい」という言葉やその印象ではとうてい解消できない切実さがある。
「家族」を求める切実さ——『ボーイズ・オン・ザ・ラン』
チーコそっくりな女性(ハナ)が登場する(笑)花沢健吾『ボーイズ・オン・ザ・ラン』がさえない男の単なる性欲解消としてのモテから出発しながら、そのラストにおいて「家族」を求めたのは、びっくりするようなラストではあるが、先ほどの切実さからいえばすぐれて現代的ではある。
萱野稔人が東浩紀・北田暁夫との鼎談において「まずは日常のなかでそういった不全感承認不足を解消していく、というのは大事なことですよね。モテというのは、その点で強力です。性という、人間存在の基礎的なところで承認されるということですから。『希望は戦争』の赤木さんについても、『彼があんなことを言うのはモテないからだ、彼女でもできれば落ち着くだろう』ということが意地悪な人たちからは言われたりもしました」と述べている(「思想地図」vol.1、p.269)。
単に恋愛の話を描くのではなく、ある種の切実さをもって「非モテ/モテ」を描くということ。『赤灯えれじい』と『ボーイズ・オン・ザ・ラン』はこの時代ならではの鋭さをもった作品だった。
現実の重さを引き受けない——『ハクバノ王子サマ』
ところが、『ハクバノ王子サマ』である。
女子高に勤めた主人公が婚約者がいながら同僚の独身女性教師に次第に心惹かれる様を描いた物語だ。気持ちが通じそうで通じない。セックスしそうでしない。
ええ、ずいぶん楽しませてもらいましたよ。「寸止め」には。
いや、単なる「寸止め」じゃねーよ。「浮気心」的「寸止め」なのだよ。
「『浮気心』とは
まだお互いの気持ちを
確認しきれなくて
さぐり合っている
世界で一番いやらしい時の
気持ちのことですが」
そしてこういう結末は予想もできた。
しかし、ナニ、この納得いかなさ感は。
主人公の婚約者・カオリは9巻にいたるまで「顔」が伏せられていた。それが10巻の途中ではじめて「顔」が描かれる。漫画においては「目=瞳」を描くことでキャラとしての存在感がとたんに増す。
カオリの顔=瞳が描かれたことで、婚約者つまり婚約という事実が極端な重量をもって作品の中に押し入ってくる。はずである。本来。それまでの「浮気心的寸止め」を楽しむ基調は終わるのだ。
にもかかわらず、この作品は婚約の重さを引き受けなかった。
泣いて殴ってという型通りの愁嘆場を演じたにすぎない。「まーこれくらいで別れられりゃー安いもんでねーの?」と言いたくなるほどだ。
そして、この「純愛」には、前2作のような「切実さ」がない。話が展開されている基盤は、浮ついた、よくある心変わりの話なのだ。
しかしくり返す。「浮気心的寸止め」としては十分に楽しんだ。だから10巻の途中まで、えーっと、原先生と小津先生が旅館でくり返しセックスするところまで(笑)。