相手の雑な言い回しを心の中で噛みしめる雁須磨子の表現が好き

 先日、雁須磨子『ロジックツリー』について感想を書いた。

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 朝日新聞で南信長が同作についてレビューを書いていた。

それらを支えるのが圧倒的な会話の質と量だ。予定調和的でなく、現実の会話さながらに話が飛んだり噛み合わなかったり聞き直したり。皆まで言わぬ含みのあるセリフ回しも絶妙。

 雁の会話表現はつとに評価の高いものである。ぼくのつれあいなどは「雁須磨子の会話ってホントわかりにくよね〜」と言っている。どう考えてもdisりにしか聞こえないが、現実の会話の豊かさを削除しないために生じる「わかりにくさ」が味である、という彼女流の評価なのである。

 

 

 ぼくもまったく同意するほかないが、そのうちの一つとして、登場人物が雑な言い回しをする際に、それを聞いている別の登場人物が、そのセリフを決して口に出さずに心の中で軽く反芻するのがたまらなくおかしい。

 例えば『ロジックツリー』では下巻の211ページに主人公・螢の姉が「バクロ本」という表現をする。

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雁須磨子『ロジックツリー』下p.211、新書館

 実際には、螢の彼氏は小説家であり、螢のことをモデルに書かれた小説なので、「私小説」あたりが正しいのだが、それを雑に「バクロ本」と姉が言ってしまうわけである。一般人である姉が「私小説」というのはリアルではないし、ここは「あんたのことを書いた小説」としても物語の進行上問題はない。あえて「雑」にする必然性はどこにもないはずである。

 しかし、「バクロ本」という「雑」さにして、しかもそれを聞き手の内語で軽く反芻させることによって、例えようもないほどのおかしみが湧いてくる。あえて会話にするほど重大でもないが、完全にスルーしてしまえば、気づかれない。軽く触れるだけなのだ。そのおかしみがそのまま、リアルへと膨らんでいく。

 同じやり方は雁須磨子の他の作品でも頻繁に登場する。

 『つなぐと星座になるように』では例えばこういうコマがある。

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雁須磨子『つなぐと星座になるように』3、p.88、講談社

 無骨な男性が彼女にアクセサリーをプレゼントするために、店側に彼女のスペックを告げるシーンなのだが、男性は「女」と言ってしまう。アクセサリー店なので特に何も言わなければ女性を対象にした商品であるから徹底して不要な情報であるとも言えるし、その女性を「女」と雑に言いすてる言い回しにも「慣れてなさ」が伝わる。

 

 

 

 雑さを忍び込ませ、その雑さをもっともよい温度で目立たせ、読者に味わわせる雁のこの手法に、南のいう「(作品を)支える会話の質」の一つがある。

松竹伸幸も「渋沢栄一ドラマなのに江戸時代の終わりを延々と描いている」に違和感

 松竹伸幸渋沢栄一を描いた大河ドラマ「青天を衝け」についての感想を書いている。

ameblo.jp

 

 「感想」というか違和感だな、これは。

 渋沢は「日本資本主義の父」と言われる。しかし、だ。(強調は引用者)

「青天を衝け」は日本資本主義の父が主人公であるにも関わらず、江戸時代の終わりを延々と描いている明治維新につながる時代である。私は明治維新だからといって心が躍るようなことはないのだが、少なくない人にとってはそうではないようだ。

 その理由は「不連続な変化」だろう。江戸時代から明治へという「不連続な変化」は、もともとの状態にしがみつく人々(新撰組とか)を描いても、新しい状態への変化を主導する人々(坂本龍馬とか)を描いても、それだけでドラマチックである。何が正しいのが誤っているかを越えて、不連続さが心を打つ。

 しかし、「青天を衝け」にはそれがあまりない。

 

 ぼくは実は「青天を衝け」を全く視聴していない。

 しかし、伝記マンガを読んで感想を書いた。

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 その中で次のように記した。

 Kindleで購入したのだが大政奉還されるのは66%読み進めようやくだった。

 第一国立銀行設立は82%。

 テンポが遅すぎるのでは…? という思いは拭えなかったのだが、その分、渋沢という男の前半生の「定まらなさ」が印象的だった。

 尊王攘夷の倒幕思想・運動に身を投じ、死を覚悟した蜂起を目論見ながら直前で計画を中止。投獄が身近に迫ってくると激しく動揺。投獄された仲間を救うためという口実もあってなのかどうなのかいまひとつ理屈が不明なのだが、一橋慶喜の家臣となり、慶喜の将軍就任と同時に打倒するはずだった幕府の一員、「幕臣」になってしまう…。という人生を数奇と考えればいいのか、見通しのなさと考えればいいのか、時代に翻弄される一個人の運命と考えればいいのか。

 なんで幕府が倒れるまでのところをこんなに長い尺でとったんだろうか? 

 

 松竹と基本的に同じ感想を抱いたのである。

 日本資本主義の父であるにも関わらず、そこではなくて江戸時代から維新にかけてを時間取りすぎなんじゃないかと。

 

 「明治維新の政治ドラマ」として描くというのは、大河ドラマとしてはたとえよくできていたとしても、すでに描いてきた分野のバリアントでしかない。

 しかし、日本資本主義の創生をもし描けたらこれは全く新しい境地ではないのか、という期待が松竹にはあったわけである。これは正しい期待である。

 正しい期待だけど、たぶん裏切られる。

  

 たぶん、維新期の政治史を中心にしたドラマで大半は終わって、資本主義草創期=数多くの会社設立に関与した時代の描写はマッハで過ぎていくよ。

 絶対。これほんと。間違いない。

「世の中興奮することたくさんあるけど、一番興奮するのは渋沢栄一のドラマが維新期の政治史を中心にしたドラマで大半終わっちゃうときだね」

「間違いないね」

街づくりの失敗が死傷者を生む可能性

 千葉県で酒に酔ったと疑われる運転のトラックが子どもの列につっこんで、死傷者が出たこの事件で、次のようなニュースが出た。

news.yahoo.co.jp

 この6日付の千葉日報の記事にはこうある。

 八街市は、全域が都市計画法による区域区分がされていない、いわゆる「非線引き自治体」。このため宅地開発の規制が緩く、バブル以降、あちらこちらでミニ開発が進んだ。住宅地が増える一方で、道路整備など交通インフラが追いつかない現状も浮き彫りになっている。

 現場近くの団地もほぼ同時期に造成が始まり、売り出された住宅地だが、本来、開発と合わせて行うべきはずの通学路の安全確保策が結果として行われていなかったことになる。

  記事の見出しが「背景にバブル期以降のまちづくり 規制緩く、ミニ開発続々 通学路の安全対策追いつかず」であるように、ここでは事故が起きた背景に迫っている。

 この種の記事が「酒を飲んで運転した」部分にのみ問題をフォーカスしがちななかで、街の造られ方という背景にまで問題を及ばせて論じられる記事はめったに見ない、というのが、ぼくの素朴な印象である。

 

 事故を「直接の被害者と加害者」のみの構図に矮小化せずに、さらに広く・大きな枠組みから問題を考えさせ、開発や街づくりのリスクにふみこむ、よい記事である。

 

 もしセットになったような報道が十分に多ければ、例えば地域で小さな開発をおこなうとき、住民側に「うーん、でもほら、そんなふうに宅地をちょこちょこ作ったら、お年寄りや子どもが歩道もない道を歩かされて事故に遭うじゃないですか」というような心配が自然に浮かび上がってくるようになるのだろう。「マンション建設」とくれば「日陰にならないか」という意識がセットになるのと同じである。

 そうなれば、対応する業者や行政からも、「大丈夫ですよ。あわせてここに歩道やガードレールを整備しますから」という回答が返ってくることになる。

 社会は健全に回ると思う。

 

 開発はメリットばかりが強調される。デメリットやコストはなかなか知らされない。知らされても、とても抽象的な計算に落とし込まれていて、わかりにくかったりする。事故や事件といった「個人的」にみえる事象が、実は社会の大きな枠組みからおこされていて、個別事件の被害者は実はその枠組みの犠牲者ではないのかという視点は、いつでもおろそかにされる。形をかえた「自己責任」論は、どこにでもひそんでいる。

 

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 もちろん、反論はありうる。

 「この地域の事故発生率は、実は他の地域とかわらず、特別にリスクが高いとは言えない」というような証拠を示すことだ。まちがった因果や相関と結びつけてはならないというわけである。それはそれで大事な議論である。この記事も、たとえば事故発生率のようなものまで調べて示す、さらなる「深掘り」が必要なのだろう。

 

補足(2021年7月12日)

 より詳しい記事。

www.chibanippo.co.jp

 

雁須磨子『ロジックツリー』

 8人きょうだいという大家族に育つ大瀬良螢(おおせらけい)が主人公で、高校生女子だった頃から社会人になるまでの時間軸で物語は描かれている。

 

 

 螢だけでなく、きょうだい、親戚、友人たちのエピソードが展開されていくのだが、ストーリーの主軸には螢の「人を好きになる気持ち」が置かれている。

いちばんよくないのは

自分で自分を

ごまかすこと

だな

 と幼い螢が誰かに言われている追憶的なシーンから物語が始まる。

 幼い螢は「何を言ってるんだ」という顔をする。そんなこと、あるわけないじゃないか、と。どうして自分の気持ちと違うことを言うのか、ましてや自分で本当に思っていることと別のことをそう思っていると自分に言い聞かせてしまうのか、あり得ないではないか。

 螢が誰かを好きになるけれども、それはわかりやすい姿をして当初現れてくるものではない。自分の憧れや屈折、もしくは世間体を気にしながら、自分では思わぬ姿をしてそれは現れてくる。

 螢が好きになるは、一人目は、翻訳家であり作家である親戚(琴子)の家に出入りする編集者・柚木(ゆぎ)だ。「うさんくさい笑顔」というたっぷりな不審ぶりから始まるのだが。

 螢はその気持ちを琴子に指摘されるまでの間、少なくとも物語の中で螢が「わかりやすく」だけでなく、「それとなく」であっても、柚木に好意を示すようなシーンは一切ない

誰かに会ってその誰かの事「あ 苦手だな」って思う時って

まあその人がとんでもなく嫌な奴ってわけでもなければ

自分自身のコンプレックスや憧れがそれをさせてるんだと思うのよね

とは、琴子の言葉である。螢は憧れなのにそんなことがあるのかと不思議がる。

卑屈さ?を呼び起こされそうっていうか…

うらやましさ通りこして

ねたみそねみ

とさらに琴子が解説する。

 憧れは好きという感情になるはずではないか、好きという感情が好きという感情で表現されないなんてあり得ないではないか、とは螢だ。

 まったくそんな倒錯が理解できないのである。

 螢は「幼い螢」のままなのだ。琴子が解説を続ける。

うん でもその人に

好かれる自信がない事に

瞬時に気づいてしまったら?

 

 「好かれる自信がない」と思う理由は様々ある。

 単に向こうが自分に関心が全くなさそうだという場合に防衛的にそう思うこともあるかもしれない。

 自分はダメな人間だ、という気持ちの場合ももちろんそうだろう。しかし、他にもそれはある。

 年齢差とか、地位(教師と生徒など)とか、そういう立場が違いすぎる場合。

 あるいは同性である場合もそういう感情を持ってしまうことはあるだろう。早々にあきらめるということだ。

 既婚者、ステディがいる、というのもよくあることだろう。

 

 では、そんな気持ちが覆っているにも関わらず、自分が相手を好きだと思っているのはどんなふうに確かめられるのだろうか。

 柚木の大学時代の友人でもあり、螢の尊敬すべき兄でもある畔(ほとり)は、嫌だなと思ったアート作品で、その嫌さのあまりにどうしても何度でも見てしまうものがあり、それが倒錯した好きということではないのかとアドバイスする。

 それと似たようなことを柚木は直接螢に言う。

どうあっても

気持ちがそちらに向かって流れだしてしまうような

見ようと思わないのに目に飛び込んでくる……

臆病と強気がごっちゃになって

でも向こうの気持ちの開いているところを

探さずにいられないみたいな… 

 まさにそれだよ、とぼくは思う。

 まず前半。「気持ちがそちらに向かって流れだしてしまう」「見ようと思わないのに目に飛び込んでくる」。これはわかりやすい。

 そして後半。「臆病と強気がごっちゃになって」。相手は自分のことが好きなんじゃないかとと思う瞬間があって、アタックしたりアプローチしたりしようとするが、全く裏返しになって全然自分など歯牙にもかけられていないのではないかと絶望的な気持ちになる。その場合に臆病が支配してしまうので動けなくなってしまうのだが、しかし、それでも「向こうの気持ちの開いているところを探さずにいられない」のである。ある瞬間に垣間見せるものを、自分が勝手に解釈して、「それは私のことを好きだという気持ちに表れではないのか!?」などと。その根拠もない「開いているところ」=隙間を狙ってアタックしようとするがやはり臆病に支配されてしまうのである。

 だけど「好き」という気持ちを、前半部分はともかく、後半部分のように表現するのは、「好かれる自信がない」と思う時だろう。

 螢は柚木と会話をした後、柚木に向かって、こう言う。

柚木さんって兄のこと大好きですよね

私は柚木さんの事が好きなんじゃないかな

 そう話す螢の表情を見て欲しい(下図)。

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雁須磨子『ロジックツリー』下、新書館、Kindle61/235

 頬を染めて告白しているわけでもない。

 目線を合わせていないけども、それは照れているわけでもない。

 考えごとをして、その考察していることを確かめながら人に話している時の表情である。

 まさに、螢は「自分の気持ちに素直になる」ようにしてそこに到達したのではなく、ロジックの果てにそこに到達したのである。

 

 螢が好きになるもう一人は、琴子の家に「書生」として住み込み始めた、新人作家の小関だ。

 あまりにひどい出会い。そして、出会って間もないのに小関の側から唐突に受ける告白。今度は螢が混乱する番である。

 個人的に、この小関に感情移入する。小関には発達障害的な融通のきかなさがあるが、愚直で真摯なようにも見える。ぼくは螢にも好印象があるので、「こういう女性に、こんなふうに真摯に迫りたい」とつい思ってしまうわけだ。

 小関の書いた小説が少し売れる。それは螢への「ラブレター」でもあるのだが、相当に転倒し、ややこしい表現がされている。

曲がりくねってひねくれてて

「Kさん」が好きなのにふと利己主義が顔出すとことか

正直だなってなるのと

真に同情を禁じ得ない苦しさみたいのがあるよ

とは琴子のこの小説の評である。

 

 この作品の「好き」は倒錯している。

 わかりにくい。

 そのわかりにくさをロジックによって明らかにして、ラストはやはりこの感情が恋愛だったことを気持ちよく表現する。

 

 1話だけ試し読みできる。

note.com

「推古さんは男性の中継ぎではない」記事を読む

 「しんぶん赤旗」日曜版7月4日号の義江明子帝京大名誉教授、古代史)への取材記事を読む。“推古は男性天皇の中つぎで、蘇我馬子聖徳太子が主に政治を担った。”というイメージを、「女性が徹底して排除された明治時代」をはじめとする「近代以降の偏見」を排除して刷新しようとしたことを書いている(以下、引用は同記事から)。

中でも推古は、女性が即位できない「ガラスの天井」を打ち破った人物だといいます。…「…推古は優れた統率力を豪族に見せつけることで、男王の優勢を打ち破り、後の女帝らに道を開いた——これが私のジェンダー視点による読みです」

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 いや、今の視点に引き寄せすぎだろ…と初見で思わざるを得なかったが、しかし、記事に添えられた年表(上図)を見ると、

日本列島には、4世紀頃まで女性首長が3〜5割存在していたといわれています。6世紀末から8世紀後半にかけては、推古を皮切りに男女ほぼ同数の天皇が即位しました。

という状況なので、5世紀と6世紀に男王しかいないのが逆に不自然なのかな、と思えてきてしまう。

 そして、

女帝研究は困難を極めました。『日本書紀』をはじめ歴史史料が持つ政治的な意味合いをはぎ取り、日々更新される発見や研究成果を取り入れながら、「膨大に調べては数行書く」の繰り返し。

という態度には頭が下がるし、何よりもまず義江の本そのものを読んでみないことには信じる・信じないも言えないだろう、と反省した。

 

 

 

ニコ・ニコルソン、佐藤眞一『マンガ 認知症』

 久坂部羊『老乱』をリモート読書会で読むことになったので、それを読んだ後、本作を読み直す。以前読んだことがあったが、問題意識を持って読むと染み通り方が違うなと思った。

 『老乱』を読みたいと言ったAさんは「自分では理解できない病気・症状の人の意識が知りたいので、認知症の人の意識を書いた『老乱』を読みたかった」とその動機を語っていた。

 それならば、文学としてのそれだけでなく、もっと学問解説的に踏み込んだものを読んだ方がいいのではないかと思い、「そう言えば以前読んだな」と思い出して読み直したのである。

 

 

 まず、本書は『老乱』で印象を抱いた認知症に対する理解とすこぶる整合的だった。そして、期待通り、それを深めるものだった。したがって単に読書会のためだけでなく、ぼく自身が認知症に対する理解や認識を大いに深めた。

 

本人がなぜこういう行動に出るのか? への理解の一助として

 本書は、佐藤が研究してきた心理学が「本人がなぜこういう行動に出るのか?」ということを解明する学問であり、一見奇行に見えるその理由を知ることで「介護が楽になる鍵」(p.23)だという問題意識で書かれている。

 例えば「同じことを何度も聞いてくるのはなぜ?」という章がある。

 本書では、短期記憶・長期記憶などの記憶の仕組みが簡単に解説され、認知症は、短期記憶から長期記憶に移行するときに障害が起きてしまい、長期記憶に残らないのだと説明する。だからその場でわかったようにふるまっても、それを覚えていられないのだという。ここで認知症は「覚えられない」、老化は「思い出せない」という(ざっくりとした)違いもわかる。一般の老化は貯蔵はできるが、検索が難しくなる(だからヒントを与えて出てくるような場合はインプット自体はできていることになる)。

 そして、何度も聞いてしまうことを、うざがられたり、怒られたりすると、不安を感じてしまう。厄介なことに、不安や不快な感情は海馬・扁桃体の働きで、認知症であっても残る、というか残りやすいのだという。その不安から何度も聞くし、聞いたことが安心感につながるので、聞く行為を繰り返してしまう。逆に拒絶されるとそれが不安→精神的孤立につながっていく。

 また、デタラメな話が出てくる原因の一つに、妄想などもあるが、再構成の問題もある。

 例えば、誰かに会って聞いた話があるとしよう。記憶の情報を取り出すとき、一般の人はその話をそのまま全て取り出すのではなく、再構成をするのだという。いわば必要な部分・本質と思われる要素だけを取り出して再構成する。

 認知症はこの再構成が苦手になってしまう。

 したがって、近所の奥さんと道で会って話をしたのに、和尚さんがお墓まいりに来いと言っていたという情報になってしまう。近所の奥さんの話の中に例えば「お彼岸」「お供え」などの話題があった場合、そこから連想して勝手な再構成をしてしまうのである。

 佐藤は、ケアとコントロールと問題を取り上げて、認知症だけでなく、介護一般にも通じるとしている。相手の意図がわからない、理解不能な怪物のように思ってしまうと、指示をしてコントロールするしかなくなる。

 しかし、相手の意図や、そう思う機序(メカニズム)・理路(ロジック)がわかると、相手の意図を汲んで別のところに導いたり、受け止めたりすることができるからである。

 これは介護だけでなく、子育てにも通じることだろう。

 中2の娘は「お父さん、これどういう意味?」と言って英語の問題を聞いてくる。like にはingしか続かないと思っているので、toもあるんだよと教えてると、怒り出したり、ふてくされたり、面倒臭がったりする。こちらが教科書や辞書で解説しようとすると、無視する。しつこく聞かせようとするとキレる。

 娘は最近期末テスト前に、「英語がわからない」「間に合わない」と言って、深夜にぼくの前で泣いたことがある。中学教員を経験していた友人に話したら「そりゃまた中学女子にしては素直な姿を親の前でさらけ出しましたね…」とある意味で感心していた。

 つまり、娘は英語の理解が遅れていることに焦燥があるんだとそのとき初めて認識した。どうでもいいとは思っていないのである。

 そういう目で先ほどのlikeをめぐる「奇行」と言おうか「キレる若者現象」と言おうか、そういう行動を見てみると、「わからない自分に向き合いたくない」「親にその姿を見せたくない」「でもわからないから聞きたい」という矛盾・葛藤の中にいて、そのせいなのかなと思える。

 キレる娘に不快な思いはするけども、「こいつも苦しいんだな」ともう少し理解はできるのである。

 おそらくそれと同じであろう。

 ケアされる人の中で起きているメカニズムを理解することで、ケアするぼくの不快感は消滅はしないけども、軽減されるのである。

 

哲学的な問い

 本書は老い・認知症が矛盾のプロセスであること、その矛盾を生きる中で人間が社会的にどう成り立っているのかを突きつけることを明らかにしている。

 「矛盾のプロセス」というのは、

「老い」はプライドとの闘いです

老いて弱くなっていく情けない自分

人生を強く生き抜いてきた誇り高い自分

二つの自分の間で揺れ動き不安がつきまといます

という意味である。

 「老いて弱くなっていく情けない自分」を受容するプロセスはすでにいろんな本が出ているとは思うのだが、ぼくなどは全く心得がない。

 社会的な活動はまだ下降しているように思えない。体力は減退しているが、それは全くプライドに関わってこない(日常生活が特に不都合なく送れていることが大きいのだろう)。しかし、容姿、セックス、性欲みたいなものは減退を感じ、時々は強く意識する。すでにそのせめぎ合いは始まっているのである。

 

本来自分というものは

「時間」と「空間」と「他者に認められていること」で成り立ちます

ところが認知症になると

自身が抱いている自画像が崩壊していきます

認知症が進んだ人は「自分とは何者か」(=アイデンティティ

わからない不安の中で生きなくてはいけないんですよね

  これは「面倒見がいい働き者のトメちゃん」だったのに、「何もできないでしょ」「いいから座ってて」と言われてしまうことで「自分」がわからなくなっていくという意味である。人間がどうやって成り立っているのかを逆に考えさせる、哲学的な事態だと言える。

 

 時間も空間もわからなくなって、陳述記憶(文字にできる記憶)も弱くなっていく中で、不快・不安/快楽・安心というような非陳述記憶は残る。だとすれば、介護する側は、相手がなぜそういう意識を持つのかというメカニズムを知って、怒り・苛立ち・否定などをせず、笑顔の中で相手を迎え、出来るだけ肯定し、小さな役割(社会的居場所)を返報してもらい、「よくわからないけど安心してもらえる環境」で生きてもらうようにすることが、本人にとっても周囲にとっても幸せなのではないか、というのが実践的結論だと受け取った。これは『老乱』と全く同じである。

 

 本書は、認知症を知識としてわかりやすく示し、実践として無理のない、自然な結論を得られる(きれいごとにも、露悪にもブレない)本だという印象を受けた。

 

 

マンガという表現様式への佐藤の評価

 「あとがき」で佐藤は「マンガの内包する描写力に感動した」(p.273)と述べている。

 『マンガ 認知症』は、ただ私の研究を読みやすくした、というものとはまったく違うものでした。

 もちろん、ニコさんのマンガ家としての才能の力でもあるのですが、私は表現様式としてのマンガに敬意を抱いたように思います。各コマの主題に添えられている副題としての婆ル〔ニコの祖母のこと〕や母ル〔ニコの母のこと〕、その他の登場人物や動物たちまでもが、読者が主題について学習したり、考えようとするときの思考のあり方を大いに揺さぶるのです。(p.273-274)

 

 こういうふうにマンガという表現様式そのものへの敬意を示すというのは珍しいことだと思う。こういう役割分担をしたとき、マンガを「添え物程度」の扱いをする人も少なくないだろう。

 それが通り一遍の理解でないことは、佐藤自身の描かれ方についての次のような理解からもわかる。

また、登場人物として私自身があのように描かれるとは思ってもみませんでしたが、確かに私自身でした。私の友人や学生たちはみな、マンガに描かれている私と実物の私は「全然違う」と言っています。しかし、私自身は、マンガに描かれている私が、私の中に確かに存在していることを知っています。それを見抜いたニコさんは、本当にすごい人です。(p.274)

 本書は解説・取材マンガとしての可能性もまた拓いたと言える。

 

「福岡民報」2021年7月号に「マンガから見えるジェンダー」3回目

 「福岡民報」2021年7月号に「マンガから見えるジェンダー」という連載で、よしながふみきのう何食べた?』と『1限めはやる気の民法』を取り上げた。

 同性愛が日常にドラマで描かれるようになったことと、同性愛を「気持ち悪い」とする感情をどう評価するかについて書いている。

  3回連載のこれが最終回。問題があって打ち切りなのではなくて、最初から3回予定っすw

 

 

  この回の後半は以下で書いたことをベースにしている。

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 ところで、よしながふみ『大奥』が完結した。

 

 

 『大奥』は江戸時代の大奥を男女逆転させた物語である。家光の時代から明治維新に至るまでが描かれている。この作品について、3日付の読売新聞では川床弥生記者による、よしなが取材記事が載った。

よしながさんはジェンダーがテーマではなく、「エンターテイメントとして描いた」と言う

ジェンダーの問題を取り上げた作品と紹介されることも多いが、それが狙いではなかった。

 ジェンダーでなければ何を描きたかったのか(だから「エンターテイメント」だっつってるだろ!)。

 よしながは「描きながら気づかされたこと」として物語の後半で取り上げられる14代・家茂と和宮の関係についてこう述べる。

恋人でも家族でも、友達でもない。子供ができない2人は養子をもらう。その関係を描くにあたっては、現実社会の機運に後押しされた部分があった。「今は人間関係に友情や恋愛といった決められた名前をつけなくてもいいという感じがある」。周囲からも「新しい」「いい関係」と評価が高かったという。「私は面白いと思って描いただけですが、いまだに結婚や出産に縛られることがあるからこそ、和宮と家茂の関係にひかれる人が多いのかもしれません」

名に縛られぬ関係——。実は当初、本作は「(将軍家をめぐる)血族の業の話になるはずだった」。しかし、いつしか「血は関係なく、志を一つにした人たちの物語になっていた」。

 作者は強い意図はせず、エンターテイメントとして描いた関係だったが心のどこかで思っていたことが「現実社会の機運に後押しされ」て描いたのだという。そして、作品の受容に、強烈にジェンダーが反映された、というわけだ。

 ぼくは2003年に榛野なな恵の『ピエタ』について取り上げたことがある。

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ピエタ』の主人公である二人の少女は、「恋人」であり「母子」であり「友人」であり「同志」である(番外編「ピエタ」より)。

 このように、社会から決められ、名づけられた関係から逃れて/逸脱して/ズレて、新しい関係を渇望する意識はずっとあった。主に女性の側から。BLが成立する社会基盤の一つ*1が、女性の側にこうした意識が強いことだ、というのが、年来のぼくの考えである。決められた関係に客観的に抑圧され、その中でそうした関係に違和感を抱き、そのことに敏感な存在(女性という性を生きる人はそういう人が少なくないのだろう)だからこそ、こうした作品が生み出されるのだろう。

*1:あくまで「一つ」ね。