「福岡民報」2021年7月号に「マンガから見えるジェンダー」3回目

 「福岡民報」2021年7月号に「マンガから見えるジェンダー」という連載で、よしながふみきのう何食べた?』と『1限めはやる気の民法』を取り上げた。

 同性愛が日常にドラマで描かれるようになったことと、同性愛を「気持ち悪い」とする感情をどう評価するかについて書いている。

  3回連載のこれが最終回。問題があって打ち切りなのではなくて、最初から3回予定っすw

 

 

  この回の後半は以下で書いたことをベースにしている。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 ところで、よしながふみ『大奥』が完結した。

 

 

 『大奥』は江戸時代の大奥を男女逆転させた物語である。家光の時代から明治維新に至るまでが描かれている。この作品について、3日付の読売新聞では川床弥生記者による、よしなが取材記事が載った。

よしながさんはジェンダーがテーマではなく、「エンターテイメントとして描いた」と言う

ジェンダーの問題を取り上げた作品と紹介されることも多いが、それが狙いではなかった。

 ジェンダーでなければ何を描きたかったのか(だから「エンターテイメント」だっつってるだろ!)。

 よしながは「描きながら気づかされたこと」として物語の後半で取り上げられる14代・家茂と和宮の関係についてこう述べる。

恋人でも家族でも、友達でもない。子供ができない2人は養子をもらう。その関係を描くにあたっては、現実社会の機運に後押しされた部分があった。「今は人間関係に友情や恋愛といった決められた名前をつけなくてもいいという感じがある」。周囲からも「新しい」「いい関係」と評価が高かったという。「私は面白いと思って描いただけですが、いまだに結婚や出産に縛られることがあるからこそ、和宮と家茂の関係にひかれる人が多いのかもしれません」

名に縛られぬ関係——。実は当初、本作は「(将軍家をめぐる)血族の業の話になるはずだった」。しかし、いつしか「血は関係なく、志を一つにした人たちの物語になっていた」。

 作者は強い意図はせず、エンターテイメントとして描いた関係だったが心のどこかで思っていたことが「現実社会の機運に後押しされ」て描いたのだという。そして、作品の受容に、強烈にジェンダーが反映された、というわけだ。

 ぼくは2003年に榛野なな恵の『ピエタ』について取り上げたことがある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 

ピエタ』の主人公である二人の少女は、「恋人」であり「母子」であり「友人」であり「同志」である(番外編「ピエタ」より)。

 このように、社会から決められ、名づけられた関係から逃れて/逸脱して/ズレて、新しい関係を渇望する意識はずっとあった。主に女性の側から。BLが成立する社会基盤の一つ*1が、女性の側にこうした意識が強いことだ、というのが、年来のぼくの考えである。決められた関係に客観的に抑圧され、その中でそうした関係に違和感を抱き、そのことに敏感な存在(女性という性を生きる人はそういう人が少なくないのだろう)だからこそ、こうした作品が生み出されるのだろう。

*1:あくまで「一つ」ね。