平野啓一郎『本心』

 リモート読書会は平野啓一郎の小説『本心』であった。

 

本心

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 この作品のテーマの一つが「自由死」である。

 ある時期が来たら自分の意思で死を選ぶということである。この小説の世界では、それが強制ではなくあくまで権利としてではあるが、希望すれば実現するよう制度化されている。

 主人公の母親は「自由死」を望む。最期を息子に看取られて死にたいというのである。しかし息子である主人公は猛反対する。同意が得られないまま時間が過ぎていき、不慮の事故で母親は亡くなる。

 主人公の青年・朔也は、人間が死を自主的に選ぶことはありえず、「自由死」とは結局社会に追い詰められて死を選ばされている結果であろうと考える。

 朔也の考えはぼくに近い。

  前回題材になった小説『老乱』を読書会で議論した際に読書会参加者Bさんの知り合いの話が出た。

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 このことにかかわって、Bさんが、自分の知り合いの話をしていた。

 Bさんの知り合い、Cさんは、夫が認知症になった。その姿をみて、Cさんは夫が亡くなった後、密かに自死を決意し、2年ほどかけて身辺を整理し、自ら死を選んだという。亡くなった日の午前中に、Cさんは自分の親しい人に渡すためのほうれん草を茹でて、冷蔵庫への収納箇所まで指示してあったという。

 このCさんの話は、あまりに衝撃的だった。

 Cさんについては個別の事情もあろうから、Cさんの死をぼくが評価することはできない。

 しかし一般的な話として、尊厳を守る」ということが「人様に迷惑をかけない」ということの裏返しとしてある、という問題を考えないわけにはいかなかった。

 

 生きるということは社会に依存して生きるということであり、人様に迷惑をどこかでかけ続けることである。完全な意味での「自立した個人」などというものは存在しない。

 そのことを社会観のベースに置く必要がある。

  まさにこの問題である。

 ふだんからリベラル系の発言が多い平野啓一郎のことだから、「自由死とは畢竟追い込まれての死だ」という論調なのかと思いきや、むしろその考えを揺さぶるように小説が書かれている。

 例えば、読書会参加者はあまりそう思わなかったらしいが、母親の自由死を承認した医師・富田の

「そうですよ。基本的に、まずは十分に話を聴いて、考え直すことを促すんです。生き続ける可能性がある限りは、そちらを選択すべきだよな。けれど、本人の意思が固いとわかった時には、それを尊重すべきじゃない?あなたにだって、お母さんの個人の意思を否定する権利はないんだよ。お母さん自身の命なんだから。」

「あなたはさ、お母さんの生涯最後の決断を信じないの?」

といったような、横柄でいやらしい言い回しは、ぼくを揺さぶる。

 平野へのインタビュー記事にはこう書かれている(東京新聞2021年5月30日付)。

「もう十分生きた」「いつ死んでもいい」。平野さんは若いころ、年配者にそう言われるたび反発を覚えてきた。「『もっと生きたい』と思いながら死ぬ人だっているのに」と。しかし人生の折り返し地点を過ぎたころ、考え方に変化が表れた。「誰しも家族に囲まれ、幸福な状態で死を迎えたい。自分で死に方をデザインしたいという欲求に、社会はノーと言えるのか」

 「本心」というタイトルをつけながら、その結論ははっきりと出されていない。

 読書会参加者のAさんは「結局どっちなの?」とイライラしながら言っていた(笑)。

 小説の後半では、朔也の出生をめぐる秘密が明らかになる。

 朔也は母親を失った喪失感に耐えられず、亡くなった母親の生前のデータを集めてヴァーチャルに蘇らせる「VF」をつくる。VFを補強し、完成させていく作業、間違えたらセーブポイントまで戻る仕組みなどは、朔也の了解・許容範囲内で「母親」のヴァーチャルが作られていくことを意味する。

 ところが、出生の秘密とともに次第に明らかになる母親は、自分の全く知らない母親であった。そしてそれはにわかには了解しがたい存在として朔也に対峙することになる。

 作品の後半で出てくる「最愛の人の他者性」という問題である。

 一番自分が好きな人が、理解不能な「自由死」を選ぶこと自体がまさにそれであるが、母親自体に大きな他者性があることがわかる。他者なのだから理解し尽くせると思う方が傲慢なのだろう。しかし、それでも理解へ向けて無限に近づこうとする。結局他者性は克服されず、問題はスッキリとは解決しない。しかし、それこそが文学なのだと平野は考えている

アポリア(行き詰まり)のない小説は文学として書く意味がないと思うんです。どこかにアポリアを内在させていて、その矛盾に向かって言葉が熱を帯びていくのが文学じゃないか」

 いや、だまされるな、と思う。

 もっともらしいけど、そうじゃないだろ。

 例えば、現在でも緩和ケアのようなものは一種の死を選ぶことに近い。病気がもたらす耐えきれない苦しみという明確な原因に対して、人間の尊厳を守るためにあえてそうした選択をすることはありうると思う。

 その選択はぼくでも、そして第三者でも理解できるものだろう(理解できない人がいるかもしれないが)。

 しかし、一見して不可解な理由、他人にはすぐには理解できないような理由で死を選ぶということはあり得るのだろうか。それはやはり何かに追い詰められた不本意な結果ではないのだろうか。そうであるに違いない、というのがぼくの考えたことである。

 

 次回のリモート読書会は、ヴィトルト・ピレツキ『アウシュヴィッツ潜入記』である。(ぼくは三島由紀夫金閣寺』を推したんですがね…)

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