「風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつ」で思い出す筒井康隆

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 これを読んで当然この箇所に目がいく。

風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつのだと思います。

 

 そこにこの記事。

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 筒井康隆の風刺・パロディ論争を思い出す(「笑いの理由」/筒井『やつあたり文化論』、新潮文庫所収)。

 最近「差別語」論争について振り返る機会があって久々に読み返していたために、記憶に残るところがあったのだ。

 

 

 筒井は風刺とパロディを区別して、パロディにおいて「原典の本質を理解していない」という批判を厳しく批判する。

なぜかというと、原典の本質を衝いているというだけでは創造性に乏しいことがあきらかで、ある程度以上の文学的価値は望めない。そこで途中から原典をはなれ、その作品独自の世界を追求したり、自分の主張をきわ立たせるために原典を利用する、などというパロディもあらわれた。パロディの自立である。(筒井前掲書KindleNo.3035-3038)

 そして筒井自身の作品について触れ、原典の本質とも細部ともかかわりなく、「むしろ遊離している」とさえ主張する。「原典の本質理解」に拘泥することを、衒学趣味、悪しき教養主義だとするのである。

 他方で、風刺についても述べる。

 筒井は、笑いにおける精神的死の典型は、大新聞社の紙面を飾る1コマ風刺マンガだとする。実際に「面白くもおかしくもない」とのべ、「時にはカリカチュアライズした似顔絵だけの漫画」などとこき下ろす。このようなものを新聞社がありがたがる理由について、笑いの中核には「現代に対する鋭い風刺」が必ずなければならないという貧しい信念が大新聞社的良識があるからだ、とした。“チャップリンの方が、マルクス兄弟よりも高級だ”という風潮をあげながらこう述べる。

なぜこういう誤解があったかというと、常識の鎧を身にまとった人間というものは、笑う際にも意味を求め、意味のある漫画しか理解できない傾向があり、これはあの事件のもじりであろうとか、なるほどあのひとは誇張すればこんな鼻をしているとか、そういった卑近な連想によってのみ笑う(筒井前掲書KindleNo.2853-2856)

 対比的に筒井は、自らの「ドタバタ喜劇」の目指すものを、人間の意識の解放、常識の破壊、想像力の可能性の追求などとしている。

 

 今回の風刺マンガ(エリック・カールの絵本とオリンピック問題を掛け合わせる)は、まったく違う時事ネタをドッキングさせて笑いをとるという、異質な技術を掛け合わせるイノベーションとか、異質な学識を繋いでしまう文化革新とか、そういった異物を結合させる際に含まれるような爽快感が、ごく微量に味わえる手法である。もちろんそれはそれほど大そうなものではなく、日常の生活でもぼくら(というかオッサン)がよくやるものだ。

 無謀なオリンピック計画を批判しているので政治的には味方をしたいのだが、「マンガとして息ができなくなるほど腹を抱えて笑った」というほどに面白いものでもなかった。

 むしろ手慣れた常識感が筒井の新聞1コマ風刺マンガ批判を思い出させてしまう。

 そして、それを批判する言説(今井)についてもやはり筒井を思い出してしまうのであった。