議会での「質問」は英語でなんというか

 地方議会での「質問」を英語でなんというのだろうか。

 

質疑と質問

 先に日本語の理解を書いておくが、議会用語としての「質疑」と「質問」は少し違う。

 市町村議会の中にこのことについての解説ページを設けているところがあるが、たとえば千葉県君津市議会のホームページには次のように違いが解説されている。

質問
質問と質疑は、違うのですか。

回答
議会には、議案等を審議するだけでなく、執行機関である市を監視するという役割もあります。このため、市が行う事務に関して質問し、見解等を求めることが認められています。これを一般質問といい、本会議で行われます。

これに対し、提出された議案の疑義を提出者(市長や議員など)にただす場合など、議題となっている事件の疑義をただすことが質疑で、本会議及び委員会で行われます。

  もう一つ、埼玉県三郷市のホームページを載せておこう。

質疑と一般質問の違いはなんですか。
「質疑」とは議案等に対して、議員が疑問点を問いただすことです。「一般質問」は、議員が市政全般に関して、行政側に現状や見通しを聞くことです。

 どちらも「質問」というより「一般質問」と書いているように、正確には「議案質疑」と「一般質問」(緊急質問も含む)の違いだ。

 つまり首長の出した議案に対するものが「質疑」で、広く自治体行政一般についてのものが「質問」だと理解していい。

 しかし、この差について書いた英語の辞典は、管見にして見当たらなかった。とりあえず英訳においては同じものだと考えて話を進めていいだろう。

 

question? inquiry? interpellation?

 英語のネット辞書(研究社『新和英中辞典』)を見ると「質疑」は次の用語が書いてある。

  • a question; an inquiry
  • 〈国会での〉 an interpellation

 questionか、inquiryか、interpellationかである。

 ぼくはずっと疑いなくquestionを使っていた。日本の国会で党首討論が導入された時「Question Time」と言っていたので「ははあ、『質問』をそのままQuestionって言うんだな」と印象付けられたからである。

 

 ところが、各地の政令指定都市の議会事務局がつくっている英語版のホームページを見ると、実はいろいろな表現がしてある。

 札幌では「質疑・答弁」のところに「Question and answers」とある。

 静岡でも「question」だ。

 ところが神戸福岡では、「inquiry」となっている。

 

 「つながり(コロケーション)を日本語で探り、それを英語でどういうかを示す発信型の辞書をねらうのがこのサイトの目標」だとする「gooコロケーション辞典」では、「ぎかいでしつもんする【議会で質問する】」という見出しに「ask questions in the assembly」とある。すなわち「question」なのである。

 Weblio辞書で「inquiry」は「質問、問い合わせ、照会、調査、取り調べ、審理、研究、探究」というのが主な意味とされている。

 「interpellation」に至ってはその動詞「interpellate」を見ると「(議会で議事日程を狂わす目的で)〈大臣に〉質問する、質問して日程を妨害する」(研究社前掲)とあるし、Kindleについている英英辞典"The New Oxford American Dictionary"でも

interrupt the order of the day by demanding an explanation from (the minister concerned).〔関係閣僚からの説明を求めることにより議事日程を妨害する〕

とある。特別な慣例から生まれた言葉のようだが、まあ、少なくとも国会の話なのだろう。

 こう見てくると、やはり地方議員が「次の議会で質問します」というふうに使っているのは「Question」であり、「inquiry」は議会としての機能を表す言葉で「調査」に近いニュアンス、議会の調査権能を表している言葉ではないだろうか。

 よってぼくなりの答えは、議会の質問・質疑=Question。これである。

 

英語での表現はこんなに違う

 地方議会はぼくにとって身近な場所である。

 だからそこでのおなじみの議会用語がどう英語で表現されているかは興味がある。

 福岡市議会と札幌市議会では、議会用語の英訳は当然同じものもあるが、それでもけっこう違うから面白い。左が福岡市、右が札幌市である。

  • 請願 petitions /petitions
  • 陳情 lobbying /appeals
  • 傍聴 observing /observation
  • 意見書 opinion in writing /written opinions
  • 市議会議員 City Councilors /Assembly members
  • 議長 the Chairperson/the speaker

 議長をthe speakerと訳すのは驚いた。

 確かに「Eゲイト英和辞典」でspeaker見ると、

(the Speaker)(英米の下院の)議長(発言を求める議員はMr. Speakerと呼びかける) 

とある。だけど、日本の市議会の議長もこう表現するんかね…? 翻訳者はどういう根拠でこのように訳したのか、興味がある。

 

 「日本共産党福岡市議団」は、共産党系のJapan Press Weeklyでは

The Japanese Communist Party Fukuoka City Assembly members’ group

であるが、福岡市議会の翻訳を基準にしたら、

The Japanese Communist Party Fukuoka City Councilors

が適切なのかもしれない。

 

 こういう議会の公式サイトの翻訳は誰が責任を持ってやっているのだろうか。

 語学ができる市職員(国際部局関係の)とかがやっているのか、外注しているのか。それともかなり厳密な決裁などをしているのだろうか。だって、トンデモ英訳とかされていたら政治問題になっちゃうもんな(現に福岡市議会の常任委員会名は変えられて数年経つけど未だに同市議会の英語版ページでの紹介は古い常任委員会名のままである=2021年6月25日時点)。

 

 英語での表現はこんなに違うんだ、と思った。まあ、翻訳というものは、そもそもこんなふうにいろいろ表現できるものなのだろう。

 だが、議会用語のようなものはもうかなりかっちりと決まっているのかと思っていた。政治学などの論文で英語で書かれたものでは表記の揺れがあったら困るんじゃなかろうか。

 

 

 

年上の高齢男性から告白されるということについて

 妻子があって60代である、ゼミの男性教授から電話で「告白」された女子大生の話。

anond.hatelabo.jp

 

 まず、これが教員と学生の非対称的な関係を利用した、強制性のあるものだとすれば、セクハラである。許されることではない。その女子大生にも、告発をするよう強く勧める。

 

 ただ本稿では、いったんそのような関係ではない仮定する。少なくとも上記では女子大生は自分と教授の関係性をそうは書いていないからだ。*1

 また、男性に妻子がいるということについても、それは不倫ということになるが、ぼくは不倫というのは、1対1の関係を約束したパートナー同士の信頼(契約)を裏切るものであるから、基本的にそのパートナーの間のものだと考える。今のところ他人がどうこう言えることではないようにぼくは考えている。故にここでは問題にしない。

 

 つまり、本稿はフラットな2人の関係、高齢の男性から若い女性への告白ということだけに話をしぼる。

 

告白する権利について

 この増田*2に対する反論記事がある。

anond.hatelabo.jp

 どんなに歳が離れていたって、あるいはどんなにキモくたって、告白する権利はあるだろう? というわけだ。

 だが、これは後者の増田にはあまり分はない。確かに男性側が「好き」と告白する権利はあるけども、それを受けた女性側が手ひどく振る権利もあるからだ。

 前者の増田は

俺には好きな女と恋する権利すらないのかって?
ないよ?

と言っているが、「恋する」を「片想いする」だとすればその権利は男性にあるだろうが、「恋を成就させる」だとすればその権利はないことになる。

 というわけでこれは簡単に片付きそうな話なのだが、例えば職場でのセクハラという問題を考えたときに「告白する権利」について考えることはとても大事だと思う。

 セクハラについてのコードが厳格になっている昨今、職場は仕事をする場所であって、「性の話をするところではない」ことになっている。つまり、職員が自分の「性的な存在として自分」を職場に持ち込むことは厳しく規制されつつあるのである。それはご近所であっても、大学のゼミであっても同じだ。「性的な存在として自分」を見せたり、持ち込んではいけないという空気は強くなっている。

 「窮屈になったなあ」という、ぼくのようなオヤジのボヤキが聞こえてきそうだが、無自覚でナイーブに性的な指向を自分に向けられ、性的に扱われ、時には強制的な力関係のもとにそれを押し付けられることに苦しんできた人がいる歴史を考えると、そうした規制の強化はやむをえないことだ。

 これじゃあ職場恋愛はできないってことだなという批判に対して、弁護士の社会学者の牟田和恵は、そんなことはない、きちんと手順を踏めばできるとしている。

 

(追記)2021年6月21日9:42

 牟田は同書で「職場恋愛三カ条」として

  1. 仕事にかこつけて誘わない
  2. しつこく誘わずスマートに
  3. 腹いせに仕返しをしない

をあげ、「これらのルールをしっかりと守るならば、職場恋愛もできないと心配する必要はありません」(p.144)と述べている。

(追記終了)

 「告白する」というのは、性的な存在であることをお互いが隠しあっていた職場や地域で、突如性的な存在である自分をカミングアウトし、誰にそれを放射しているかを明らかにする行為だ。唐突感が否めない。もちろん、本当にお互いが「いい雰囲気だった」というのはあるかもしれないが、告白者にあらかじめ「いい雰囲気」を形成する法的義務はないから、唐突に告白されることはある程度避けられない。

 手順を踏めば、告白する権利はある。

 しかし、その唐突感——突然「性的な自分」が職場とかご近所という空間に出現する違和感は今後一層強くなっていくだろう。

 だが、逆に言えばどんなに唐突であろうと、手順を踏めば、告白はできる。告白は権利なのである。

 

 告白に対して、告白を拒否する権利がある。

 どのように告白を拒否することもまた自由である。

 手ひどい振られ方をしないために「いい雰囲気」をあらかじめ醸成する努力が必要だし、「いい雰囲気ができている」と正確に感受するセンサーが必要になる。

 その際に、一番ありがちな誤解と、その真意が増田に書いてある。

あなたに愛想よく振る舞うのは、丁度あなたが上司とか目上の人に礼儀正しくするのと全く同じでそれ以上でもそれ以下でもないです。
その優しさは人と人との関係上の優しさであって、あなたのことを異性として求めているからではありません。
自分の都合の良いように解釈しないでください。
社交辞令と愛を履き違えないでください。
間違えても勘違いして告白とかしないでください。
あなたは恋愛の土俵に立ったら、一気にただの激キモ勘違い老人に降格です。絶縁です。
今まで縋り付くことのできていた最低限の優しさすら享受できなくなりますよ。

 普遍的な対人配慮や礼儀を、特定の個人への好意と勘違いすること。これである。

 ここで「あなたに愛想よく振る舞うのは、丁度あなたが上司とか目上の人に礼儀正しくするのと全く同じでそれ以上でもそれ以下でもないです」と書いているのだが、ぼくを含めて、それがわからない男が少なくないのだと思う。

 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」と言われるが、「誰かにやさしくする」ということを「特定の人に向ける好意」としてやっている男性は少なくないのだろう。

 ある種の男性にとっては、上司に礼儀正しくすることと、誰かにやさしくするのとは全く違うのだ。上司に礼儀正しくするのは「お世話になっております」という電話の定形句と同じで、「いやー、ホントに〇〇さんにはお世話になって…」と思っているわけではない。これに対して、自分の残業となる仕事の一つを引き受けてくれて愛想のいい言葉でもかけられたら、そこに特別性を感じ、「自分は好感を持たれているのだな」と思い、「好感」はやがて「好意」に勝手に置き換えられていくのである。

 これが男女という差で引き起こされているかどうかは検証するしかないが、何らかの集団の間での文化の違いのような気がする。

 だから、勘違いしがちなぼくのような輩は、この言葉を壁紙にして貼っておかねばならないと思う。

 

高齢者差別なのか

 もう一つ。

 これは高齢者差別、エイジング・ハラスメントではないのか、というような批判だ。

 ある意味で当たっているが、個人の恋愛や性愛において差別は「当たり前」だ。ぼくがAさんを好きになったとして、Aさんだけを特別扱いしてAさんとだけセックスをしてAさんとだけ結婚するとすれば、Aさん以外を差別していることになる。もちろん大杉栄のように一度に3人の女と恋愛しているとなったとしても事情は変わらない。大杉は3人以外を差別しているのである。

 よしながふみ『愛すべき娘たち』に出てくる莢子という女性は、マルクス主義者であった祖父から「分け隔てなく人に接しなさい」「差別をしてはいけない」と言われて育てられたが、障害者である男性を好きになってしまう。しかし、恋愛とは究極的な意味で「分け隔て」をすることであり、差別をすることだと思いあたる。莢子が突き抜けた当惑とも言える表情を浮かべているのを見て欲しい。

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よしながふみ『愛すべき娘たち』白泉社p.131

 恋愛という差別を誰でもカジュアルにやっているわけである。

 好きなったAさん以外、例えば世間で若くて美しいと評判のBさんとの恋愛やセックスを考えることは「気持ち悪い」と思うのはぼくの権利であるし、そう表明することは権利でもあろう(もちろん、「Bさんは私の恋愛対象にはなりません」というか「Bさんと恋愛することを想像すると気持ち悪い」というかの違いはあり、後者を批判する自由ももちろんある)。

 性的な嗜好(ここでは「嗜好」でも「指向」でも同じものだと考える)は少しズレるだけで、もう全く噛み合わないことがある。同世代の人であっても、あるいは自分より若い人であっても全然アンテナに引っかからず、「性的存在としては気持ち悪い」と思うことは十分にありうるし、そう思うことは決して不当ではない。

 仮にBさんが同性愛者であったとしても事情は同じだ。「同性愛者は自分の性愛の対象ではない」という意味において、同性愛者を嫌うことは自由である。その意味で高齢者を嫌うことも自由だし、同僚の異性を嫌うことも自由である。性的指向/嗜好はとてもピンポイントだし、個人は対象を差別するのだ。

 

 最近元プロ野球選手の上原浩治の「容姿」を問題にしたコラムが批判されたが、ルッキズムについても、それを社会的評価や他のことの評価につなげるから問題になるのであって、容姿を特定個人の恋愛、性的嗜好/指向の「理由」にすることはその人の自由である。*3

 仕事における評価をルッキズムで行えば/絡めれば、それはまさに「不当な差別取扱い」となる。

 

今までは教授と学生の関係とか同じ趣味をもつ人間同士の付き合いだったけど、これからは自分のこと恋愛対象として見てほしいってことで、恋愛の土俵に立ちたいってことでおk?
ならあなたのこと人間でなく恋愛対象として評価させてもらいますけど。
あなたの愛には、誠意には、一円の価値もないです。むしろマイナス!きっっっしょ。
!!ここ重要!!
あなたが若くて美しい肉体込みで私を好きになったのと同じように、私も若くて美しい肉体を持つ異性が好きなんです。
!!!!

ひどいって?
俺には好きな女と恋する権利すらないのかって?
ないよ?
どうして自分だけ若さとか見た目の土俵に上がらないで恋愛に参加できると思ってるの?
加齢臭を放つ垂れ下がった皮膚のどこを愛せというの?俺は見た目とかじゃない?知識?経験?
じょあ私よりもずっと知識も経験もある6◯歳年相応の女と恋愛すればいいじゃん。
そういうのが自慢なんでしょ?笑
もし、あなたが20歳だった頃、6◯歳の女に告白されたらどうしてた?
セックスできた?デートできた?
嘘でも僕も好きです////とか言えた?
気持ち悪い。誰がお前なんかと!って思うくない?
どうしてパパ活とかキャバクラとか風俗が成り立ってるか知ってる?
お金を払わない限り若い女とはセックスどころか話すことすらできないくらい、恋愛対象として利用者が価値のない存在だからです。
現実と鏡を見てください。

 

 これはある種のルッキズムを含んだ高齢者差別である。

 しかし、それは、自分が誰を恋愛対象とするか、という問題に関しては根拠として成り立つし、口に出す権利があるということをこのケースは示している。

 年の差婚というのが現実にはある。しかしそれは「たまたま」そういう指向/嗜好の人がいたという、ただそれだけの話。高齢者が恋愛対象として嫌いというのも、「たまたま」そういう指向/嗜好の人がいたという、ただそれだけの話。同じである。

 

 この部分もまた印刷して壁に貼っておきたい。

 なんだか高齢化していく自分への「呪い」の言葉のようにも思えるけど、必要な自戒であり客観視だと考えた方が、いまのところはいいと思っている。

*1:もちろん書いていないからといって本人がそのような強制に苦しんでいないという決定的な証拠にはならない。

*2:匿名日記=アノニマス・ダイアリーのこと。「マス・ダ」の部分をとった隠語。

*3:「口に出すからいけない」という批判もあるが、「Cさんの顔が嫌いなので私の恋愛対象にはならない」という自由はある。むろん「失礼だ」とCさんが不愉快さを反撃する自由もあるし、無前提にそのような発言をしたとすれば配慮や品位に欠けるものだとは思うが。

「交通事故負傷者は実際には減ってない」問題が国会で質問

 交通事故負傷者は実際には減ってないのではないか、という「しんぶん赤旗」の記事を読んでその感想を書いた。*1

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 その後、共産党塩川鉄也衆院議員がこの問題を国会で取り上げて質問した(6月4日、衆院内閣委員会)。今日の「しんぶん赤旗」にはその反響を書いた記事が載っていた。

 そして塩川議員のホームページにはその質問をまとめた記事が載っていた。

www.shiokawa-tetsuya.jp

 

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(2021年6月4日 衆議院内閣委員会 日本共産党 塩川鉄也 配布資料)

 

 前回記事で青野渉弁護士のコメントを紹介したが、「横ばい」と「半減」ほどに違う。「実数が違うだけで、基本的には同じ傾向」ではないのである。これは統計の意味を無効化し、それを基礎にした国策を誤らせる。

 

 乖離が生じているのはなぜかと質問。

 警察庁高木勇人交通局長は「自賠責保険では、人身事故として警察に届出がなされなかったものでも、実際に負傷したことが確認できれば支払いを行うため」と答弁。

 私は、負傷者数の実態を反映しているのは警察の統計ではなく、自賠責の統計だと事実上認めるものだと追及。

 

 要するに実際には負傷者が出ているのに「物件事故」として扱われたものは、この負傷者統計に入ってこないということを警察庁が認めたのである。

 以下は記事にはなく、動画で確認した塩川議員が暴露した、弁護士からの聞き取り部分である。

 実態をお聞きすると、交通犯罪に詳しい弁護士、青野渉氏によりますと、「警察署の事故対応として、被害者から警察に診断書が提出されると人身事故の扱いになるが診断書が提出されなければ物件事故として扱われる」ということ、「負傷した被害者に対し『診断書を出すなら事情聴取があるので警察署に来て事情聴取に対応してもらいます』『警察で人身事故扱いにしなくても、交通事故証明書は出ますし、自動車保険は出ますよ』とか『相手を処罰したいわけではないでしょう』とか、診断書を出すとデメリットがあり、診断書を出さなくてもデメリットはないかのような説明をしている」ということであります。

と追及した。

 こうした統計の乖離をただす質問に対して、

内閣府難波健太大臣官房審議官は「指摘は承知している」

 小此木八郎国家公安委員長は、乖離が生じている背景について「把握に努めるよう警察を指導する」と検証する考えを示しました。

と答えて検証を約束したのだ。

 これは塩川議員、一本である。

 

補足(2021年6月13日 午前11時30分)

 はてなブックマークに「警察としては診断書入手できてなかったら公式に人身にできないのは当たり前では?」というコメントが比較的上位にあるのだが、別のコメントも批判しているように、実際に負傷が生じて(診断書まで持ってきて)いるのに現場でそれを出させないようにしているのが問題なのである。

 前回のエントリで紹介したが、青野弁護士が指摘するように「現に負傷者がいるのに事件を検察に送致しないのは法律違反」となる。

 質問の動画(2時間46分ごろ)を見てほしいが、塩川議員は、なぜこんなことが起きているのか、現場のそのような対応が横行しているのかを質問の中で紹介している。

www.shugiintv.go.jp

 要は、国の交通安全基本計画(第8次、2006年)に「死傷者数」の削減目標がうたいこまれ(これ自体は必要だと塩川氏は言う)、それに合わせるように2007年から乖離が始まったということだ。国の政策は統計がベースになるのでそれを大きく誤ることになってしまう。

*1:前の記事のタイトルが「交通事故は本当は減っていない?」になっているが、正確には「交通事故負傷者は本当は減っていない?」だな。

「風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつ」で思い出す筒井康隆

www.kaiseisha.co.jp

 これを読んで当然この箇所に目がいく。

風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつのだと思います。

 

 そこにこの記事。

m-dojo.hatenadiary.com

 筒井康隆の風刺・パロディ論争を思い出す(「笑いの理由」/筒井『やつあたり文化論』、新潮文庫所収)。

 最近「差別語」論争について振り返る機会があって久々に読み返していたために、記憶に残るところがあったのだ。

 

 

 筒井は風刺とパロディを区別して、パロディにおいて「原典の本質を理解していない」という批判を厳しく批判する。

なぜかというと、原典の本質を衝いているというだけでは創造性に乏しいことがあきらかで、ある程度以上の文学的価値は望めない。そこで途中から原典をはなれ、その作品独自の世界を追求したり、自分の主張をきわ立たせるために原典を利用する、などというパロディもあらわれた。パロディの自立である。(筒井前掲書KindleNo.3035-3038)

 そして筒井自身の作品について触れ、原典の本質とも細部ともかかわりなく、「むしろ遊離している」とさえ主張する。「原典の本質理解」に拘泥することを、衒学趣味、悪しき教養主義だとするのである。

 他方で、風刺についても述べる。

 筒井は、笑いにおける精神的死の典型は、大新聞社の紙面を飾る1コマ風刺マンガだとする。実際に「面白くもおかしくもない」とのべ、「時にはカリカチュアライズした似顔絵だけの漫画」などとこき下ろす。このようなものを新聞社がありがたがる理由について、笑いの中核には「現代に対する鋭い風刺」が必ずなければならないという貧しい信念が大新聞社的良識があるからだ、とした。“チャップリンの方が、マルクス兄弟よりも高級だ”という風潮をあげながらこう述べる。

なぜこういう誤解があったかというと、常識の鎧を身にまとった人間というものは、笑う際にも意味を求め、意味のある漫画しか理解できない傾向があり、これはあの事件のもじりであろうとか、なるほどあのひとは誇張すればこんな鼻をしているとか、そういった卑近な連想によってのみ笑う(筒井前掲書KindleNo.2853-2856)

 対比的に筒井は、自らの「ドタバタ喜劇」の目指すものを、人間の意識の解放、常識の破壊、想像力の可能性の追求などとしている。

 

 今回の風刺マンガ(エリック・カールの絵本とオリンピック問題を掛け合わせる)は、まったく違う時事ネタをドッキングさせて笑いをとるという、異質な技術を掛け合わせるイノベーションとか、異質な学識を繋いでしまう文化革新とか、そういった異物を結合させる際に含まれるような爽快感が、ごく微量に味わえる手法である。もちろんそれはそれほど大そうなものではなく、日常の生活でもぼくら(というかオッサン)がよくやるものだ。

 無謀なオリンピック計画を批判しているので政治的には味方をしたいのだが、「マンガとして息ができなくなるほど腹を抱えて笑った」というほどに面白いものでもなかった。

 むしろ手慣れた常識感が筒井の新聞1コマ風刺マンガ批判を思い出させてしまう。

 そして、それを批判する言説(今井)についてもやはり筒井を思い出してしまうのであった。

夏目漱石『吾輩は猫である』

 リモート読書会は夏目漱石吾輩は猫である』だった。

 

 

 この超有名な小説、ぼくは読んだことがなかった。

 つーか、中学生、高校生時代に何度か読もうとして途中で挫折している。

 「面白くなかった」からである。

 11章あるけども、1章を終わらないうちにダメになってしまっていた。 

 

 ぼくは「自分では読みそうにない・読み終えそうにない、有名な小説」を読みたいというのがこの読書会への参加動機だったので、このセレクトは願ってもないことだった。『ペスト』などもそうである。

 そして読み終えた。

 なるほど、こういう小説であったか!

 ぼくは、とにかく「朗読すべき文章」としての心地よさに強い印象を受けた。

 例えば、次のような文章(猫のセリフ)は、リズムとしても気持ちがいいし、文章の内容としても「愚行権」の称揚になっていて小気味いい。

何のために、かくまで足繁く金田邸へ通うのかと不審を起すならその前にちょっと人間に反問したい事がある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥かし気もなく吐呑して憚からざる以上は、吾輩が金田に出入するのを、あまり大きな声で咎め立てをして貰いたくない。金田邸は吾輩の煙草である。

 小学生の頃、ぼくは落語をラジオやテープでよく聞いたが、それと同じくらい文章で読んだ(偕成社『少年少女 名作落語』シリーズや興津要編『古典落語』)。

 やりとりが随所で「文章で読んだ時の落語」っぽい。

「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「何だって? Quid aliud est mulier nisi amiciti inimica……こりゃ君羅甸語(ラテンご)じゃないか」

「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」
「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」
「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」

 他方で、漢語や文語的な言い回しが入ってくる。

若し我を以て天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、若し天地を以て我を律すれば我は則ち陌上の塵のみ。すべからく道え、天地と我と什麼の交渉かある。

 まあ、しかしこの一文は、猫の主人(苦沙弥)が「なかなか意味深長だ」「あっぱれな見識だ」と絶賛するものの実は意味不明な手紙の一節なのだが。

 

 しかし、これは子ども、すなわち中学生が読むにはあまりにも歯ごたえがありすぎる文体ではなかろうか。

 しかも、改めて読んでわかったことだが、この作品には筋らしい筋がない。

 あえていえば登場人物の一人、寒月と金田令嬢・富子との結婚話が、か細い筋となっているのだが、そんな筋はあってないようなものだ。だから何かストーリーの面白さを頼りに読み進めるということができない仕組みになっている。読書会に参加したAさんは「自分は中学時代に読んだつもりでいたが、今回改めて読んで、どうも1章で挫折していたということがわかった」と告白した。ぼくと同じである。

 Aさんは「これは高校生…いや大学生でないと難しいかも」と言った。

 Aさんがいうには「そもそもここに出てくる登場人物は、なんだか50とか60のような年齢に思えるのだが、たかだか20代、30代、ぜんぶ私たちより年下だ。苦沙弥は漱石だろうけど、その人は無聊を囲って鬱々としていてそういう悩みは20代、30代の悩みだと思う。だからこういう小説は本当は大学生とか、20代が読むほうがいいはずだ」と言った。

 なるほどぼくが手にしたのは「子どもとおとなのための偕成社文庫」であり、全国学図書館協議会選定図書の一つとしての『猫』であった。ぼくも、この小説を中学生に読ませるというのは乱暴だと思った。自分も挫折しているし。

 ぼくなどは、「こういう時代の女性観、子ども観、用語感覚に触れさせることに激怒するような、ポリティカル・コレクトネスに目を光らせている人」がいるんじゃないかとハラハラする。ウソかホントか、「僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」などという話も出てくるし…。(参加者のBさんは「いや、この本の女性観はむしろ当時としてはずいぶんさっぱりしている。ほとんど苦にならなかった」と発言し、Aさんもこれに同調した。)

 『吾輩は猫である』をまず文体として楽しむなら、大人になってからの方がいい。

 ところが、大人になると『吾輩は猫である』は手に取らない。そういうものは、「中学生か高校生の時に読むもの」だとされているからだ。だけど、今回読んでみて、これは大人でこそわかる面白さではなかろうかという思いを強くした。特に、その文体を朗読する味わいは。

 

 中身についてはどうだろうか。

 よくこの作品は「文明批評」だなどと評される。日常が「猫」の目によって、あるいは登場人物たちによってラジカルで意地悪い批判に晒されるからだろう。先ほどあげた愚行権としての煙草などはその一つだ。この種の「批評」はこの作品に無数にあるが、例えば鏡を通じて自分の容姿を把握するということはこんなふうに書かれる。

鏡は己惚れの醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄の念をもってこれに対する時はこれほど愚物を煽動する道具はない。昔から増上慢をもって己を害し他を損*1うた事蹟の三分の二はたしかに鏡の所作である。仏国革命の当時物好きな御医者さんが改良首きり器械を発明して飛んだ罪をつくったように、始めて鏡をこしらえた人も定めし寝覚のわるい事だろう。しかし自分に愛想の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。妍醜瞭然だ。こんな顔でよくまあ人で候と反りかえって今日まで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の生涯中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほど尊とく見える事はない。この自覚性馬鹿の前にはあらゆるえらがり屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。当人は昂然として吾を軽侮嘲笑しているつもりでも、こちらから見るとその昂然たるところが恐れ入って頭を下げている事になる。主人は鏡を見て己れの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかし吾が顔に印せられる痘痕の銘くらいは公平に読み得る男である。顔の醜いのを自認するのは心の賤しきを会得する楷梯にもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者からやり込められた結果かも知れぬ。

 

 こういう観察って、今はブログに行ってしまったんじゃないかと思う。

 例えばこういうブログの文章がある。この記事のタイトルは「押し売りこそが人間」である。

このところ一軒家を買う人が増えているそうだが、セールス対策への意識が薄れていると思われる。コロナが完全になくなったら対面営業が復活するかもしれず、そこは不明瞭だが、インターネットでいろいろと調べられる時代だと、営業マンと顧客の情報格差も縮まってしまうし、コロナ禍を大きな曲がり角として営業職は荼毘に付されるのかもしれない。昭和の頃だと、「さっき刑務所から出てきた」と前口上を述べる押し売りが本当にいた。あと、新聞勧誘員(拡張団)に恫喝されるのは日常茶飯事であった。昔だとそう簡単に警察は来ない。相手が刃物を取り出したとして、それが腹部の表皮を掠める程度では甘く、内臓まで到達したらようやくお巡りさんがやってくる。穏健になった今日では、粗暴性で牙を向いてくる営業は廃れているが、営業マンは面子ををかけて向かってくるのだから、面子を潰さないように苦慮せねばならない。(以下略)

 

 アルテイシアの文章を読んでいるときにもこうした「文明批評み」を感じる(上述のブログ主とは真逆の立場だが)。

先日、性的同意をテーマにした番組の中で、26歳の女性アナウンサーが「女性がリテラシーを高く持てばいい話で、家に行かなければいいだけの話。その人とそういう関係になりたくないのであれば、2人で飲みに行かなければいい」と発言して、ネット上で批判の声が広がった。

私はその言葉の裏に「賢い女は自衛する」「(自衛できないような)バカな女は被害に遭っても仕方ない」というニュアンスを感じて、性被害者をおとしめる発言に怒りを覚えた。

同時に「おじさんウケする言動が染みついてしまったのかな」と痛々しさも感じた。

その女性アナウンサーは、サバサバ系キャラとして人気だそうだ。それ系の女性は「こいつは中身おっさんだから」と褒め言葉のように言われがちだが、それは「名誉男性」という意味である。

男社会で生き残るには「姫」になってチヤホヤされるか、「おっさん」になって同化するかの二択を迫られる。

そうやって出世した女性たちは、後輩からセクハラ相談されても「そんな大げさに騒ぐこと?」「おじさんなんて手のひらで転がせばいいのよ」と返して、困っている女子をさらに追いつめる。

「人間よ、もう止せ、こんな事は」と、我は高村光太郎顔で言いたい。男社会で女が分断されるのは、もう終わりにしようぢゃないか。(以下略)

 

 あるいは、『猫』の登場人物たちが「首縊りの力学」だなどといってくだらないことを大真面目に議論しているのは、『空想科学読本』シリーズを通り越して、日常系ギャグのマンガを思い出す。

togetter.com

 つまり、『猫』の時代には面白かった「文明批評」とか「日常をラジカルに、しかしコミカルに解体する」要素というのは、現代ではブログとかコミックに分解してしまったのではないかと思った。

 だけどこういう評価は、読書会参加者にはあまりウケがよくなかったし、『猫』が好きだという左翼活動家に話をした時も「ええー? もっと『猫』は面白いもんだよ?」と疑問を投げかけられた。

 

 漱石はこのころ鬱状態のようになってしまって、自分を客観視するという、いわば治療的なプロセスとして本作を書いた、みたいな話はよく見た気がする。

 

 結局のところ、この作品とどう向き合えばいいのだろうか。

 児童文学者の佐藤宗子偕成社文庫に解説を載せていて(子どもを対象にして)、まず「あざやかな細部」という話を書いている。

 

話の筋といったものはちっともつかめないけれど、作品のあちこちに出てきた目新しいことばや、こまやかな場面が、意外にくっきりと浮かびあがる——という人が多いのではないかと思います。(p.387)

 

心配することはありません。この『猫』と読者の向きあう姿として、それはむしろ自然な姿とみることができます。(p.388)

 

読み手の人が、自分なりの興味・関心をもってページを開く——、それでじゅうぶん作品とつきあうことができます。(p.389)

 

 ストーリーにこだわらず、気に入った場面を楽しむ。という付き合い方が奨励されている。読書会参加者は大体この点は共通していた。

 こうもある。

そして、どこか気に入った箇所を、口のなかで結構ですからつぶやいてみてください。むずかしい漢語やカタカナ表記の語がまじるから読みにくい、と思われるかもしれませんが、意外にも、声にのり、耳に親しみやすい文章であることに、おどろかされることでしょう。(p.393)

 これも先ほどぼくが文体が小気味いい、朗読して楽しい、といったことに全く合致する。読書会参加者は誰もが今回読んでみてみんな良かったといっている。正しい付き合い方をしてますね、とお墨付きをもらって安心した気分だ。

 

 そういえばBさんは、この小説について「描写がいちいち具体的で、情景がよみがえるかのように書き込まれているのがいい」と言っていた。Bさんがときどき見かける同人小説は全然具体的でなく、独りよがりな決意が語られてチューショー的に終わってしまうのだ、と愚痴っていたのが可笑しかった。

*1:※「爿+戈」、第4水準2-12-83

「ナショナル・ペンション」を「国立の宿泊所」か何かだろうと思っていたでござるの巻

 英語、それも読むことを毎日少しだけやっていると書いた

 今日この記事を書こうという時に「あらかじめ内容をよく知っている日本のニュースはすぐわかるけど、内容をよく知らない外国のニュースはなかなかわからない」という趣旨のことを書こうと思ったが、よく考えるとそうでもないと思った。

 

 例えば読売新聞系の「Japan Times」の2021年5月22日付の記事の一つを読む(もとは「The Korea Herald」の記事)。

www.koreaherald.com

 韓国では政府がテコになって大企業の技術を国内の中小企業に移転しているという記事だった。見出しの「tranfer 500 techs」って何だろうと初めは思ったが、本文を読み始めてだいたいわかった。500件の技術が移転された、という、まあ、「そのまんま」の意味だった。

 また、中小企業が「small and medium enterprises」っていうのは知っていたが、「SMEs」がまさかその略語とは思わなんだが(初めはSamsungのグループ名なのだろうかと思った)。

 これは外国の話であり、外国の人が書いた記事であったがだいたい読めた。

 

 ところが、日本で書かれた日本の話なのに、初めはさっぱりわからなかったものがある。

 福岡市の外郭団体は「Fukuoka City International Foundation」というニュースレターを作成していて市庁舎においてある。

 何気に一つとって、記事を読んでみる。

http://www.fcif.or.jp/wp-content/uploads/20210506eng.pdf

 「Special Natinal Pension premium exemption for students」と記事の題名にある。

 「ナショナル・ペンション」とあるから、何か国立の宿舎のことであろうと思った。マジで。

 留学生宿舎のようなものがあって、そこに「プレミアム」、何か特別な優待のようなもので宿泊したり、生活できる仕組みがあるのだろう、などと目星をつける。ついてねえけど

 exemption for students…うーむ、なにか学生は除外されているものがあるようだが、何だがわからない…。

 こんな気持ちで読み始めたが、どうも要領をえない。

 宿舎・宿所に対する話だと思い込んでいるから、それに合わせてストーリーを作ろうとしてしまうのだ。

 1節読んでさっぱりわからないので、辞書を引くと「Natinal Pension」とは国民年金のことであり「premium」とは保険料のことであった…。

 年金保険料の免除など、自分が日常的にやっている左翼運動の中心課題の一つなのに、英語での表現は全く知らなかったわけである。

 ウィキペディアを見ると(2021年5月31日時点)、

 「Pension」とは元来、英語では、「年金」の意味である。英語圏でペンションといっても宿の意味では通じない。

 なおフランス語ではpensionに年金の意味はなく、宿、寮をさす。

って書いてあんな…。

山本直樹『田舎』

 「福岡民報」2021年6月号(No.1711)に「マンガから見えるジェンダー」という3回連載の第2回目が載った。山本直樹『田舎』を入り口にしながらエロマンガについて書いている。エロマンガというポルノが問題だと思う人はなぜそれが問題なのか答えられる(言語化できる)かどうかを書いた。

webcomic.ohtabooks.com

 「民報」で書いた論点自身は拙著『不快な表現をやめさせたい!?』ですでに書いている。

 『田舎』について書いたというより、『田舎』を入り口にして、ジェンダーやポルノを語ったというものだ。

 『田舎』そのものについては作品自体の「楽しさ」をもう少し書きたかったが、とても紙幅が足りなかった。

 そこで、ここに少しメモ程度に『田舎』について記しておく。

 

 山本の前単行本にしてエロマンガである『分校の人たち』については以前に書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 『分校の人たち』についてそこで書いた魅力は、『田舎』でも踏襲されている。

 永山薫が「ユリイカ」(No.728)の山本直樹特集で書いたことであるが、永山は

 『分校の人たち』は、いずことも知れぬ地方の分校を舞台に、生徒たちが延々とセックスを繰り返すだけの長編漫画である。…そこには成熟した、世知に長けた、欲望に貪婪な男女はいない。そこにあるのは性器というより泌尿器であり、即物的に反応する敏感な粘膜である。

 性器には最低限の修正しか施されていないが生々しさはなく、派手な反応もない。ただただ事は静かに進行する。(「ユリイカ」p.42)

と述べている。

 永山が言うところのポルノグラフィの根本原理、

過剰さの追求(前掲p.42)

を山本は少なくともこの『分校の人たち』では、しない。

 

 山本が、「森山塔」のペンネーム時代に培った原点について永山は、

森山塔は情熱的では無い。少なくとも情熱をむき出しに迫るようなことは描かない。森山塔のセックス描写は即物的で、まるで生物学者が、とある生物を冷静に観察しているように見える。(p.38)

…どんなアイデアを投入しようが、森山塔は登場人物の誰にも感情移入をしない。突き放して見ている。無情であり、非情でさえある。(p.39)

として、

山本直樹の『分校の人たち』を読んだ時、「ああ、森山塔が帰ってきた」と感じた。(p.40)

と評した。

 だけど、『分校の人たち』と『田舎』には違いはどこだろうか。

 『分校の人たち』に登場する男女3人の生徒がセックスにハマっていく。

 ハマっていく際に、3人は確かに「まるで生物学者が、とある生物を冷静に観察しているように」お互いの体を探り合い、開発を繰り返していく。

 そこには、「観察」や「突き放し」に徹しきれない、微妙な感情の交錯、貪婪さが見えてしまう。例えば、男女2人の生徒がセックスしている間にもう一人の女の生徒が感じるわずかな嫉妬心、あるいは好奇心のようなものである。

 「観察」や「突き放し」のレベルを極限まで高めていくことで、「ただただ事は静かに進行する」ものの、それゆえに、本当に微細な登場人物の感情の上下が電撃のように読むものの欲望を刺激する。

 下図は、学校のトイレで男女二人の生徒がセックスをしている間、ただの成り行きで疎外されてしまったもう一人の女の表情である。この女の生徒にこそ、『分校の人たち』の中では、読者の欲望を集中的に刺激する要素が詰め込まれている。

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山本直樹『分校の人たち』2、太田出版Kindle版No.111/195

 

 探求するかのような『分校の人たち』の男女3人に対して、『田舎』に出てくる、田舎の親戚に滞在する受験生(フーちゃん)と、滞在先の親戚の少女(キーちゃん)とのセックスには「観察」というニュアンスが退く。

 「観察」という行為の中にある、対象に淫する感情、対象にのめり込み所有し支配しようとする姿勢が薄くなっているのだ。

 『田舎』でのセックスはますます「即物的」となり、「突き放し」が徹底されていく。

 欲望的な感情については、微妙であっても揺れ出す瞬間はほとんどない。代わりに、「キーちゃんはひょっとして亡者ではないのか」とか「夏が終わってしまう」とか、そういう感傷ともいえる感情が揺り起こされるシーンが入っていて、むしろ全体としては抒情が漂う。

 ぼくからすると『田舎』は実験作のように見える。突き放そうという山本の態度を研ぎ澄まして、いくところまでいってしまった、とさえ見える。

 

 だから、ぼくにとって『田舎』と『分校の人たち』はどちらも十分にエロいのだけど、どっちがオカズ性が上かといえば後者の方なのである。

 

 山本は『田舎』で突進した徹底性に「気が済んだ」のかもしれない。最新作の連載では、また4人の少年少女たちによる性的な感情の交錯をテーマにしたものに戻っているからだ。