『18歳の今を生きぬく 高卒1年目の選択』

 なかなか興味深い調査である。

 

 

 若い人がどのようにフリーターになるか、あるいは、正規の職につくか、あるいは進学の夢を持ち直すのか、を追跡した調査だ。

 統計では質が捨象されてしまう、という方法と逆の方に行けば、「ルポ」というやり方があるだろう。
 NHKドキュメンタリーの「フリーター漂流」や「ワーキングプア」などはこの方法をとった。事態の本質をあらわしていると思える「典型的」人物を探し、その人間に焦点をあてて、問題を浮かび上がらせるという手法である(むろんそのなかで「統計」は駆使されるが、統計と典型的人物は画然と分かれている)。

 この調査がとった方法は、いわばその中間をいくものだった。

 東京の公立高校を2つ選んで、高三生89人から聞き取りをおこない、その後の過程を2年間にわたって追跡し、インタビューをくり返したものなのだ。

〈私たちは、あえて中間層以下の若者たち、すなわち近年の状況変化の中で、その影響を最も大きく受け、また困難に直面しているであろう層に焦点をあてることにした〉(p.31)

 いわば矛盾の集中点、それがもっとも鋭く現れるところをとりだしたのだというわけだ。

 ルポと数量統計の中間というだけでなく、一断面での切り取りではなく、時間的経過をふまえている。これは次のような事情によるものだ。

〈いずれにしても今日、まずはじめに重要なことは、若者たちの実態をリアルに捉えることである。だがそのことは、残念ながら現在のところ、公的統計を含めて、きわめて不十分である。その際、指摘しておきたいのは、変容する移行過程の実態を正確に捉えるためには、これまでにない方法が求められていることである。
 先進諸国における若者の学校から仕事への移行過程の変容の特質は、長期化と複雑化の中で、就業と失業、教育・訓練等の間を、あるいは両親への経済的依存と自立との間を頻繁に行きつ戻りつする「ヨーヨー・モデル」として捉えられている。従来の移行過程が、最終学校から正規就業への比較的スムーズで短期間のうちに完了するものであったのに比べ、そこでは、多くの若者たちにとって、頻繁に状態の変化する不安定な期間が長期にわたって続く。したがってある一時点での状態は、必ずしもその若者のリアルな状況とは限らない。リアルな状況を把握するためには、一定の期間にわたる若者一人ひとりの状態変化のプロセスを明らかにする必要がある。
 しかしこれまで、若者の現状を捉えようとする諸調査は、政府の公的統計調査も、そのほとんどがある一時点での若者の状態や意識のみを明らかにしようとするものであった。〉(p.26~27)


 この特異な方法のおかげで、本書を読んだときの印象は、ルポとも、統計を駆使した分析ともまったく違ったものになった。
 統計だけを読んだときに感じるノッペラボーさ、そこにある生活の実感が剥ぎ取られてしまっていることへのもどかしさは、かなり和らいでいる。
 また、ルポを読んだり見たときに感じる不安――本当にこの人が典型的人物なのだろうか――も、かなり緩和することができる。
 しかしまた逆に、両者からみて「中途半端」だといううらみもある。うむ、たしかに章ごとのまとめ方は、いささか強引な印象をうける。

 しかし、対象を固定的ではなく時間的変化のなかにおいたこと、そして一定数の人に聞いたことで、他の本では得られなかった「若い人のリアルさ」を感じることができたのは、間違いない。

 
 この本、というか調査でいちばん印象にのこったのは、その人を支えるネットワークについての考察だった。

 まず、「仕事を続ける力」として、ネットワークは現れる。

 第3章には、高校を卒業して正社員となるものの、「過酷」というよりは、どこにでもありそうな問題に苦しんで会社を辞めてしまう2つのケースが紹介されている。

 一つは、事務用品のメーカーの子会社に就職し、「事務のようなもの」を担当することになるのだが、掃除、洗濯、コピー、買い出しなどあらゆる雑事を一切ひきうけるという感じの仕事で、〈ほかの社員が帰宅して、ようやく彼女は自分の机を整理し、割り振られたパソコンのデータ入力にとりかかることができる。すべて終わって自宅に帰り着くと、八時や九時になっていることも珍しくない。夕飯を食べる気力もなく、そのまま床につく毎日だった〉(p.57)。
 会社の業績悪化とともに社内の雰囲気もすさみ、この女性は会社をやめる直前には〈ほとんど鬱状態になっていた〉(p.58)という。

 もう一例は、卒業後、化粧品の容器などの製造会社のラインに正社員として働くのだが、職場内のいじめから出社拒否の状態におちいってしまうケースだった。

 正社員になりながら、辞めざるをえなかったこのケースと、働きつづけられたケースを比較して、この章の執筆者(木戸口正宏)は次のようにその違いを指摘している。

〈研修制度をはじめとした教育訓練機会の提供は、新規採用の社員を、仕事に慣れ、仕事を覚えるという点でサポートするだけでなく、職場内で同輩集団を形成することを促し、人間関係という面でも、新入社員を職場に包摂する役割を果たす。そのような場と機会が数多くあることは、新入社員が就業を継続するという点できわめて重要な意味をもつ〉(p.70~71)

〈しかし、私たちが聞き取りを行った、正規就職者の多くは、このような職場研修や職場内の同輩集団に出会う機会のないまま、「責任ある」正社員として、おのおのの職場で振る舞うことを求められていた。そのことが、彼らに過度の労働を強い、職場内での人間関係のトラブルの背景となっている〉〈彼らは、悩みを相談し状況を共有できる同僚を欠いたまま、孤立し、一人思い悩んだ末に、離職を選択せざるをえなかったのである〉(p.71)

 木戸口は、この章のまとめとして、「職場に定着するためのサポート体制」「安定した生活に足る賃金と最低限度の社会保障」を提唱している。


 このサポート体制というのは、職場の体制だけでなく、もう少しふみこんでみると、「友だちネットワーク」の力ということになるだろう。木戸口は「同輩集団」という言葉を使っているが、同世代の何でも話せる仲間の存在が「仕事を続ける」ということに大きな影響をあたえる。

 こうした問題の重要性は一般にはいわれるけども、実際の職場ではあまり重視されていない問題だ。

 ぼくの勤め先でも、若い人や同世代の人が、まさに働きすぎたり、思いつめるようにして辞めていってしまう。
 職場に若い人がおらず、ちらばるようにして存在しているので、同じ世代の感覚で交流できる人がいない。そのために、本音をかわすことができず、思いつめてしまうのである。

 ぼく自身は、こういうネットワークに何度となく助けられた。
 そのことに気づかなかった時期は、本当につらかった。
 会社のほうもそのことを気づき始めて、意識的にネットワーク化や交流することさえしているのだが、まあ、“上からのネットワーク化”というものは、いくら善意であってもどこか落ち着かないものだ。
 若い人自身が問題意識に感じてネットワーク化をはかることが必要になる。
 昔は労働組合などがそういう自発的な横の交流をうながす役割を果たしたのであろうが、そういう機能が現在の日本の職場では弱い。

 「仕事を続けられないのは、しっかりしたビジョンや職業観をもたずに就職してしまうからだ」という言説がある。それゆえに、そうした職業観を早期から確立させるための策が提案され、政策化されてきた。
 厚労省外郭団体がつくった、「ムダづかい」と悪名高い「私のしごと館」はこうした思想の具現化である。〈私のしごと館は、若い人たちが早い時期から職業に親しみ、自らの職業生活を設計し、将来にわたって充実した職業生活を過ごすことができるよう、様々な職業に関する体験の機会や情報を提供するとともに、必要な相談・援助等を行います〉(同館ホームページより)
http://www.shigotokan.ehdo.go.jp/watashi/abt_cpt.html

 第4章ではこうした見方の一面性を批判して、執筆者(渡辺大輔)は次のように結論づけている。

〈若者が働きつづけられるためにいま最も必要なものとしてあげられるのは、若者の職業意識、勤労観の形成、コミュニケーション能力の育成という「意識」のありようの変化ではなく、若者(だけではない)が働きつづけられる、働きつづけようと思える職場での働き方や、そのような若者を育てていく労働条件、労働環境の整備である〉(p.107)


 第9章では、専門学校に進学した人たちを追い、「なぜ専門学校を辞めずにつづけているか」という角度から、この「ネットワーク」というものを考えている。

 この章の執筆者(西村貴之)は、看護学校のような、公的な資格取得という目的がはっきりしている専門学校に限って取材している。
 そこでの同輩集団のネットワークは、たんなる「友だち」のネットワークをこえている。

〈友人関係のような私的な関係性とは異なるかたちで形成されたこの仲間関係をもっている若者たちの場合、お互いの悩みや不安を聞きあい励ましあいながらハードな移行過程を生きぬいている〉(p.222)

 明確な目的で集まった集団であるという点では、友だちネットワークとは違い、職場の同輩ネットワークに近いといえる。しかし、研鑽や切磋琢磨の雰囲気がある専門学校では、職場以上に目的意識性が先鋭となるのではないかと思う。

 しかし、先鋭的であるがゆえに、逆の複雑さももっている。

〈その反面、このような関係性は、技術実習をとおして常に技能レベルが仲間と比較され明らかになってしまうことによって、ときに彼ら彼女らの一部をその関係から「淘汰」する機能も有している〉(p.222)

 しかし、これはこうした集団が活力にあふれていることを逆に示すものであり、こうした側面があるからこそ、ぼくにはこのような専門学校のネットワークは貴重なもののように思われた。

 さらに10章では、地元の友人の間に生まれる、まさに「友だちのネットワーク」に注目している。10章の中で高校時代からいつも3人でつるんでいて、卒業してもいっしょにいる3人の女性を取材している。

 〈いつも一緒〉〈腐れ縁だよな〉(p.234~235)

と自分たちのことを自嘲しているように、趣味(アニメ)で結びついたこの3人は同じ会社にさえ就職している。

〈彼女たちにとっては、仕事がうまくいくかどうかや将来自分がどうしているかということよりも、この仲間とこの地元で変わらず暮らしていくということのほうが、現時点でははるかに重要な関心事になっているといえる〉(p.239)

 10章の執筆者(竹石聖子)は、この地元ネットワークの連鎖を描き出して、職場でのつらさや落ち込みも、こうしたネットワークが救うとしている。
 

 このネットワークは、この本では「社会関係資本」と呼ばれている。

〈「資本」という概念を採用したのは、ある若者が仕事を選択する際、その若者の家庭がもつ経済的・文化的基盤を、労働市場を渡っていく際の元手、すなわち「資本」として活用していくことを表現したかったからである。この概念は、フランスの社会学ピエール・ブルデューによって提唱されたものだ。彼によると「資本」とは、家庭の経済的基盤と結びついた「経済資本」、そして家庭にある本や、家庭の中で交わされるコミュニケーション、伝達される芸術などの趣味といった文化的要素が「資本」に転化された「文化資本」、そして友人・知人のネットワークが「資本」となった「社会関係資本」などがあるという。P・ブルデューディスタンクシオン1』石井洋二郎訳、藤原書店、一九九〇年〉(p.131)

 「資本」というとらえ方(マルクスのそれではなく、ここでいうブルデューのそれ)をつかうと、問題がクリアになると感じた。

 それは、経済困難をかかえる高卒者の進路を考えるとき、さまざまな次元や位相にあるものが、同じ平面におりてきて、とても整理しやすくなるからである。

 家庭の経済格差ということや、そこから生まれる家庭の文化的な空気が子どもに与える影響、利用できる知人や友人のネットワークなどの問題が複雑にからみあって、高卒者の進路の困難をひきおこしている。
 こういうからまりをパッと説明することは難しい。

 しかし、「労働市場を渡っていく際の元手」として問題をとらえることで、問題が一つの平面にのっけられるのだ(この本には「感情資本」なる言葉まで登場する)。
 そして、根源は「経済資本」にあるのだろうが、(抜本策ではなく)当面の対策を考える場合に、単に「経済資本」だけに着目するのではなく、そこから派生する「文化資本」や「社会関係資本」をどう豊富化していくべきかというふうに問題を考えていくことができる。

 最終章である11章で、編者の乾彰夫は、10章に登場した地元のネットワークについて「共同資源」と呼んでいる。

〈彼女たちのつながりは、紹介したように、三年間を一緒に過ごした高校生活に基づくものである。しかし、それは「高校時代」がただ続いているわけではない。もちろんそこでは、高校時代から気が合ったり同じ趣味だったりというつながりは重要な媒介にはなっている。けれどもいまの関係は、彼女たちが社会に出て、さまざまな問題にぶつかる中で、「再発見」され「再形成」されたものである。もちろんここで描いたような関係が、いま現在彼女たちが思い描いているほど、永続的に続くかどうかは定かではない。しかし現時点で、高校時代にいったんつくられた関係が、社会に出て困難にぶつかる中で、「いまを生きる」ための「共同資源」として活用されているということが重要である〉

〈このことはまた、困難で不安定な移行過程をたどらざるをえない若者たちにとって、「高校生活」とは何か、を問い返すことでもある。B高校は、さまざまな困難を抱えた生徒たちが多く入学し、中退者も多く出る状況のもとで、学校行事やホームルーム活動、生徒会など、生徒同士、生徒と教師との間の関係を丁寧に創り上げていくことに、教師集団が長年の努力を積んできた。そうしてつくられたアットホームな雰囲気は、この学校の特徴の一つであった。このような教師集団の努力とそのもとでの学校生活のあり方は、確実に、彼女らが卒業後に活用できる「共同資源」を豊富にしていたといえる〉(p.268~269)

 このような「共同資源」の豊富化は、人間を孤立した労働能力としか把握できない財界の「人間力」戦略からはとうてい出てきようのない発想である。なるほどこの財界の「人間力」戦略は、「社会全体で」若者の人間力を鍛えてやろうということなのだが、そこでは孤立した若者が姿勢を「矯正」され、能力を「開発」させられていくというイメージしかもちえない。

 弱さや困難を補っていける、いや補うなどという目的意識性すらない「ほげほげした」ネットワークなどというものは、「人間力」運動からは一切見えてこない。以下のURLは財界が推進する「若者の人間力を高めるための国民運動」のメニューなのだが、こうした「社会関係資本」の豊富化という観点は少なくともぼくには見えてこない。
http://www.wakamononingenryoku.jp/movement/plan/

 この本というかこの調査はまだ緒についたばかりで、本格的な成果はこれからだといえそうである。しかし、現時点でも短い期間ながらこの調査は、若い人たちの「現場」から問題を考えることで、財界や政府の労働政策の背景にある発想をラジカルに批判するものになっている。