『マルクス「資本論」に脱成長のヒントを学ぶ』

 最近でた『資本論』入門書シリーズの2つ目。

 斎藤幸平+NHK「100分de名著」制作班監修『マンガでわかる! 100分de名著 マルクス資本論」に脱成長のヒントを学ぶ』(宝島社)である。

 マンガは前山三都里。「編集協力」は山神次郎、「取材・文」は乙野隆彦・森田啓代ということなので、実際にはこのあたりの人が書いているんだろうな…。

 

 斎藤幸平といえばこのツイート。

 これはあかんやろ。なにやってんねん。

 斎藤の言っていることが事実であるなら、マルクス解釈・成長解釈は違うといえども、『資本論』をここまで有名にした斎藤幸平と、なんで共産党は対談しようとしないのか。

 大いに対談したらいいではないか。共産党側が何かの節度や善意があって反応しないのだとしても、現在の共産党側の態度表現の仕方はあまりにヘタクソなのではなかろうか。

 

 

 

 さて本書である。

 これは正確に言えば『資本論』入門書とは言い難い。『資本論』関連本といったところだろう。そして、その解釈は斎藤幸平流。

 斎藤は監修者として本書のあとがきでこう言っている。

本書のマンガも、小さな仲間たちの意識改革で終わっていますが、現実には、気候変動のような問題を解決するためには、もっともっと大人数の参加が必要です。だから、本書がその大きなうねりを生み出すためのきっかけとなることを願っています。

 斎藤の『人新世の「資本論」』やNHKの「100分de名著」における斎藤流『資本論』紹介は、たしかに社会の大きな枠組みを問い、その変革を訴えるものであった。そしてそのスケールは確かにマルクスそのものである。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 ところが、本書は、斎藤が述べているように「小さな仲間たちの意識改革で終わって」いる。

 これは、斎藤の著者・マルクス資本論』と、本書との距離であるが、逆にいえば、本書の特徴でもある。

 

 休日に里山に集まるだけの、会社も階層・階級もバラバラな人たちをめぐるマンガである。里山という自然にすばらしい息抜きを感じている多くの仲間たちに対して、山の所有者であるメンバーの一人は里山を「金儲け」の道具に変えていこうとする。その小さな違和感が一つの主題となる。

 さらに、休日でない平日のメンバーたちの労働現場に時々目が転じられ、そこでのサービス残業パワハラによる成果追求、ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)の問題などが挟まれる。

 これらは、人間と自然の物質代謝、コモンと商品、労働者の「自由」、絶対的剰余価値、相対的剰余価値、分業、部分労働、アソシエーションなどといった『資本論』の基本問題へとつながっていく。

 

 いきなり「社会変革」を志すことは難しい、という人も少なくなかろう。まあ、たぶんそっちの方が多数派である。

 だとすれば、ぼくらは休日に触れる自然、平日の労働の矛盾を感じたときに、一足飛びに社会変革や政治変革に投じられるのではなく、まず小さな違和感をいだき、その違和感を解釈しようとし、そして身の回りで小さな行動を起こす。

 そのような行動のサイズを考えた時、ひょっとしたら、本書のような「第一歩」は最適解なのかもしれないのだ。

 左翼は、かつて労働運動から少なくない人が流入してきた。

 しかし、こんにち、そのようなルートは有効だろうか。

 ぼくは、本書を読みながらこんな短いマンガなのに、里山で集まっている仲間たちのキャンプの描写にずいぶんと惹かれるものがあった。前山のグラフィックが醸し出すゆったりした感じ、好みである。

 面白そう。

 行ってみたい。

 と至極単純に思ったのである。

 例えば、夕焼けを見ながらコーヒーを飲んでいるこの描写をぼくは繰り返し見てしまう。

本書p.15

  あるいは、マルクスの解説的な立ち位置にいる町田という女性(小さなPR会社の経営者、おそらく年齢はぼくと同じくらい)の次のような「ゆったりした」感じ。

本書p.66

 あー、テントでコーヒー飲みてえ、と思ってしまう。

 へ? たったこれだけで? と思うかもしれないけど、そうなんだよ! 悪いか。

 こういう休みが待っていたら平日の激務もがんばれるかも、って素直に思うんだよな。

 そういうことをで集まっていく(つまりオルグしていく)左翼運動があったっていいじゃない、と思うんだよな。

 行きてえ。参加してえ。

 って心や体が欲している。

 ラストの結論が「小さな仲間たちの意識改革」と言っているわけだけど、この仲間たちは汲み上げた水の共同利用や市民発電などのアイデアを出して終わる。ぼくが関わっている左翼運動にはそういう入り口が全然ない。

 コミュニスト組織の再生産の話に関わるけど、組織が提起する多くの課題が、およそぼく自身にとっても魅力のないテーマに終始している。里山だのキャンプだのは一ミリも出てこない。運動の生き生きした原初的なエネルギーがなければ、友人も誘ってそこに身を投じようなんて思うはずもないではないか。

 いやあるよ。気候変動について若い人の団体と懇談しませうとかそういうのが。

 だけど、そういうことじゃないんじゃないの?

 魂が震えるような運動の体験がなくて、人なんか集まらないと思うんだよ。

 最近、ひょんなことから、渡辺武という共産党国会議員のパートナーであった渡辺泰子という人の自伝を読む機会があった(ご存命である)。

 渡辺泰子は1950年ごろに福岡市の樋井川(現在の城南区)付近で活動しており、同じ細胞(党支部)には大西巨人夫婦もいた。彼女は部落の子どもたちのために農繁期託児所をつくり、人形劇や紙芝居を演じたりする。稲庭桂子:作・永井潔:絵の紙芝居「正作」を買ってなんども演じるくだりがある。

私はこの「正作」をこのときから九州を去るまでの二年半の間にどのくらい演じただろう。私はこの紙芝居を長尾の引く丘の尾根を越えた向こうの部落の子供会でやった時の、女の子の涙でいっぱいの目を忘れない。たった十六枚の動かない絵で、こんなに人の心を動かすことができるのか。私は紙芝居の持つ力を実感した。(渡辺泰子『息子たちへ』上、p.108)

 

 

 

 人々の心と体の奥底から生まれてくる要求に応える真剣な運動があって、忘れられない体験としてその運動を大切にし、居着くのではないのか。

 本書(『マルクス資本論」に脱成長のヒントを学ぶ』)の里山でのキャンプの描写を見るたびに「行きたい」と思うぼくの心は、そうした運動の原初ということを考えさせてくれるのである。