夏目漱石『吾輩は猫である』

 リモート読書会は夏目漱石吾輩は猫である』だった。

 

 

 この超有名な小説、ぼくは読んだことがなかった。

 つーか、中学生、高校生時代に何度か読もうとして途中で挫折している。

 「面白くなかった」からである。

 11章あるけども、1章を終わらないうちにダメになってしまっていた。 

 

 ぼくは「自分では読みそうにない・読み終えそうにない、有名な小説」を読みたいというのがこの読書会への参加動機だったので、このセレクトは願ってもないことだった。『ペスト』などもそうである。

 そして読み終えた。

 なるほど、こういう小説であったか!

 ぼくは、とにかく「朗読すべき文章」としての心地よさに強い印象を受けた。

 例えば、次のような文章(猫のセリフ)は、リズムとしても気持ちがいいし、文章の内容としても「愚行権」の称揚になっていて小気味いい。

何のために、かくまで足繁く金田邸へ通うのかと不審を起すならその前にちょっと人間に反問したい事がある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足しにも血の道の薬にもならないものを、恥かし気もなく吐呑して憚からざる以上は、吾輩が金田に出入するのを、あまり大きな声で咎め立てをして貰いたくない。金田邸は吾輩の煙草である。

 小学生の頃、ぼくは落語をラジオやテープでよく聞いたが、それと同じくらい文章で読んだ(偕成社『少年少女 名作落語』シリーズや興津要編『古典落語』)。

 やりとりが随所で「文章で読んだ時の落語」っぽい。

「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「何だって? Quid aliud est mulier nisi amiciti inimica……こりゃ君羅甸語(ラテンご)じゃないか」

「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」
「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」
「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」

 他方で、漢語や文語的な言い回しが入ってくる。

若し我を以て天地を律すれば一口にして西江の水を吸いつくすべく、若し天地を以て我を律すれば我は則ち陌上の塵のみ。すべからく道え、天地と我と什麼の交渉かある。

 まあ、しかしこの一文は、猫の主人(苦沙弥)が「なかなか意味深長だ」「あっぱれな見識だ」と絶賛するものの実は意味不明な手紙の一節なのだが。

 

 しかし、これは子ども、すなわち中学生が読むにはあまりにも歯ごたえがありすぎる文体ではなかろうか。

 しかも、改めて読んでわかったことだが、この作品には筋らしい筋がない。

 あえていえば登場人物の一人、寒月と金田令嬢・富子との結婚話が、か細い筋となっているのだが、そんな筋はあってないようなものだ。だから何かストーリーの面白さを頼りに読み進めるということができない仕組みになっている。読書会に参加したAさんは「自分は中学時代に読んだつもりでいたが、今回改めて読んで、どうも1章で挫折していたということがわかった」と告白した。ぼくと同じである。

 Aさんは「これは高校生…いや大学生でないと難しいかも」と言った。

 Aさんがいうには「そもそもここに出てくる登場人物は、なんだか50とか60のような年齢に思えるのだが、たかだか20代、30代、ぜんぶ私たちより年下だ。苦沙弥は漱石だろうけど、その人は無聊を囲って鬱々としていてそういう悩みは20代、30代の悩みだと思う。だからこういう小説は本当は大学生とか、20代が読むほうがいいはずだ」と言った。

 なるほどぼくが手にしたのは「子どもとおとなのための偕成社文庫」であり、全国学図書館協議会選定図書の一つとしての『猫』であった。ぼくも、この小説を中学生に読ませるというのは乱暴だと思った。自分も挫折しているし。

 ぼくなどは、「こういう時代の女性観、子ども観、用語感覚に触れさせることに激怒するような、ポリティカル・コレクトネスに目を光らせている人」がいるんじゃないかとハラハラする。ウソかホントか、「僕等の五六歳の時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」などという話も出てくるし…。(参加者のBさんは「いや、この本の女性観はむしろ当時としてはずいぶんさっぱりしている。ほとんど苦にならなかった」と発言し、Aさんもこれに同調した。)

 『吾輩は猫である』をまず文体として楽しむなら、大人になってからの方がいい。

 ところが、大人になると『吾輩は猫である』は手に取らない。そういうものは、「中学生か高校生の時に読むもの」だとされているからだ。だけど、今回読んでみて、これは大人でこそわかる面白さではなかろうかという思いを強くした。特に、その文体を朗読する味わいは。

 

 中身についてはどうだろうか。

 よくこの作品は「文明批評」だなどと評される。日常が「猫」の目によって、あるいは登場人物たちによってラジカルで意地悪い批判に晒されるからだろう。先ほどあげた愚行権としての煙草などはその一つだ。この種の「批評」はこの作品に無数にあるが、例えば鏡を通じて自分の容姿を把握するということはこんなふうに書かれる。

鏡は己惚れの醸造器であるごとく、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄の念をもってこれに対する時はこれほど愚物を煽動する道具はない。昔から増上慢をもって己を害し他を損*1うた事蹟の三分の二はたしかに鏡の所作である。仏国革命の当時物好きな御医者さんが改良首きり器械を発明して飛んだ罪をつくったように、始めて鏡をこしらえた人も定めし寝覚のわるい事だろう。しかし自分に愛想の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。妍醜瞭然だ。こんな顔でよくまあ人で候と反りかえって今日まで暮らされたものだと気がつくにきまっている。そこへ気がついた時が人間の生涯中もっともありがたい期節である。自分で自分の馬鹿を承知しているほど尊とく見える事はない。この自覚性馬鹿の前にはあらゆるえらがり屋がことごとく頭を下げて恐れ入らねばならぬ。当人は昂然として吾を軽侮嘲笑しているつもりでも、こちらから見るとその昂然たるところが恐れ入って頭を下げている事になる。主人は鏡を見て己れの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかし吾が顔に印せられる痘痕の銘くらいは公平に読み得る男である。顔の醜いのを自認するのは心の賤しきを会得する楷梯にもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者からやり込められた結果かも知れぬ。

 

 こういう観察って、今はブログに行ってしまったんじゃないかと思う。

 例えばこういうブログの文章がある。この記事のタイトルは「押し売りこそが人間」である。

このところ一軒家を買う人が増えているそうだが、セールス対策への意識が薄れていると思われる。コロナが完全になくなったら対面営業が復活するかもしれず、そこは不明瞭だが、インターネットでいろいろと調べられる時代だと、営業マンと顧客の情報格差も縮まってしまうし、コロナ禍を大きな曲がり角として営業職は荼毘に付されるのかもしれない。昭和の頃だと、「さっき刑務所から出てきた」と前口上を述べる押し売りが本当にいた。あと、新聞勧誘員(拡張団)に恫喝されるのは日常茶飯事であった。昔だとそう簡単に警察は来ない。相手が刃物を取り出したとして、それが腹部の表皮を掠める程度では甘く、内臓まで到達したらようやくお巡りさんがやってくる。穏健になった今日では、粗暴性で牙を向いてくる営業は廃れているが、営業マンは面子ををかけて向かってくるのだから、面子を潰さないように苦慮せねばならない。(以下略)

 

 アルテイシアの文章を読んでいるときにもこうした「文明批評み」を感じる(上述のブログ主とは真逆の立場だが)。

先日、性的同意をテーマにした番組の中で、26歳の女性アナウンサーが「女性がリテラシーを高く持てばいい話で、家に行かなければいいだけの話。その人とそういう関係になりたくないのであれば、2人で飲みに行かなければいい」と発言して、ネット上で批判の声が広がった。

私はその言葉の裏に「賢い女は自衛する」「(自衛できないような)バカな女は被害に遭っても仕方ない」というニュアンスを感じて、性被害者をおとしめる発言に怒りを覚えた。

同時に「おじさんウケする言動が染みついてしまったのかな」と痛々しさも感じた。

その女性アナウンサーは、サバサバ系キャラとして人気だそうだ。それ系の女性は「こいつは中身おっさんだから」と褒め言葉のように言われがちだが、それは「名誉男性」という意味である。

男社会で生き残るには「姫」になってチヤホヤされるか、「おっさん」になって同化するかの二択を迫られる。

そうやって出世した女性たちは、後輩からセクハラ相談されても「そんな大げさに騒ぐこと?」「おじさんなんて手のひらで転がせばいいのよ」と返して、困っている女子をさらに追いつめる。

「人間よ、もう止せ、こんな事は」と、我は高村光太郎顔で言いたい。男社会で女が分断されるのは、もう終わりにしようぢゃないか。(以下略)

 

 あるいは、『猫』の登場人物たちが「首縊りの力学」だなどといってくだらないことを大真面目に議論しているのは、『空想科学読本』シリーズを通り越して、日常系ギャグのマンガを思い出す。

togetter.com

 つまり、『猫』の時代には面白かった「文明批評」とか「日常をラジカルに、しかしコミカルに解体する」要素というのは、現代ではブログとかコミックに分解してしまったのではないかと思った。

 だけどこういう評価は、読書会参加者にはあまりウケがよくなかったし、『猫』が好きだという左翼活動家に話をした時も「ええー? もっと『猫』は面白いもんだよ?」と疑問を投げかけられた。

 

 漱石はこのころ鬱状態のようになってしまって、自分を客観視するという、いわば治療的なプロセスとして本作を書いた、みたいな話はよく見た気がする。

 

 結局のところ、この作品とどう向き合えばいいのだろうか。

 児童文学者の佐藤宗子偕成社文庫に解説を載せていて(子どもを対象にして)、まず「あざやかな細部」という話を書いている。

 

話の筋といったものはちっともつかめないけれど、作品のあちこちに出てきた目新しいことばや、こまやかな場面が、意外にくっきりと浮かびあがる——という人が多いのではないかと思います。(p.387)

 

心配することはありません。この『猫』と読者の向きあう姿として、それはむしろ自然な姿とみることができます。(p.388)

 

読み手の人が、自分なりの興味・関心をもってページを開く——、それでじゅうぶん作品とつきあうことができます。(p.389)

 

 ストーリーにこだわらず、気に入った場面を楽しむ。という付き合い方が奨励されている。読書会参加者は大体この点は共通していた。

 こうもある。

そして、どこか気に入った箇所を、口のなかで結構ですからつぶやいてみてください。むずかしい漢語やカタカナ表記の語がまじるから読みにくい、と思われるかもしれませんが、意外にも、声にのり、耳に親しみやすい文章であることに、おどろかされることでしょう。(p.393)

 これも先ほどぼくが文体が小気味いい、朗読して楽しい、といったことに全く合致する。読書会参加者は誰もが今回読んでみてみんな良かったといっている。正しい付き合い方をしてますね、とお墨付きをもらって安心した気分だ。

 

 そういえばBさんは、この小説について「描写がいちいち具体的で、情景がよみがえるかのように書き込まれているのがいい」と言っていた。Bさんがときどき見かける同人小説は全然具体的でなく、独りよがりな決意が語られてチューショー的に終わってしまうのだ、と愚痴っていたのが可笑しかった。

*1:※「爿+戈」、第4水準2-12-83