ぼくが小さいころ、兄と卓球をしていて、縁をねらった球をうつと、「丸紅打ち」と兄に非難された。打球自体はセーフなのだが、ボールが縁にあたると、異常な角度をつけてボールが飛んでいき、ほぼ確実に打てなくなる。
当時ロッキード事件がおきており、総理大臣もからんだこの壮大な汚職事件の一角に丸紅という商社を介したルートが存在していたことが知られている。テレビや新聞でさかんに「丸紅ルート」などと報じられ、丸紅はダーティな企業の代名詞になっていた。
子どもたちはこういうことに敏感で、「汚いやり方」を当時「丸紅●●」などと呼んで囃し立てていた。もちろんまだ小さかったぼくにはそういうセンスはなく、歳の離れた兄たちの世代のなかで流行ったものである。社会派の香りのするこのネーミングにたいし、ぼくは子ども心に知性を感じ、ぼくの世代でも流行らせるべくさかんに使った。
汚い打ち方=「丸紅打ち」。
このネーミングは、ひとつは、大企業というものがそれほど信用に足る存在ではないということをぼくの幼心に植え付けた。大企業を社会的信用の代名詞のように考えない端緒だったかもしれない(笑)
もうひとつ、「ルール内であっても汚いやり方で勝つことは許されない」というスポーツ「倫理」が何となく自分のなかにうまれた。別の言い方をすれば「正々堂々スポーツマンシップにのっとり」たたかうことが、スポーツにとって大事な価値観だと刷り込まれる発端になった。
人生のさまざまな局面でぼくらはスポーツにおける「勝利至上主義」への軽蔑を吹き込まれる
思えば、スポーツにおいて勝利が至上のものではない、というメッセージをひとは人生のいろんな局面で刷り込まれる。
たとえば、ぼくの中学校は、全員運動部に所属しなければならなかった。
全員を加入させるというのは、教育政策、もっと露骨にいえば非行対策だった。暴力にむかうエネルギーを発散させ克己心や自己コントロール、忍耐力の養成へときりかえさせる。「部活動で得たもの」というタイトルの作文が氾濫し、そこには「どんな手をつかってでも相手を打ち倒し勝利を得る」というテーマは絶対に書かれず、「弱い自分をのりこえて誕生した新しい自分」「つらい練習に耐えて栄冠をつかむ忍耐力」などといった価値観が称揚される。そして、その価値観を自分で書くことで自分に刷り込んでいくのだ。
全国大会、県大会はおろか、地区大会、市大会でさえ勝てないぼくらの弱小部活動は、勝利をめざしつつも、それが勝利のためにおこなわれるのではないことをよく知っていた。
もし部活動が「勝利のため」という一点に研ぎ澄まされていたなら、どうしてあんな先輩・後輩の不条理な体制のなかに入り、イジメとも練習ともつかぬ「シゴキ」に何年も耐える必要があっただろうか。これは忍耐である、克己心の練成である、というメッセージをいくばくか信じていなければ耐えられるものではない。
多くの人は、スポーツを自分でおこなう体験を学生(小学校から大学まで)時代にもつ。たいてい教育目的に従属しているから、スポーツ体験は「勝利を至上とする」というメッセージではなく、なんらかの自己実現を“本来”の目的とする形で現れる。
つまり、多くの日本人にとってスポーツは、勝利を至上とするというものではなく、それをむしろ副次的なものとし、勝利をめざすという行為を通じて「強い自分」「忍耐力をもった自分」「正々堂々の精神をもった自分」「肉体的に鍛練された自分」などさまざまな自己実現をめざすものとして存在している。
だとすれば、スポーツをめぐる倫理や道徳を哲学として研究する「スポーツ倫理学」はこのような精神・思想状況に強く規定されざるをえないだろう。
本書の著者である川谷は、スポーツをめぐるこのような思想状況から出発している。
勝利至上主義はスポーツ倫理学では少数派
川谷の立場は明瞭である。スポーツの内在的目的(エトス)を「勝敗の決着」だと語る。自らの立場を「競争理論」と呼び、勝敗(優劣)を競争によって決定することこそ、スポーツの本質だと明快にのべる。それは勝利至上主義といってもいい。
「スポーツの本質は競争であるというほとんど自明の主張は、スポーツ哲学/倫理学ではほぼ受け入れられません。この現状は、どう考えても変です」(p.175)
この「勝利至上主義」の主張は、ある意味で「えげつない」(同)。
具体的場面ではどのように「えげつなく」なるのか、川谷はまず二つの例をとりだして読者につきつける。
- (ア)柔道の山下選手が右足をケガしたとき、そこを攻めなかったといわれているライバルのラシュワン選手の行為は「スポーツマンシップ」にのっとっているかどうか。
- (イ)強打者で知られる松井選手は、高校時代、相手チームの明徳高校に5連続敬遠されたが、この明徳のやり方は「スポーツマンシップ」にのっとっているのかどうか。
みなさんは、どう答えるだろうか。
ちなみに、ぼくは知り合いにこの問いを出してみたところ、知り合いは(イ)について、明徳の行為はダメだ、と答えた。彼は「高校野球として面白くなく、面白くないということはどこかでスポーツマンシップに反しているのだ」と。
ケガの箇所を攻めたてる。
強打者と一度たりとも正面から勝負せず5回も連続して敬遠する。
ぼくらの脳裏に「スポーツマンシップにのっとり正々堂々たたかう」という言葉に反している「えげつなさ」がうかぶ。勝つ、ということに目を奪われ、もっとその先にスポーツがめざす大事ななにかを欠落させているのではないか、と。
川谷がしめしたこの2つの問いは、スポーツの内在的目的および本質をうかびあがらせる、すぐれた質問である。スポーツは徹底して勝利のために争われるのか、それとも勝利は結果としてついてくるものでそのむこうにあるもっと別の目的をめざしておこなわれるものなのか。
「弱点を攻めるのは悪いことか?」
はじめに川谷は、(ア)のケースについて考えをすすめていく。 川谷は「弱点を攻めるのは悪いこと?」という問題をたてる。そして能力的・身体的な弱点(たとえば内角が弱い打者に内角に投げる)と状況依存的な弱点(たとえばテニスで相手をふりまわして打ちにくいところにボールを落とすこと)にわけておいて、そのどちらの弱点とも攻め立てるのはスポーツの本道ではないかとのべる。
「具体的に言えば、テニスで、どうしても相手がいるところしかボールを返せない人は、本来の仕方でテニスをプレイすることはできません」「それ〔弱点――引用者注〕をまったく攻めない、攻めることができない人は、スポーツに参加する意志や資格を疑われてもしかたありません。少なくとも対面型スポーツは、相手の弱点を攻めることをその必要条件としています」
「おもしろいのは、(対面型)スポーツを実践するためには単に基本的な身体能力だけではなく、相手の弱点を攻めるという『姿勢』とか『態度』のようなものが絶対に不可欠だということです。そしてこの姿勢や態度が競技者を競技者として成立させているのだとすれば、これこそが競技者として最低限求められるスポーツマンシップなのではないでしょうか。このスポーツマンシップが欠けている人は競技者にはなれないかもしれませんが、日常道徳的にはなんら問題はありません」(p.23)
この質問と考察には、川谷のその後の論立ての多くの要素がつまっている。
すなわち、勝利のために、相手の弱点を徹底してつき、相手をうちたおそうとすることこそ、スポーツマンシップであり、勝敗の決着をめぐって争われるという点にこそ、スポーツのエトスがあると。
ゆえに(ア)は攻めるのが正解なのである(「攻めなかった」というのは実は神話であると川谷は書いている)。川谷は谷亮子の「相手の怪我をしているところを攻めてあげるのが、相手に対する優しさです」というコメントをひいているが至言というべきであろう。この「スポーツマンシップ」は日常道徳からみて、いかに「えげつない」か。
このスポーツマンシップやスポーツのエトスは、相手をうちたおし負かせるというたいへん暴力的な行為であることに気づく。ある意味で日常のぼくたちの道徳に、まっこうから反してしまう。しかし、スポーツという限られた場でなら許されてしまうわけで、そもそも、日常道徳とスポーツの本質はまったく相容れないものだと。
川谷が憂えているのは、現在、体育理論研究者のみがスポーツ倫理学を独占しているが、その倫理学の多くは「スポーツ外在的道徳規範を天下り的にスポーツに適用・応用する試み」(まえがき)になっていて、スポーツという概念がもっている内在的な論理から解きあかしていくものが少ないことである。
スポーツがもっている内的な構造をあきらかにすること――川谷はカント哲学を専攻しており、哲学者である川谷がこの問題をとりあつかう意義はここにある。
哲学をすることの愉悦
哲学は、常識にとらわれずに、物事を徹底的に考え抜く学問だといってもよい。物事を根源までつきつめる。その結果、川谷はスポーツというものの規定のなかに内在しているものか、それとも外からもちこまれたものかを厳しく峻別していく。
そう、厳しく。あいまいさを残さず、自分の説に敵対するものは、厳しく排するか、自分の学説の一モメントにして従えてしまうか、さもなくば自分が非を認めるかしかない。日常道徳や常識、あるいは政治運動ではないのだから、妥協してこれくらいで、というところがない。
川谷によればスポーツが相手を打倒する、または勝敗を決めて優劣をつける、徹底的に暴力的なものだという。「すべてのスポーツは、その参加者に、相手に敗北という害悪を与えること、つまり暴力的であることを要請します」(p.124)。そのことから、ボクシングの「暴力性」を考えていく章があるのだが、ここでその哲学的徹底性が炸裂する。
「『相手の身体に意図的に深刻な損傷を与えるのは許されない、暴力をふるってはいけない』という規定は、言うまでもなく、現在通用している一般的倫理原則、つまり常識道徳によるものです。スポーツの内在的規定ではありません」(p.117)
そしてこう言い放つ。
「極端に言えば、ルールに基づく殺し合いだって、スポーツであることは可能なのです(可能的競技)。それが認められないのは、殺し合いがスポーツではないからではなく、殺し合いそのものが現在の社会によって認められていないからなのです」(p.117)
殺し合いさえスポーツたりうる、それをやっていないのは、たんにスポーツ外在的な道徳の力にすぎない、というのが川谷の意見である。
スポーツのなかには1グラムの日常道徳もまじりこまない。そしてスポーツはその本質において暴力的であるとすることから、当然次のような結論も出てくる。
「時にその暴力的本性をむき出しにするスポーツと、穏健で最大公約数的な常識道徳との間には、常に緊張関係が存在します。/スポーツに関わる人々が、たとえ立派な大人であっても勝利のために常軌を逸した行為に走るのは、ある意味では、不可避的なことだと言わざるをえません。ですから、子供の教育の場面にスポーツを導入するのは、本来よほど慎重な配慮が求められるべきでしょう」(p.173)
これが、川谷によって、スポーツの内的構造を徹底して暴いていった結果みちびきだされたひとつの実践上の見識である。
「え、こんなことまでいっていいの!?」ということ、たとえば川谷のロジックでは殺し合いさえ可能的な競技としてスポーツたりうるということ。
あるいは思いもよらない、常識とは正反対の結論を手に入れること、たとえば子どもの教育としてスポーツをやらせることはよほど慎重でなくてはならないということ。
ぼくらの思考はふつうは常識のなかにどっぷりと浸かっていて、それをいったんぬぐってみたとしても常識や日常道徳は思考にふかくこびりついているものである。いや、こびりついているなどという程度のものではなく、それから逃れることはなかなかできない。
ところが、哲学という装置を使い、物事を徹底的につきつめていったとき、バキバキバキバキと大きな音をたてて固まったドロのようにこびりついていた常識が割れて剥がれ落ちていくのがわかる。あるいは常識という小さくて排除できない害虫が哲学という薬品を噴霧して残らず殺すような残酷な徹底性がある。また、常識をあざやかに反転させる爽快感は、徹底した思考をしたものだけが得られる特典だ。
これは、哲学をするということの愉悦である。
川谷のこの本を読んでいると、哲学をすることの楽しさが伝わってくる。
ぼくは左翼として、いつも「政治」にかかわっている。
政治とは何か。
カール・シュミットは政治的なものを固有に規定するのは「敵・友」の区別だとのべた。
ぼくはたえずこの政治思考のなかに身を沈めている。つまり、自分の陣営にどれだけひきこむか、あるいは相手の陣営にどれだけ引き込まれているのか、ということだ。
政治の世界では、多数派を形成するために、妥協をして一致点をさぐったりする。あるいは人をひきつけるための利益や権威が使われる。
それはまさに日常道徳や常識という即自的な意識をフルに活用し、それに依拠しながら敵味方の陣取りゲームをやっているような世界である。
川谷はボクシングの存廃をめぐる議論が、スポーツ外在的な道徳や常識をふりかざし廃止派・存続派のどちらが多数をひきこめるかという「政治運動」、つまりボクシングやスポーツの内在的論理の考察とはまるで関係ない多数決によって決められようとしている、として、哲学者である自分はそのことには何の興味もないと述べている。
「日本は議会制民主主義ですから、ボクシング禁止法案が国会に提出されてそれが可決されるかどうかによって、ボクシングという競技の命運は決します。ボクシングを廃止すべきだと思う人が多数派であれば可決されるでしょうし、そうでなければ否決されるでしょう。多数決である以上、それぞれの陣営はより多くの人を自らの陣営に引き入れようとするでしょう。そこで求められるのは政治力です。政治力の強い方が勝つでしょうし、弱い方が負けるでしょう。ただ、それだけのことです」(p.107~108)
政治という「常識の垢」にまみれた世界にいると、こうした哲学的議論は思考のなかに爽快感をもたらす。だから、この川谷の本を読んでいると脳の別の分野を刺激されるようで楽しかった。
ただ、本当はマルキストはそれではいけないのだが。
マルクスが革命運動の出発点に「哲学」をおいたのは、世界を根本的に考えてみたうえで世界の見取り図を出してみようとしたからだ。そのうえで彼我の力関係がどうなっているのかを冷静にみる、というのがマルキストなはずである。つまり哲学と政治がつながっているのが本来のマルキストなのだが、不良マルキストであるぼくは、なかなかそういう高邁な地点にはたてないのだ。
川谷の理論はドーピングを許容するか
なお、川谷は本書のなかでドーピングについても考察している。
ぼくが川谷のこの理論のなかで出てくる「弱点」を考えてみるに、ドーピングを否定しきれないことがある。なぜなら、もちろんドーピングはルール違反なのだが、そのルールはスポーツのエトスを体現する構成的ルール(そのルールを否定すると競技として成り立たないもの)なのか、それともそれとは関係ない派生的なルールなのか、という問題として考えると、川谷がいうように「一筋縄ではいかない問題」(p.99)になるからである。
勝敗を決するというスポーツのエトスからすれば、ドーピングを禁じる理由はない。
ぼくからすれば、たとえばスキーのジャンプ競技でウェアや板を技術的に改善できる資本力をバックに持っているかいないかだけでまるでちがってきてしまうというのは、ドーピングと同程度に「なんだかなあ」と思えてしまうが、それはスポーツのエトスとは関係のないことである。
勝敗を決するのがスポーツなら、そのための条件整備をしてなぜ悪い。
川谷自身、「私は、今のところこの問いに対してきっぱりと否定的に答えるだけの根拠を見出すことができていません」(p.100)「完全なる解決はおそらく望めないでしょう」(p.101)としているように、決着がつけきれない問題だと感じているようである。
ただ、それは川谷の理論やこの著作の弱点ではなく、哲学をつかって徹底したところまで考えてしまった結果、本人も「思いもよらぬ」ことが明るみに出てしまったという感じがしていて、これ自体、またしても哲学をする愉悦そのものだという気がした。
とにかく哲学をすることの楽しさが伝わる本である。同時にスポーツの本質をとらえるうえでのクールすぎるほどの著作で、これをもとに面白うそうなスポーツ漫画ができそうな気がするのだが(川谷は本書のなかで「スポーツ漫画」をいくつか引用している)。
もっと多くの人に読まれて楽しまれるべき本だと思う。