こうの史代『この世界の片隅に』上・中

 下巻で完結するまで言及しない方がいい、と自戒していたのだが、またもや書いてしまう。「またもや」というのは上巻が出た段階でがまんしきれずに「赤旗」の連載で紹介してしまったからだ(そのあと連載は終わってしまったので、赤旗読者には紹介できる最後の機会になったので、ぼくとしてはほっとしている)。
 「もう下巻まで書かんぞ」と思っていたのだが、またもや中巻が出た段階でウズウズして書いてしまった。なんという作品。

 

 

 戦時下の広島県呉市に嫁いだ北條すず(旧姓・浦野)の物語で、昭和18年——1943年の12月から本編がはじまる。呉は歴史上、1945年7月に市街地が無差別に爆撃される大空襲を受ける。こうのがそれを描くのかどうかは単行本しか読んでいないぼくは知らないのだが、物語はその日時へとむかってゆっくりと進んでいることは間違いない(すでに中巻の終りには同年3月の空襲が描かれている)。

 ぼくが中巻を読んでびっくりしたのは、1945年2月を描いた第24回だった。この回はいきなり「帰還英霊合同慰霊祭」の風景の断片的な描写から始まり、1ページ目の終りで「浦野要一」、すなわちすずの兄の名前が記された白木の箱が描かれる。
 つまり主人公であるすずの兄の戦死という重大な事件が起きているのである。すずの兄は、「鬼イチャン」として上巻で描かれ、すずにとっても家族にとっても長男としての威厳をもった存在として詳しく描かれている登場人物である。

 

 

 主人公の幼少時代にかかわる重要な家族の死。
 いったい、どんな悲嘆のシーンがくるのかと思ってページを繰る。

 ところが2ページをあけると、慰霊祭に集まった親族たちが「やれ寒かったのー」「今度は草津へも来てつかあさいね」「はあ ご挨拶が遅れてすみません」「いつまで居れるのすずちゃん」「それが切符が今日のしか取れんでとんぼ返りなん」などと、まるで盆暮れに普通に集まった親族のような会話を交わす大きめのコマが描かれるのである。
 白木の箱を「要一の席」におき、「お帰り鬼いちゃん……」と多少しんみりした調子で家族みんなが言うものの、とても感情を搭載するような大きさのコマではない。
 あとにつづく、箱の置き場と、箱の重さをめぐる家族のやりとりは、どこかしらコミカルなトーンさえ漂う。

 これが主人公の兄の戦死を受容するシーン? びっくりする。

 ところがこの回で画面が緊迫するのは、空襲警報が解除され、すずが要一の白木の箱を落とすか蹴るかして「中身」が出てしまう場面である。そこには骨でもなんでもなく、小さな石ころが入っているだけだった。すずがもったその石ころを家族全員が固唾をのんで見守るが、すず(そして要一)の母親が割って入る。

「冴えん石じゃねえ
 せめてこっちのツルツルのんにしとこうや」

 そして母親は呆れたように、怒ったようにつぶやく。

「やれやれ 寒い中呼びつけられて
 だいいちあの要一がそうそう死ぬもんかね
 へんな石じゃ 帰った時 笑い話にもなりやせん」

 一同は「ごもっとも」と声をあわせる。

 この感情はとても微妙だ。母親は息子の戦死を信じたくなくて気丈にこらえている……という湿度の演出ではないのだ。そのあとですずが夫とともに呉へ帰るときにつぶやく言葉がおそらく正鵠を射ている。

「………………
 ……鬼いちゃんが死んだとも思えんが
 また会えるとも限らん」

 多くの家の男たちが「公務」として送り出され少なからず「死んで帰ってくる」という事態、加えて目の前には「死んだ」という証拠が何一つ提示されないという事態の前で、おそらくこんなふうに家族の「戦死」が受容された(されなかった)のではないか、と思わしめるリアルさがある。
 ぼくは、もうこの世にはいない自分の祖父母を思い出す。
 祖父母はドラマで見るような類型的な感情表現——喜怒哀楽の表現をほとんどしない人だった。それは祖父母にかぎらず、ぼくの田舎の、あの年代の人たちにある程度共通したものだったように思う。

 いまここに、ぼくの出身地である愛知県西尾市の市史がある。そこに第二次世界大戦にかかわって、「生き残ったものの声」という節があるのだが、戦争における「死」をどのような感情をもって受容したか、という表現がほとんど出てこない。もちろん、市史である以上、叙事的な記録に徹するのだということなのかもしれないが、どうもそうとも思えない。

「学生で授業を捨て何のために工場へ行って働くのか疑問にも思い悲しかったが、いつのまにか忘れてしまい、仕事になれば楽しいこともあった」(勤労動員学徒、『西尾市史』四巻、p.1638)
「昭和二十年の三河地震で父と妹をなくし、姉の怪我の看病を母としながら工場に通ったことはつらかった。……特に雪の田んぼ道をひとり歩いて行ったことは、私の胸の中を今も去来する」(同前)
「すさまじい名古屋大空襲。A川の堤防へ出て兵隊と一緒に見る。火柱が立つたびに下士官がB29の撃墜だ。又一機、又一機と興奮して叫ぶ。焼夷弾の投下ではないかと半信半疑だ。翌朝、運動場に灰の散っているのを拾い上げてみると、教科書の印刷文字がくっきり浮かんでいる。心が痛む」(教師、同p.1640)

 このように感情はそれなりに省かれずに記録されている。
 なのに、多くは叙事的な記述ばかりなのである。

「供出はえらかった〔大変だった〕が、多少保有米は残るのでこれを親戚などへおくった者もいた。……その当時の人は、『百姓は昔から銭は入って来ないものときめていたが、こうも何で売れるのか』と喜んだ。私の家では名古屋に娘を嫁がせていたので、そこへ食料を運んでやった」(農民、同p.1645)

ラバウルに上陸して中隊の人事をしていた。食料もだんだん乏しくなり、食料農産隊長としてさつまいもを作っていた。大きくて味がよかった。手榴弾で魚を取ったり、オウムなどの鳥をとり、野豚や山羊を食べた。ヤシもあった。オカボを作って自給自足の生活をした。敵は中央突破してしまい、ラバウルの日本軍のことを『銃と武器を与えた捕虜』だといっていたようだ。内地との連絡はつかず、完全に置き去りにされてしまった。病気や栄養失調で次々と倒れていき、火葬場の煙は絶えることがなかった。毎日毎日、爆撃があり、機銃掃射を受けた。私は塹壕の中でヤシの葉で眼をついて眼を悪くしてしまった」(出征兵士、同p.1649)

 そのとぼけた叙事的な調子に水木しげるを思い出す。あの感情の温度は、ぼくらの祖父母のような田舎の日本人の感情の温度なのだろうと思った。

 もしそうだとすれば、戦時下の呉=日本の田舎を描くときには、そうした空気を再現しなければならない。作者のこうの史代は、そのことにかなりの注意を払っているように思われる。

 とくに、こうのがこれまで『さんさん録』などで見せてきた生活の細々としたものへのトゥリビャルとさえも思える関心の強さがそこで生きてくる。
 いまぼくは、自分の郷里の『西尾市史』が、地の文だけでなく、「声」までも叙事的だとのべた。当たり前のことであるが、戦時下の生活とは「戦争への勇ましい気持ち」あるいは反対に「戦争への憎しみや悲しみ」に覆われていたのではなくて、膨大な「日常の瑣事」に覆われていた。

 たとえば上巻で、こうのは「楠公めし」の作り方をずいぶんと丁寧に描く。中巻では落ち葉でつくる「炭団の代用品」の作り方について、これまた丁寧に描いている。他にも婚姻の様子、海苔を摘む作業の描写、そういうことをこうのは丁寧に——というよりも実に楽しげに描く。納屋にしまうもの、納屋から出すものなんて、普通わざわざ描かないだろ!?

 『西尾市史』において「服部又兵衛の日記」なるものが載っている。終戦日には「降伏、茫然自失」と記すようなこの日記ではあるが、やはり「戦争的日常の雑事」に追われる終戦の毎日が簡潔に記される。

「一月二十一日 震災奉仕、和気〔地名〕。
 二十二日 自宅復旧作業。
 二十四日 震災奉仕、尾花〔地名〕。
 二十九日 農衣、手袋修理。
 三十一日 兵隊送り。
 二月十二日 遺骨迎え。
 十四日 砂糖配給。
 十六日 親戚復旧作業手伝い。敵艦載機大挙来襲。
 三月五日 松の根掘り出し供出」(『西尾市史』四巻p.1530)

 こうやって細やかにつくりあげられた世界に、しかし、こうのは単なる「生活の記録」だけを置くわけではない。
 生活の細々とした質感、感情表現の温度や湿度は当時のものを大事に器としてつくりながら、そのなかに現代のぼくらに届くような人々の気持ちを乗せていくのだ。

 すずの幼なじみで水兵となった水原が入湯上陸で、すずの嫁ぎ先の家に泊まることになる。
 憎からず思い合っていた二人が次第に体と顔を寄せ合っていくそのシーンに、戦時下との空気のつながりを感じながらも、実に自然に現代の恋愛感情へと誘われているぼく自身に気づく。

 だが。

 こうしたシーンもふくめて、最終的な評価はやはり下巻で完結するまでとっておこう。ぼくはいま、中巻までを読んでどうしても書き付けたくなったことをここに書いたのである。