『このマンガを読め! 2006』

漫画のムックにたいする注文の原点

 いまから10年ほど前。

 ぼくがまだいまのような、ウェブで感想を書きなぐるというヤクザなことをしていなかったとき。漫画のランキングや年鑑を読むとその「専門家臭」に不満があったものである。

 市井の実感とかけ離れたランキングに呆れていたのだ。
 世間の売上ランキングや人気に背をわざとむけるかのように、マニアックな漫画作品をとりあげる評論家の姿勢に、まるで「差異こそ個性である」と主張して止まない高校生のような気負いを見ていた。つれあいなどとともに(当時は結婚していなかったが)、「こんなのが1位なわけねーじゃんねー。頭おかしいって。ぜったい」などと。

 ぼくは、「知らないものを紹介してくれる」ということを、あまり漫画評論に期待していなかった。むしろ自分の読んだ漫画作品を「評論家」や「ライター」と呼ばれる専門家たちがどう読んだのか、ということに強い関心があった。
 当時のぼくは「同人」を見つけることもなかったし、たまにいる「漫画読み」の友人にしても、必ずしも自分と読んでいるものが重なっているわけでもない。そして、ブログはおろか、ネットさえ身近になかった当時、専門家たちが書いた活字だけが、ぼくの「読み」を開いていってくれる、ほぼ唯一の手段だった。
 というわけで、ぼくは、漫画の年鑑やムックに期待しているものは、できるかぎり多くの専門家的な選者たちによる、「ぼくが読んでいる」(=わりと有名な)作品の、多様な「読み」の視点だった。この感覚は、頭に焼き付いてしまい、ぼくの一種の原体験になってしまっている。
 つまり、あまりこういうランキングはマニアックに走ってはいかんのではないか、という。

 などとほざいていたぼくであるが、それから10年たって自分が選評をする機会を与えられてみると、万人も(自分も)認めたもので選ぶか、あえてそのセレクトをさけるかという狭間で揺れることになった。まことに人間というのは勝手なものである。

このマンガを読め! 2006

このマンガを読め! 2006

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知らない漫画を紹介されたいという需要

 ところが、むしろこうしたぼくのような思い入れではなく、漫画の年鑑やムックには、「自分ではとうてい手にとらなかったようなすばらしい宝物を教えてもらう」という機能を期待している人が、ネット上では意外と多いことに気づいた。

 たとえば、本書『このマンガを読め! 2006』(※ちなみにぼくが書かせてもらったのは宝島社の『このマンガがすごい!』のオンナ版、オトコ版のほうである)では、編集者の「Y」(吉田保であろう)は次のようにのべている。

「なぜ『このマンガを読め!』というガイドブックを作ろうかと思ったのかというと、じつはすごく単純な話で、近所の行きつけの本屋がなくなったためなのです。僕はその書店で二十年近くマンガを買っていて、どこになにがあるか、新しいものはどれかとか、だいたいすべて分かっていました。店員のひととも仲良くて、いろんなマンガを勧めてもらって買っていたのですが、この店がある日突然閉店しました。お店がなくなってしばらくすると、それまで知っているマンガしか買わなくなっている自分がいました。『自分の知らない、面白いマンガが読みたい!』」

 「Y」は『よつばと!『エマ』シグルイ』などを、その例としてあげている。

 単純に売れているものをしりたければ、市場という冷酷な投票システムを媒介とした売上ランキングをみればいいし、もう少しフィルターをかけるにしてもたとえば「オリコン」あたりで少女漫画の人気ランキングでも見ればいい(ちなみに2005年は1位『NANA』、2位『花より男子』、3位『ハチクロ』だったようだ)。けっきょく、この種の漫画の年鑑やムックは、「自分の知らないものを紹介してくれる」か、「わりあいとよく知られているもの、自分も読んでいるようなものを多くの専門家がどう見ているか知る」という二つの方向性の狭間でゆれるしかないのである。

 

このマンガを読め!2006』の特長

 その意味で、本書『このマンガを読め! 2006』が、ライターによる紹介を必要最小限におさえ、選者の多様な評によってランキング紹介を構成しているのは、ぼく的には好感がもてるものである。各選者の評も1500字近くまであり、一定の「読み」の展開が可能である。「読ませる」ということに自信のある編集であるというふうに受け取った。

 対して宝島社の『このマンガがすごい!』シリーズ(オンナ版、オトコ版)であるが、ぼくがびっくりしたのは、ネット上などでこのムックがよいとしてあげられている理由の一つに、作者(小田扉秋本治など)インタビューがあがっていることだった。そういうものをこの年鑑で読みたいんですかあと感心したのである。いやまあそんなに不思議じゃないけど、ぼく的にはあまりピンとこなかったのである。こちら側の編集のコンセプトというのも、読みの多様性を開くというより、「トリビア」なものなど「情報」をできるだけ多く供給するという角度がつけてあるように思われた。したがってこちらは「選者」ではなく「ライター」の技量がものをいう。

 おそらくより広範な層には『このマンガがすごい!』のほうが合っているだろうし、ディープな「漫画読み」には『このマンガを読め!』のほうが合っているのだろうと思う。

 

メジャー作品を読みといてほしい

 いまそのように述べたが、選考にあたっては、奇妙な「ねじれ」が起きている。いや、それを「ねじれ」だと見たいのはぼくの勝手な推論を積み重ねた結果にすぎないのだが。
 というのは、『このマンガを読め!』のほうが、選者の使える字数は圧倒的に多いはずだから、論を展開することが可能なはずである。だとすれば、その強みを生かして、あえてメジャーなもので自分が面白いと思ったものを、「自分の読み」として提示し展開できるチャンスが大きいはずなのである。
 ところが、『このマンガを読め!2006』の少なくない選者たちは、「メジャー」作品をあえて避けている。むしろ結果的にメジャーな作品が多くランクインしたのは『このマンガがすごい!』シリーズのほうだった。『読め!』は、やはりかなりマニアックなランキングになったといえる。
 もちろん、そんなのは選者たちの勝手なのだから、ここでぼくがぼやいたりブーブーいう権利など微塵もない。
 だが、もし面白いと思っているのに、あえてメジャーだから外したという理由であれば、ぜひ次回からは果敢に自分の「読み」を提示してほしいものである。

 

書店関係者の「わかりやすい評」が開く可能性

 全体に書店関係者の評が目立つ。

 伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』で「マンガはわかりやすいものなのに、ことさら理解に苦しむ文章で批評していいのか、というのが私〔石子順――引用者注〕の〔石子順造への――引用者注〕疑問であった」という石子順の言葉を批判して「本当にマンガは『わかりやすい』ものなのか。それが『読めてしまう』ことを、頭から信じてしまってよいのだろうか。そんなことはない。……中略……マンガを『読める』者は、それが誰にとっても『わかりやすい』ものだと思い込んでしまう。その結果、表現の内部はのっぺりとした均質な空間としてしか想像されない」(p.287~288)とのべている。

 だが、正直、世の「漫画評論家」の評論が「わかりやすい」ものではないことによって、ひきおこされている機能不全ということについても考えてみる必要があるのではないか(「漫画のわかりやすさ」と「漫画評論のわかりやすさ」は別の話であるが、ここでは対応している)。
 石子順のような「わかりやすい」評は、漫画と自覚的につきあっていく初期の段階で、かなり重要な位置をしめているはずである。

 書店関係者の評は、概してこうした「わかりやすさ」をそなえている。
 このことは、漫画評論需要の「空白」をうめる可能性を、これら書店関係者の「評論」がもっているということを意味している。

 夏目房之介伊藤剛といった「表現論」サイドはいわば「漫画制作者」を経験することで、制作者の視点をもつ独特の表現論を展開できた。描く苦労が肌身でわかる人は、表現上の工夫も見えやすい。
 書店関係者は、いわば「漫画の販売者」という視点をもつことで、「なぜこの漫画が売れるのか」「なぜ人気があるのか」という、おそらく世上で漫画評論の使命だと思われていること(ある意味誤解であるが)をいちばん解説しやすい位置にいる。つまり販売者の視点から「なぜこの漫画が面白いのか」という問題に迫ることができる。そしてそれは「わかりやすい」。
 ぼくにメールをくれる人のなかで書店関係者もいるけど、やっぱり「わかりやすい」。この「わかりやすさ」を武器に、漫画評論を洗い直してほしいものである。

 

ヤングユー休刊についての情報が…

 書店関係者といえば、その人たちからもらったメールに「ヤングユー」休刊についての考察がいくつかあった。
 実は本書『このマンガを読め! 2006』でも、南信長が巻末の座談会で次のようにのべている。

「南 集英社的には十万部切ったから休刊にするってことらしいですよ」

 南は、中のコラムでも人から聞いた話として同じことを書いている。これにたいして『マンガ産業論』を書いた中野晴行は「でも十万前後で大丈夫なはずなんですよ、採算的には。ちゃんと経費を計算していくと十万で大丈夫な雑誌なんですよ。十万部いってない雑誌なんか他社にはたくさんある」と疑問をはさんでいる。
 南は「集英社は基準が高すぎる」とこの話をむすんでいるが、ぼくが17万部というデータで考えたのは根拠がなかった(数字が変動していた)ということになるのだろうか。
 依然真相はよくわからないままである。