榛野なな恵『ピエタ』

(ネタバレがあります)

 

 

 榛野なな恵にとって、世界は、彼岸と此岸に分裂している。

 平凡と普通を強制する帝国と、そこからはずれた人たちの共同体である。

 『Papa told me』ではその分裂が提示されるにとどまる。
 帝国はたえず、侵入してくる。「結婚せよ」「子どもは○○らしく」を強制する帝国は、フリルをつけた「デコラティブ」(by的場知世)な服で武装している(下図参照)。共同体の住人たちは、それに違和感や息苦しさを感じ、ただ防御に徹するのみである.

 



これぞデコラティブ。(「ピエタ」1巻127p)

 「入ってこないで」が共同体側の最小限の要求スローガンである。「そっちはそっちでやっていてくれたらいい。どうして私たちのささやかな幸せまで邪魔するの?」──それが榛野の小さなつぶやきなのだ。この時点では。

 榛野は短編集『卒業式』で帝国にたいする戦闘を開始する。平凡と普通とクローニーを押しつける帝国に、たった一人で宣戦布告する。だが、ここでは、戦闘を開始するのみで、住人たちが相手をどのようにしたいのか、そしてどんな新世界を築きたいのかは、まだ見えてこない。

 そして、この『ピエタ』である。
 榛野は、ついに、帝国との全面戦争に突入し、平凡の帝国を業火で焼き尽くす。(下図


燃えてます。繁子さんのお城。(「ピエタ」2巻101p)

 そして、子宮にも似た〈癒し〉のユートピアを構築する。
 それは、ただおしゃべりをし、ときどきは料理をつくり、小金をためたらちょっとは旅行もして、という、榛野的幸福を実践する世界である。
 それは、最も狭い意味での「セックス」からも解放された世界でもある。すでに『Papa told me』で父娘として「セックス」からは解放されながら性的であるという関係を提示していたが、『ピエタ』では、抱擁やキス、おしゃべりや共同作業(読書、カベの塗装など)といういっそう先鋭的で明確な非セックスの性的表現をとる。性の、閉鎖した、甘い世界である。
 榛野は一見、個人主義的な原理の体裁をまとっているが、それはアトム的・孤立的な個人主義ではない。実は榛野が根底で欲望しているものは、共同体である

 榛野の作品に、というか、『Papa told me』には〈ヒーリング・ロマン〉という形容がつくけども、それ――癒し――は、実は、榛野的共同体のなかにおいてのみである。敵対者には厳しい。
 男のぼくが読んでも、実に甘く、美しい〈癒し〉が展開される。しかしそれは、彼岸にある帝国への残酷な絶滅戦争とセットなのである。榛野のいらだちの解決方向は、『Papa told me』では「異原理の平和共存」を求めるという水準だった。しかし、『ピエタ』では、フリルとデコラティブの平凡帝国が、滅びの火によって焼かれるという表現をとるまでにいたった。

 『ピエタ』の主人公である二人の少女は、「恋人」であり「母子」であり「友人」であり「同志」である(番外編「ピエタ」より)。「同志」という革命運動の用語が入り込むところに、注目したい。
 榛野が構築したユートピアは、ただのユートピアではない。

 平凡の帝国とたたかう、〈戦闘的ユートピアである。


 〈戦闘的ユートピア〉を欲望する榛野のエネルギーが、すばらしい作品世界を構築した。
 『ピエタ』──キリストの死を悼む聖母マリア、という宗教画のタイトルを冠し、春の女神の名前である「佐保姫」の名を借りた主人公。ことほどさように、宗教的な空気につつまれて物語がはじまり、「理央」というもう一人の主人公の名の通り、榛野の(そしてぼくもそうであるが)「知性への拝跪」がある(ちなみに『Papa told me』の主人公の名も「知世」である)。そのような原始宗教的共同体のユートピアである。
 継母の名は「繁子」。繁殖の「繁」である。榛野には、子を産み、その繁殖と繁栄を願う姿が、その原理を普遍化しようとする帝国にみえるのであろう。同性の二人による閉鎖したユートピアはこの対極に存在する。

 


 榛野は何にいらだち、何とたたかっているのか。

 繁子の理央への悪意――そして、作者の繁子への悪意――が唐突というか、無根拠であることに驚くむきもあるのだが、それは繁子だけを見ていればそうかもしれない。しかし、榛野がむけている攻撃の対象は、繁子だけからはわからない。

 『Papa told me』で的場父娘が「片親」状態であることを、祖父母が、あるいは親族が非難する。“いつまでも一人でいることはこの娘にとって可哀想だ”と。あるいは、独り身の女性編集者が宝石を買えば“彼氏に買ってもらわず、女一人で宝石売り場をうろつくのはみじめだ”と善意で忠告する。

 日本資本主義の特殊な構造が生みだすゆがみは、家庭へと浸潤する。
 企業戦士を男性がつとめ、女性が家庭を守るという、高度成長を支えた役割分業。これが前近代のねっとりとしたものとまじりあいながら、日本の風土に残存する(※)。定められた性の役割、打開されていない前近代……それらは、むろん転倒し、倒錯し、反転し、元の姿かたちをとどめていない。『Papa told me』で、「共同体の住人たち」を無邪気に傷つける心ない言葉の数々に嘆息しながら、登場人物の一人はこうのべる。「そういう言葉はどこからくるんだろう」。

 イデオロギーは、自らの発生根拠を知らない。
 榛野がたたかっているものは、実は幻影であり、宗教上の闘争を現実の解決と混同したヘーゲル左派によく似たまちがいを犯している。その解決は、本当は現実の問題、地上の問題にこそ求められなければならないのだ。むしろ帝国の人々と手を組み、本当の解決にこそ乗り出さねばならない。

 そうであるにしても。

 榛野がつくりだしたユートピアはあまりに甘美だ。

 ぼくは、この甘美さに垂涎する。
 たしかに、こんなユートピアで生きていけたらどんなにいいだろうかと思ってしまう。
 日がな、おしゃべりをし、読書し、たまに労働をし、気が向けば眠り、旅行をし、そばにいる恋人と抱きしめあう──それが永遠につづく。ユートピアだ。世界はそれを十二分に達成できる物質的冨をすでに用意している。
 左翼にとって、「ユートピア幻想」は決して触れてはならない、甘美な禁断の木の実である。

 いま、榛野は『パンテオン』という連載をつづけているが、すっかりゆきづまっている。
 『ピエタ』で榛野の欲望は遂げられたのではないか? もういいではないか。新しい物語を始める必要はない。『ピエタ』のつづきこそ、ぼくは読みたい。えんえんと甘美な世界のお話がつづくとしても。


※ちなみに、前述のような家庭のスタイルは、資本そのものの戦略によって崩されつつある。高度成長を支えてきた「正社員主義」の日本型雇用は変質を迫られ、女性労働力を安価に家庭から引きずり出そうとしているからだ。榛野の示す「多様な生き方」というものが、社会に受容されるのは、それをもとめる声が強いのと同時に、支配層自身が一定の範囲で許容をしているからでもある。