佐久間薫『カバーいらないですよね』

 中1の娘がどんな大人になるのか知らない。どうせ子どもの「65%は、大学卒業時、今は存在していない職に就く」んだから、あれこれ悩んでもしょうがない。

 佐久間薫『カバーいらないですよね』は書店で働く主人公の「書店員あるある」を描いたコミックだ。

 

 ぼくはこれを読んで「あー、娘もこんなふうに書店で働けたらいいな」と思った。

 「あのなー、書店労働ってどんだけ大変だかわかってんの?」という声が聞こえてきそうだけど、確かに他の書店員マンガってそのあたりの大変さ・過酷さが描かれている。どんなにお気楽そうに、あるいはギャグを交えた作品であっても。

 ところが、この作品が、書店労働の「ゆるさ」しか流れてこない。書店労働でありがちな大変さとしてはこの作品では返品の本を縛る労働の話が出てくるけども、それさえも途中で職務を放り出して腕相撲をし始めてしまう「ゆるさ」がある。

 この書店の中で一番厳しそうなのは主人公の先輩にあたるメガネをかけた男性の「泉氏」であるが、その泉氏のイライラやオラオラでさえ、愛すべきキャラの一つでしかなく、たぶんぼくは彼と一緒に働きたいと感じている。

 客から問い合わせられた「アズミノ」の所在地も漢字もわからない主人公は、「でも私高卒なんで」と言い訳をしようとするが、泉氏から「十分だ」と批判されて漢字を勉強するよう指導される。主人公は律儀にも漢字ドリルを(おそらく自費で)買って帰るのだが、自宅で少しやり始めたかなと思ったらすぐに飽きてテレビを見始めてしまう。「それ、まんま、うちの娘やん…」と思わずにはいられなかった。

 「ゆるさ」を伝える作品は、そのまま現代では「楽しさ」に結びつくことが多い。そこでは労働は「やりがい」や「社会的意義」「自己実現」よりも、「ゆるさ」があって「楽しい」ことの方が大事だ。

 この書店では、労働そのものではなくて、労働を通じて働いている人たちとキャッキャッと戯れている感じがモチーフになっている。彼女(娘)が高卒で社会に出て、もしこんな職場があれば、それは幸せなのではないかという思いを抱いた。そして「さらに働きながら、自分が描いたマンガをこんなふうに刊行できたらいいな」とも思った。

 そういう意味ではこれはまあ一種のユートピアなのかもしれない。ユートピア文学。

中野晃一「意思決定の場に女性をどう増やすか」

 「前衛」2021年4月号に掲載された特集「森喜朗氏の女性差別発言が示すものは何か」のうち、中野晃一「意思決定の場に女性をどう増やすか」に興味をひかれた。

前衛 2021年 04 月号 [雑誌]

前衛 2021年 04 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2021/03/08
  • メディア: 雑誌
 

  特集名で大体どういう話題かはお分かりになると思うが、中野は、「みんなの職場には“森”はまだいる」というミクロな男性権力の話にせずに、

どこにでもよくある問題という形にしてしまう前に、あの問題はあの問題として重要な意味があるということをとらえておく必要があると思っています。(p.43、強調は引用者、以下同じ)

としている。ただ、「あの問題として」というのは非常に狭く「オリンピックやアスリートの分野で」というほどに限定してしまうのではなく、「意思決定の場に女性がいないという問題」(中野)としてとらえよ、という提起である。

 

 中野はわざわざこの問題を、

社会の問題以前に政治問題として認識しなければいけないと思います。(同前)

と書いている。

 中野の言う「政治問題」というのは、どういうことだろうか。

 中野は次のように書いている。

男性のボスがいて、いつまでたってもその人に忖度し、追随する。そのボスは、男たちをはべらせて、居続けるということが続いていて、いつまでも公職をわがものとして続ける。ある意味でわかりやすい日本版家父長制の権力の使い方が露わになった政治問題だと思っています。(p.43-44)

 もう少し詳しくこの問題を中野は言い換えている。

彼らは、わきまえる人たち——まつろう人たち、つまり、既存の権力秩序に服する人たちだけを相手にし、それが政治、それをもって統治することだと思っているのです。異分子を排除し、黙らせるということを、「以って和となす」と思っている。内輪の和を乱したことに対して腹を立て、その収拾をつけなければいけないと思っているだけで、発言の内容が何が問題だったかについては、わからないままで、わかるわけがないと思います。(p.44)

 これを中野が「政治問題」だとするのは、まずもって政治の分野でこのような状況がまかり通っているという意味であろう。

 しかし、中野は「社会の問題以前に政治問題として認識しなければいけない」といいながら、問題を政治分野だけでなく、社会全体に敷衍する。

…政権与党も、五輪の組織委員会JOCも、あるいは多くの会社や組織においても、実際には、多様に開くことに逆行する現実があります。政治や社会のいろいろな意思決定の場で、男性しかも中高年の男性だけでものごとを決めていくことを、変えていかなければならないということに、市民社会の側でも認識を新たにしていく必要があると思います。(p.45)

  その上で、

どんな組織体であっても、——場合によっては社会運動などにおいても——、一定程度ピラミッド型になっています。(同前)

としている。

 うむ。

 これはなかなか意味深長な発言の構造ではないのか。

 中野の発言はある意味でわかりにくい。

 いいですか、これは社会問題という以前に政治の問題なのですよ、と「政治」にまず問題を向かわせる。オリンピックという「社会」の問題であるにもかかわらず。そして再びその問題を政治と社会両方に振り向け、市民社会や社会運動の側にも注意を促している。

 中野は、市民団体や共産党にもそういう問題がないですか? と警告しているのではなかろうか。

 共産党は別にそう警告されたからといって、キレる必要はない。(キレないからこうして中野のインタビューを自分の機関誌に載せているのだろう。)なぜなら共産党はわざわざジェンダー平等の問題で「自己改革」を大会決定として提起しているからである。

 もちろん、共産党だけではない。中野は、女性を意思決定の場に増やしていることについては「共産党がどの政党より頑張っている」(p.46)と高く評価している。

 

 中野の提起は、よく見るとジェンダーという領域を超えている。

 異分子を意思決定の場から排除するな、というさらに広い提起だからである。

 

 ただし「市民団体や共産党だって異分子を排除しているんだろう」というこれまで言われてきたような、どちらかといえば左翼叩きを自己目的にして本気で多様性を追求しない議論とは違う。

 民主主義というシステムは、社会の構成が多数であれば自動的にその構成が反映されて参加が進むという建前があった。中野も、団体や会社では、選挙や実績で、意思決定の場に参加する代表を決めるので「公平だ」とする建前があることを認めている(p.45)。

 しかし、どうもそうはなっていないというわけである。

 女性が半数世の中にいても意思決定の場には入り込めない。

 若者が、困窮者が、あるいはメインストリームに反対の人たちが。

 そうした人たちが自動的に入り込めないのは、意思がないからではなく、入り込むために何らかの障壁があるからだろうと考えるのである。

 中野は次のように言う。

入り口のところで参入障壁がないのかを注意深く見つめ、議論し続けて、より平等に参加できる機会をつくっていく。そのうえで。次はより責任のあるポスト、あるいは役職についてもらう。そういうときに、何が障壁になっているかをきちんと調べて変えていくことも重要です。(p.46)

そういったことを経ていかないと、最終的に持続できるような状態で意思決定の場に女性がいないという問題を根本的に解決することはできません。お飾り的に女性をどこかから連れてくることによってごまかしをするという、実際に意思決定を牛耳っている人たちからすれば何も怖くないことがおこなわれてしまいます。(p.46)

 これを例えばアファーマティブ・アクション、「ゲタをはかせる」という制度で解決することもあるだろうが、それは一つの選択肢に過ぎない。そのやり方は良い点も悪い点もある。

 他の方法もいくらでもあるわけだ。

 例えば、PTAで「任意参加であることを会員に周知しよう」という人はPTA会員(親と教職員)にその意見を主張する場は年に1回の総会しかなく、そこに会員はほとんど参加せず(委任状の山)、発言時間も数分しかない。そのような異分子の意見が通ることもないし、役員になる機会(当選する可能性)も事実上ない。

 そうした時に、例えば多様な意見を、普段から見聞きできる場所を保障することで、この問題をクリアすることもできる。

 よく言われるように、長時間残業ができることが会社にとっては幹部の資質として考えられるのであれば、長時間残業という現実を変えるか、短時間で現場で働いている人を幹部として多数入れる制度をつくるか、様々な方法がある。

 いずれにせよ、「参入障壁がないのかを注意深く見つめ」それを取り除くようにしないと、それは「意思決定の場に女性や多様な存在を入れる」という改革にならない…こう中野は言いたいのである。

 

 現実の多様性を反映するよう、障壁を人為的に取り除き、公正な競争ができるシステムに改造せよというのである。経済において独占を排除するようなものだ。言論や表現ではこうした過保護は危ういが、そうではなく現実の格差を是正して公正な競争を確保する改革については、原則的にぼくは賛成である。

アキヤマヒデキ『ボクらはみんな生きてゆく!』1

 ほぼ毎号読んでいるマンガ雑誌スペリオール」の中で、アキヤマヒデキ『ボクらはみんな生きてゆく!』は楽しみなマンガの一つである。そのことは過日も書いた

  「ボクらはみんな生きてゆく!」は、主人公が田舎での生活を始める話だが、今農作物を荒らすシカを駆除するために、免許を取得しようとしている。

 シカを撲殺しようとするがなかなか一撃で殺せずに、何度も何度も叩いてやっと死なせるという、まことにむごい様が描かれている。急所を知らない上に、非力なのである。自然に対して技術的な意味でダメさが、なんだかぼくによく似ていて他人事ではないと思った。

 今回は箱罠にかかったシカを刺殺するシーン。シロウト的な目線がとてもいい。

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2020/10/11/170306

 

 

 

 「狩猟」を扱ったマンガとしては『山賊ダイアリー』があるが、同作と比べると『ボクらは…』の第1巻は、動物との知恵比べといった印象が強い。なかなか罠にかからないシカとの知恵比べをして、試行錯誤するシロウトっぽさが読ませる。

 

 …と、さっきからぼくはアキヤマを「シロウト」扱いしてばかりいるが、作中で彼の幼少期を見ると自分の工夫でスズメを獲ったり、魚を捕まえたりと、岡本健太郎と似たような「動物採集」の素養を持っていて、たとえばぼくなどと比べると実際にはおよそ「シロウト」ではない。相当の工夫家である。

 

 『ボクらは…』1巻で興味を持ったのは、村民が狩猟者に対してかけている期待や注文の温度だ。シカの被害で困っているのに、駆除死体が動物に掘り返されると大騒ぎしたりする。

 シカを1頭駆除すると県から5000円もらえるが、アキヤマが駆除したのは月に7頭。それだけでは生活できないので、さらに1頭あたり1000円を「村」から助成してもらえないかと「村の会合」で持ち出すのだが、「村の年寄り」に怒鳴られるのである。

お前 アホか!

1頭につき県から5千円貰おとるやろ!

  それでは足りない、罠の部品・破損のコストからすると逆に赤字なのだ、とアキヤマが窮状を訴えるのだが、

そういうことはな、村のみんなに鹿肉でも配って、ちゃんと根回ししてから言えや!

いきなりそんなこと言うてカネが出るわけないやろ!

 とさらに怒鳴られる。

 なんだこの理屈は。

 その「年寄り」の言うところの「アホか」の「アホ」とは、一体何を指して「アホ」と言っているのだろうか。少なくともアキヤマの描写を見る限りでは、「鹿肉でも配って、ちゃんと根回ししてから」言わなかったことが「アホ」だというのである。

 なんのために「会合」をしているのか。

 大事なことは全て「会合」とは別の「鹿肉でも配って」もらったメンバーへの「根回し」によって決められていて、それを何一つ隠すことも恥じることもなく大声で喚く、この村のセンスに絶望する。

 最近もそうした、“大事なことが会議ではなく別の場で決まる”という話をどこかで聞いたような気がする。五輪とか、ナントカ新社とかで。

 

動物がうまく描けなくても作品として面白い

 グラフィックにおける動物の描写レベルについて一言。

 別に「うまい」というわけではない。

 というか、ダイナミックさがなくて「ヘタ」と言えるかもしれない。

 無機質な目。人形っぽくさえある。

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アキヤマヒデキ『ボクらはみんな生きてゆく!』1、小学館、p.51

 だけど、それでなんの問題もない

 『山賊ダイアリー』もそうだけど、よりによって動物の狩猟を描いているマンガであるが、写実性を基準にした巧拙はこういう作品においてほとんど問題にならない。むしろそうした描写にかけるコストは余計なのではないかとさえ思わせる。

 

作者の自画像

 作者アキヤマはぼくと同じくらいの年代であろう。

 ほうれい線が入ったり入らなかったりする。

 入れると途端に老けて見える。入れないと20代くらいに見える。

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同前

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同前

 その中間を表すグラフィックがこの絵柄ではなかなか開発できないのであろう。(これは他の作品でもぼくはしばしば述べているが)

 

 

 

花津ハナヨ『情熱のアレ 夫婦編 夫婦はレスになってから!』

 夫婦の間のセックスやセックスレス、不倫を描いたマンガがいろいろあるんだけど、花津ハナヨ『情熱のアレ 夫婦編 夫婦はレスになってから!』に出てくる会話や温度感覚が自分にぴったり照準が合っていて、なんども読み返してしまう。

【おまけ描き下ろし付き】情熱のアレ 夫婦編 ~夫婦はレスになってから!~ 1 (Love Silky)

 主人公の美雨と、パートナーの直太朗の夫婦(幼稚園に通う娘が一人いる)の物語で、この夫婦にはすでに4年間セックスがない。

 思ったことを3つほど書く。

 

手作り工作としてのセックス

 一つは、「セックスレスを超えて5年ぶりに夫とセックスをしたら、それはもう自分と夫が作り上げたセックスではなくなっていた」件。「浮気」確定だと美雨に悟られてしまうのである。

 直太朗は美雨と付き合い始めた当初は自信なさげで、どうやったら快感を得られるのか、というか、お互いにとってどこが気持ちいいのかを手探りで作り上げていく共同作業としてセックスができていた。

 ところが、5年ぶりに再開させたセックスは

私たち二人が作ったものじゃなくなって

彼が他の人と作ったものとなっていました

 という。

 うわー、そりゃホラーだ、と思う一方で、セックスというのは本来そういうもので「ハンドクラフトとしてのセックス」であることが普遍的なのだと改めて感じた。

 特定の相手とのセックスというのは、ミリ単位の微細なズレを修正して作り上げていく精巧な工作に似ている。だから出来上がったフォルムというのは、いかに「一般的な姿」、例えば映画やビデオで見るようなものと比べると奇妙奇天烈な形になっていても、それがそのカップルに合っているのなら、そのカップルに十二分にカスタマイズされた姿なのであって、そこでは「一般性」は何の意味も持たない。

 一夫一婦制のもとでのセックスって、このようにいつでも手作り工作みがあるわけだが、そこには、その特殊なセックスのあり方、つまりある種の「狭さ」を批判する材料がないのだとも言える。他から学んできて自分たちのセックスはもっとこういうふうに改善できるのではないか、ということが基本的にないからだ。

 昔つきあった人たちのセックスと比較して、現在のパートナーとのセックスを批評的に考えることはできるだけども、せいぜいその範囲である。

 不倫や風俗によって日常的に比較の材料を得ることができる条件があれば別だが、一夫一婦制のもとでは基本的に禁止されている。

 あとは、知識として仕入れてくるくらいになる。

 そういう本はいろいろある。ネットにもそうした知識が出ている。だけどそれを積極的に取り入れて実際の改善に結びつけるというのは、相当な意識的努力が必要なんじゃなかろうか。しかも性的なタブーが世の中にはあるから、そんな努力をしている人は稀有ではないのかと思う。

 「いや、別に改善なんかしなくても、そのカップルが二人で(文字通り)手探りで作ってきたセックスがあればそれでいいのでは?」という結論になるわけだけど、不幸にしてその工作物が不具合であったら、(ふーん、セックスってこんなもんか…あんまり面白くないね)ってな感じでそのままセックスレスになるってこともあるんじゃないのだろうか。セックスレスになってもそれでカップルが続いていけばそれでいいけど、セックスがないことによって失われる円滑さもあるんじゃないかとも思うのだ。

 

 美雨の場合、セックスが回復したことでいろいろうまくいくようになった夫婦仲や家族関係というものがまさにそれだと思うのだが、美雨は「じゃあセックスを我慢して受け入れていればよかったのだろうか…」と悶々とする。それに対して、幼稚園のママ友から、そういう努力している美雨の姿、トライ&エラーを繰り返す美雨の姿は「好きだ」と言われ、結びつきが強くなった美雨・直太朗のカップルの姿を賞賛される。「正解ってひとつじゃないよね」と言われるのである。

 

 ぼくはセックスを改善する機会を得たいと思う派である。

 本作では美雨のママ友(マキ・王子)カップルが得難い話し相手になる。このカップルは実は前作『情熱のアレ』の主人公カップルの「その後」なのであるが、少なくとも1〜2巻までは美雨・直太朗夫婦の問題をあぶり出すための、ある種の理想モデルのように扱われている。(「王子」はあだ名。「王子様」の意味)

 マキ・王子夫婦は、セックスグッズを扱う会社で働いているから、ある種の「専門家」であるし、そういう話題にも慣れている…っていう設定である。

 性の話題を振っても引かれない。フランクに性が話題になる。

 そしてテキトーではなく、専門的で、公正な意見が返ってくる。

  あ〜こういう友達が欲しい〜と思ってしまった。

 

セックスする権利

 二つ目は「セックスする権利」について。

 その王子・マキ夫婦が珍しくケンカをするのだが、その原因がセックスなのである。

 王子はストレートにマキに次のように要求する。

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花津ハナヨ『情熱のアレ 夫婦編』2、白泉社、kindle95/207

 このコマだけ見ると、王子の表情といい、自信を持った断定調といい、何だよ何様だよお前はパートナーに「セックスする権利」を主張できると思ってんのかよと思ってしまうコマである。

 しかし、よく読めば必ずしもそうではない、単純にそうとも言えないことがわかる。

 王子の要求はできれば毎日セックスがしたい、だけど妥協して週1回にしているのだという。

 マキによれば王子とのセックスは「フルコース」のようなもので、美味しいけど毎日食べるのは…というものである。その上、マキの昼間の仕事が繁忙期で体力を温存しておきたい。 王子もそれをわかっているからずっと何も言わなかったのだが、ついにトラブルになったのだという。

 いわば、王子はセックスについて粘り強く交渉を続けてきたが、ついに爆発させてしまって、上記のようなキツい表情のコマになったということなのである。王子は傷ついていた、ということである。

 

 アムネスティ日本が、買春に関して金銭を払ったからという理由で「権利としてのセックス」を要求することを批判している

いかなるセックスも同意がなければならないということだ。権利としてセックスを要求することは、誰にも許されない。

 これは買春に関わってのテーゼだけども「誰にも許されない」とあるように、たとえ夫婦間であっても事情は同じだろう。夫婦であるという理由でセックス権があらかじめあるわけではない。

 だから、このコマを最初に見たとき、「あっ、これは『セックスする権利』じゃねーの!?」と思ってドキリとした。しかしよく読めば、王子の爆発の、やや不公正な表現であったわけである。

 奇妙なもので、王子のこのセリフ自体は、マキに対する交渉としてはアリだとぼくは思う。つまり「セックスの回数が少ないから考慮してほしい」と表明すること、そして「あなたが応じる気がないなら、あなたが合意しさえすれば『外』で自分は満たしてくる」と表明することは。

 どちらも相手の判断や合意を無視して、自分の権利として主張し行使してしまうと全く誤ったものになる。それくらい微妙なセリフだと思う。

 逆に言えば、こうした王子とマキの交渉はぼくから見て非常に理想的なものである。本来セックスの回数についてこうした公然たる交渉が行われるべきではないだろうか。

セックスのことで話し合うって発想なかったな…

とこの王子・マキの話を聞いた直太朗がつぶやくのは、非常に重要な気づきである。

 

「女として扱われたい」

 三つ目は「女として扱われたい」という言葉。

 2巻で、美雨は、バイト先のマッサージ店の店長の飲み会に合流して、全く知らない男女、しかし気さくな人たちとセックスについての話をする。

 ためていることを吐き出すためにもらった時間で、美雨はその飲み会参加者にこんなことを告白する。

「さっき要さん(飲み会の参加者)に『赤塚さん(店長)に手ェ出されてない?』って言われたのがうれしかった」

 そして告白中に自分で気づく。

「だってもうそういう対象として見られることないって思ってたから……  あ」

「ん?」

「私“お母さん”になったから自分で女の気配を消していたくせに 女扱いされたかったんだな…」

 

 「女扱いされる」。

 ここでは必ずしも自分のステディである直太朗に「女扱い」=性的対象として見られることに限定されていない。

 女性を性的対象としてとらえることには、特に最近厳しい風潮がある。

 拙著『不快な表現をやめさせたい!?』でも述べたけど、女性のさまざまな人格の側面のうち、性的な側面だけを取り出して、モノのように扱うことは女性を二級市民として扱う風潮を助長させるだろう。*1

不快な表現をやめさせたい!?

 

 しかしだからと言って、「性的な対象として見られたくない」「性的な存在として扱われたくない」というわけではない人もいる・シチュエーションもあるのである。「性的な自分もいるよ」と声をあげたいのである。

 「はっ! 性的に見るなって言ったり、見ろって言ったり、一体どっちなんだよ!」という声が聞こえてきそうだが、「性的にだけ見るな。だけど性的な一面もある全面的な人間だっていうことも知ってほしい。そういう当たり前の気持ちなんだよ」と反論されるだろう。

 美雨はそう告白して涙を流してしまうのだが、性的な自分をどう表現したらいいかわからない、むしろ過重とも言える性的表現へのストレスが美雨を追い詰めている。

 

ちょうどいい温度

 以上である。

 セックスレスや不倫を扱うマンガ作品はいろいろある。そこには必ず「恋愛」的な要素が入り込むので、どうしても主人公が陶然となったり、逆にロマンチックにシリアスになったり、あるいは真面目な文脈で深刻になったりしてしまう。

 もちろん、読者としてそこにハマれば、そうした感情を深く沈みこませる描き方に共感できる。実際ぼくはそのようにして楽しんでいる。しかし、読者によっては、そこから少しでもズレてしまうと、自分にはどうでもいい他人の恋愛や家庭事情を見ているような気になってしまう場合もある。

 「勝手にやってろ」と。*2

 

 ところが、本作の花津の作風はどこかしらギャグっぽい。マヌケなコミックエッセイのようなゆるさがあって、いつも一歩引いて見ているような視線で読めるのである。万人にとって「読みやすい」のではないかと感じる。

*1:と言ってもその本で書いたように、そうした表現を規制することには必ずしも賛成しない。

*2:韓国ドラマ「ロマンスは別冊付録」を見たとき、主人公の女性〔イ・ナヨン〕の労働実態や女性の地位、あるいは出版社としての物語には大いに興味をそそられたのだが、その女性と男性〔イ・ジョンソク〕との恋愛のイチャイチャ描写には自分でもびっくりするほど関心が持てなかった。『僕の心のヤバイやつ』の男性主人公の暗さ・僻みっぽさはそのまんま自分を投影できて、主人公がクラスの女子といい関係になるたびに「ふぉぉぉぉ…」と心が踊ってしまうのだが、イ・ジョンソク自身、およびその役柄くらいハイスペック(イケメン・作家・大学教授・出版社編集長)になるとたぶん(ぼくと)違いすぎて(ぼくが)全然入り込めないんだと思う。

田川建三『イエスという男』

 リモート読書会では田川建三『イエスという男』を読んだ。

 

イエスという男 第二版 増補改訂

イエスという男 第二版 増補改訂

  • 作者:田川 建三
  • 発売日: 2004/06/10
  • メディア: 単行本
 

 

 もちろんなんでもハイハイと言う「イエスマン」のことではなく(笑)、キリスト教の始祖とされているイエスのことである。

 どういう本か。

 イエスを神の子でありまた宗教家であるとするイメージを一方の極とすれば、他方でイエスをローマ支配と闘った社会革命家とするイメージの極があり、この両極のイメージを排して、イエス像を打ち立てようとしている。

 当時イエスが活動したパレスチナユダヤ教が支配している土地であり、政治・経済・宗教が一体となっていた。「イエスの活動はやはりユダヤ教批判を本質としていた」(p.167)とある通り、イエスは当時のユダヤ教を批判するのだが、それは、宗教が生活のこまごましたところまで支配をしていたからである。イエスはその支配に反対して、叫びをあげる。

 しかし、その支配への反対(反逆)は、宗教だけでなく、政治や経済へのおかしさへの反逆となってくる。このために、宗教批判を中心としながらも、社会経済構造への反逆ともなって現れてくる。

 他方で、支配への反対は、その支配にかわる、首尾一貫した新たな宗教や政治経済の体系を提示するわけではなかった。あくまでもイエスの反対は鋭い斬り込みをするものだが、あくまでも反対にとどまるものだった。いわば「逆説的反逆者」だったのである。

 

 イエスの言動から新たな宗教を組み立てようとした原始キリスト教団は、イエスの宗教支配への批判を、「ユダヤ教批判」へと読み替え、ユダヤ教を批判して新たな普遍的宗教を作り出したのがイエスだとする。こうしてイエスは「キリスト教の先駆者」であるという扱いを、キリスト教内部で受けていく。

 そして、イエスが行なった社会経済構造への批判は骨抜きにされて、宗教的な説話として読み替えられてしまう。

 

 田川建三は、こうしたキリスト教側のイエスの歪曲に逆らって、「イエスキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である」(p.11)という規定を行う。「歴史の先駆」とは、宗教・社会経済などが一体となった抑圧体制への批判者だったという意味であろう。

 しかし、イエスが社会革命家であったという議論にも田川建三は与しない。

 イエスをローマ支配に反対した社会革命家と描くのは、無理がありすぎるというのである。

 

 イエスキリスト教の宗教家とみなす考えも、社会革命家として描く考えも、どちらもイエスを無矛盾の、論理一貫した、体系的考えの持ち主として前提しすぎていると田川は批判する。1世紀の思想が、あるいは人間の思想がそもそもそんな無矛盾の、論理一貫した、体系的なものであるはずがなく、後からこじつけるのはやめろ、といいたのだ。

 

 ラストの章は、「ふーん宗教批判したのがイエスだと言いたいわけ? じゃあ、イエスには宗教的要素、宗教的熱狂は全くなかったの?」という問題、田川自身の立論(イエスは宗教家ではない)が招く矛盾の検討にあてられている。

 

 ぼくは田川のイエス解釈が妥当かどうか、何の素養もないので判断はできなかった。

 だけど、面白くはあった。

 例えば冒頭に、「祈り」について書かれている。

 当時のユダヤ教が支配していた社会では専門の宗教学者たちがいて、そいつらはお金もある、労働もしない暇人なので、生活の実態を無視してやたらに長い祈りの文句を考え出して、宗教儀式=法だと言って押しつけてくる。それに対してイエスは、「だいたい祈りは神との対話なんだろ? 他人に見せびらかすもんじゃないよ。そもそもお前らの押し付ける祈りは長すぎるぜ」と言って

「父さん、お名前が聖められますように。あなたの国が来ますように」

でいいじゃん、ってことでたった二つに縮められてしまった。さらに、「我々の毎日のパンを今日も与えてほしい」って付け加えるといいよ、としたのである。

聞いている者たちは唖然としたに違いない。聖なる神を讃美する祈りを、俗語もまじえて、ぎりぎり最小限まで縮めてしまったあげく、こともあろうに、「今日食うパンをほしい」などと付け加えたのだから。(p.24-25)

しかし、何を祈るといって、当時の民衆にとって、ローマ帝国の間接支配、ヘロデ王家の支配、宗教的貴族層の収奪と、二重三重の収奪に喘ぐ民衆にとって、そして周期的に必ず押し寄せてくる飢饉によって生命も危険にさらされる民衆にとって、無事にその日その日のパンがほしいというのは切実な気持ちだっただろう。(p.25) 

 イエスの場合、「祈り」というものが設定されるユダヤ教社会全体の様相に対して、またそこでなされている実際の祈りに対して、皮肉に、批判的に、言葉をなげつけていっている。それは皮肉な批判でありがなら、同時に、生活する者の叫び声でもある。(p.25、強調は引用者)

 逆説的反抗者であり歴史の先駆者であるというのはこういう意味だ。ユダヤ教の批判者であるが、社会革命を叫ぶのではない。生活の実感を込めて現状を厳しく批判する、それがイエスなのである。

 そして、キリスト教側がこれをどう歪曲して「付け加え」をやって、無害な宗教に変えてしまう(ユダヤ教支配と同じような方向に戻っていく)かも、田川は記述する。

この場合、ルカ〔ルカ福音書〕はまだイエスの発言を言葉としてはかなりそのまま伝えているが、マタイ〔マタイ福音書〕になると、「天にまします我らの父よ」となり、「御国を来たらせ給え」のあとに、それでは短すぎて不満だったのだろう、「御旨が天にて実現しているのと同様に、地上でも実現しますように」とつけ加えてしまう。(p.25-26)

 ここには田川の主張のエッセンスがだいたい顔を出している。

  それほど興味もないジャンルなのに、とにもかくにも400ページもの大部にも関わらず読み通せてしまった。文体やロジックは間違いなく面白い。読み物として優れているのである。

 

ぼくの中のキリスト教像が変わった

 ぼくが読んで一番興味深かった点は、実は本書の主張よりももっとずっと手前のところ。

 え、そんな初歩的なところ? と驚かないでほしい…。

 田川によれば、聖書学ではイエスが言った言葉はどれで、どの部分が後から加わったか、福音書を書いたマルコとかマタイが付け加えたのか、ということがまあだいたいわかるんだよ、ということだった。また、福音書を書いた人によって、当時の教団が主張していたことの何を強調しようとしたかもわかる。

 イエスの言ったことが断片的にまずある。

 次にマルコが20〜30年後にそれを福音書にする。またQ資料(現在は失われている)というイエス語録ができる。

 50年くらいしてから、Q資料からマタイ福音書とルカ福音書ができる。

 ルカ福音書は1人の著作者による月並みなイエス観。

 マタイ福音書ギリシア語を話すユダヤ人の教会の学派的作業。

 こういう潤色を逆に遡って剥いでいくと、最後に「客観的にイエスの発言を確定しうる」(p.29)。「ある程度以上に本格的に福音書研究にたずさわった学者たちの間では、どの伝承がイエス自身にさかのぼるかという点では、非常に多く一致している」(同)。

 ただ、言葉は残っても、それがどんなシチュエーションで発せられたかは、記録者の色が出ているので、解釈が違ってくる。

 こうして見た時に、田川は、イエスは「愛」などという言葉はほとんど使っておらず、マタイやルカがあとで付け加えたんだと言う。同じく「神の国」とか「原罪」とかいった、ぼくらがキリスト教の根本概念だと思っていることも福音書で付け加えられたものだとする。

 これが本当か嘘かはわからない。

 だけど、こうした田川の聖書学についての話を聞いていると、なんとなく「イエスのもともと言ったことを、20年後、50年後の人たちや教団が、ある種の意図をもって再解釈したり、教義体系に組み直したんだな」というイメージができてくる。

 ぼくはキリスト教というのは、聖書を中心に教義や解釈がはじめからわりとしっかりしていて、非常に細かいところを学派的に争っているのかと思っていたのだけど、田川のいうようなイメージでとらえると、イエスの活動と、その後の福音書を書いた人たちや初期の教団との間にはだいぶ溝があって、むしろ福音書や初期教団のプリズムによって、イエスの言動、あるいは「キリスト教」を見させられているんだなと感じた。

 仏教では、シャカがそもそもどんなことを言ったのか、何を考えたのかということは、『ブッダのことば』のような本で読むことはできる。しかし、もはや現代日本仏教徒である日本人が「新約聖書」のような形で手にすることはない。

 

ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)
 

 

 「大乗非仏」説のように、日本に伝わった仏教が相当大きな解釈の変更を受けたことに似ていると感じた。日本で最大の信者を誇る浄土真宗や浄土宗など浄土系の仏教は、“個人が真理に覚醒して精神をコントロールする”というもともとのシャカの教えの姿(一種の無神論である)からかけ離れて、「阿弥陀如来」という一種の神様にひたすら祈るという、キリスト教イスラム教に似た一神教の姿に変わり果ててしまった。

 キリスト教にそういうイメージはなかったのだが、田川の本を読むと同じような変容を遂げているのだという感想を持った。

 まあ、改めて考えてみると、『新約聖書』についてイエスの言行録+伝記とも言える「福音書」だけでついついぼくのようなシロートはイメージしてしまうんだけど、実際には手紙(書簡)類がいっぱい入っていて、例えば「コリント人への手紙」を読むと初期教団が分裂騒ぎを起こし、それに対してパウロが「お前らなあ…」とモノを言っている中身になっている。つまりイエスではなくパウロの思想に基づいて書かれていることになる。

 法然の有名な「一枚起請文」も、自分が死んだ後、教義をめぐる分裂が起きるんじゃないかという懸念をもって、「いやー、ひたすら念仏を唱えるっていうのが根本であって、それ以外になんか秘儀みたいなものはないよ」という法然の教え(浄土宗)のエッセンスを書いている。でもそれはシャカの教えとはもはや何の関係もない。それって、法然版の「コリント人への手紙」じゃないのか、と思う。

 

 そんなふうに、やっぱりキリスト教といえども、イエスの言動とは実はそれほど近い存在ではなく(田川はむしろ正反対だとさえ考えている)、のちの教団による解釈、その積み重ねで宗教ができているんだなと思い至ったことが、ぼくにとっての本書の収穫であった。

 

田川=イエス

 参加者の一人(Aさんとする)は、田川の解釈に否定的であった。宗教的立場から否定的なのではなく、文献解釈学としてイエスの言ったことやそれがどんなシチュエーションで言われたかは結局わからないのだから、田川の描くイエス像が正確かどうかもわからないではないかと言うのである。なぜそんな正しいかどうかもわからない、いわば田川の「主張」に付き合わなければならんのか、と。

 田舎の公民館で、市民向け歴史講座をやった時に、講師の大学教授の講義が終わった後に、やおらオーディエンスの一人である80歳くらいのおっちゃんが「質問です」と称して手をあげて、「結構な話をありがとうございました。しかし、私の考えるところではですな…」と言って無根拠な持論を展開する、アレに似ているのだと。

 Aさんは、「田川は根拠が乏しいくせに、イエスの言動と解釈について『これが正しいのだ』と語りまくる。こんな分厚い本になるほどに。どうしてよくわからないことをこんなにも断定的に、しかも他人の解釈にケチをつけ続けることができるのか。それは、きっと田川の解釈したイエス像が田川そのものだからだ。田川=逆説的反抗者=イエスなのだ。イエスの言葉を田川が書くとき『何言ってやがんでえ、安息日だからって、良いことをやるのにいちいちけちな文句をつけるんじゃねえ』(p.206)って絶対田川がこんなふうにしゃべるんだよ。まちがいないね。歴史のイエスのことはわからない。だけど、自分のことならよく知っている。だから田川はこんなにもおしゃべりにイエスを論じることができるのだよ」と力説していた。

 「田川=イエス」論は上出来だと他の参加者から笑われていた。

 

 次のリモート読書会はジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス 人はなぜ人種差別をするのか』(明石書店)だ。

 

無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか

無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか

 

 

生き残った

 コロナで始まった娘の中学校生活はなんとか1年目を終えようとしている。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 2学期の終わりに三者面談があり、行った。

 担任は「娘さんは遅刻が多いのでなんとかこれを直さないとですね」と言っていた。

 遅刻…?

 遅刻がどうだというのだろう。

 遅刻などいくらでもすればいいではないか。

 1学期に休みがちだった学校は遅刻してもいいから行けるなら行った方がいいとは思ったが、行けなくてもしょうがないと思っていた。実際に休んだし、遅刻もした。

 2学期に入って学校を休むのは月に1回くらいになったが遅刻はよくしていた。3学期に入って遅刻そのものもかなり減った。

 勉強については、1学期は宿題をためにためてしまい、泣きながらやっていた。

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 2学期になってぼちぼち自分でもやるようになって3学期になって親が「宿題をした方がいいのでは」と言うこと自体がなくなった。

 いや、そんなことよりも、死んだり壊れたりしなかったということが僥倖なのだ。

 昨年10月末にこういうニュースがあった(西日本新聞2020年10月30日付)。

コロナ禍で不安や悩みを抱える児童生徒に寄り添おうと福岡市教育委員会は29日、全ての市立小中高217校に対し、先生やスクールカウンセラーが児童生徒全員と面談することを求める緊急の通知を始めた。新型コロナウイルスによる一斉休校が明けた夏ごろから市内で自ら命を絶つ子どもが確認されるようになったことなどが背景にある。

  実際、子どもの自殺は多かった(2月5日NHK首都圏ニュース)。

去年1年間に自殺した小中学生と高校生はあわせて479人と、前の年の1.4倍に増加し、これまでの国の調査において、過去最多となったことがわかりました。

 娘はよく死ななかったな、と思う。

 あるいはもう学校には行かなくなるのでは、となんども思った。もちろん行かなくなったら行かなくなったで、やりようはいくらでもあるとは思うが、今のぼくとしては行かないよりは行った方がいいという気持ちでいる。

 とにかく死ななかった、というのは何よりであった。

 ある種のサバイバーではないかとさえ思う。

 

 娘の話によく出てくるのは1学期の終わりから始まった部活やそこでの友人関係・先輩後輩関係のことだった。非常に明るい話題、憧れや希望の話として登場する。現在でもそうである。彼女にいい作用を与えたのは、部活動だろうと思った。

 これに対して、授業は相当なストレスだったらしく、disるトーンで2学期の後半までよく話題に出た。一部の生徒が授業を壊すような発言をするらしくなぜかそれが娘のストレスになっていたようだが、2学期の終盤から3学期になって彼女の話題から消えた。

 家では長い時間、PCに向かっている。居間にPCが置かれていて親が後ろからのぞけるので(あまりじっと見ていると怒る)、何をしているのかなんとなくわかるが、にじさんじ、ホロライブ、シャニマス、クリスタ、Twitterが中心を占め、友達とPC上でラインのやり取りをしている。本当に長い時間なので呆れてしまうのだが、心の均衡を保つ上ではしょうがないのかなと思ってあまりうるさく言っていない(つれあいは時々制限をかけて宿題をやらせていた)。

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 はじめに戻る。

 遅刻が多いですね、と担任は言ったけれど、本当にどうでもいいことだ。

 緊急事態宣言明けで怒涛のごとく押し寄せる不条理な校則だらけの新生活と過酷な詰め込みカリキュラム、山のような宿題、猛スピードの授業、順位づけ、知らない友達とクラス…そういうものに耐えて、生き残ったことがまず幸いで、そんなところから力強く改善を前進させていることがもう奇跡だ。

 担任は目の前の課題に追われているからしょうがないんだろう。

 遅刻が多いですね、という担任の苦情めいた課題の通告に対しぼくが「いやーご迷惑をおかけして」と応じず黙って聞いて、最後に上記のような「前進を評価」したので、三者面談の「定型」を明らかに踏み外していた。同席していた娘でさえも「お父さん、笑いもしないし、言葉が少ないからちょっとおかしいよ」と異様さを感じていた。我々の前の組の親子が和気藹々とやっていたから、確かにトーンが「おかしかった」のだろう。

 そもそも、小学校時代とは違う、桁外れの管理や競争の波が子どもには中学校になって押し寄せてくる。その上コロナという悪条件が重なった。これはもう全く、子どものせいではないし、親のせいでもない。担任のせいでもない。

 結局、そういう「大きなもの」に翻弄されているのは、当の子どもなのであって、それが「遅刻」という現象となって浮かび上がっているだけだ。「大きなもの」を問わずに、「遅刻」という「個人の課題」にフォーカスすることは間違ってさえいる。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 カリキュラムそのものをこんな過剰に詰め込むことを見直してはどうか、と担任に言ったが、「それはまあここでは…」と避けられた。権限がない以上、担任がそういうのは仕方がないし、実際にそのあと校長といくつかの問題で話す機会をもらったので、そちらでいうことにした。

 そのあと校長と話したが、カリキュラムを見直すということの難しさばかりが強調されて、何か手立てを取るというわけでもなかった。一人の保護者が何かを1回言っただけでは変わらないのは仕方がない。あきらめずに言い続け、運動として提起し続けることの方が大事なのだろう。

 そこでは本当に「大きなこと」は問われない。

 先ほど述べたように、教育委員会は最も大きなストレス源としての管理と競争は見直さずに、死にそうな個体の管理=カウンセラーなどによる面談でこの危機を乗り切ろうとする。やらない自治体もある中で、それをやること自体は大いに評価されていい。しかし、大元に手をつけないでの対処療法に見えて仕方がない。

 

 担任には、宿題への返信について注文をつけた。

 「『書き取りでもテストの直しでもいいので必ず何か毎日1ページ書く』という宿題に対して、『余白を埋めましょう』という指示はあんまりだ。勉強したくなるような誘いかけや言葉が必要ではないか」と述べたが、あまり返答はなく、はあそうですか、という顔をしていた。学ぶ喜び、楽しさというものはどこかに消えて、量をこなさせるということが、マンモス中学校教師の習い性、体質として染み付いてしまっているのかと失望した。

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 校則についても一言述べた。

 「なぜ制服は男女差をなくしたのに、髪型は相変わらず男子と女子違うものを強要するんですか?」「特に、なぜ女子は髪を耳の下で結ぶよう指示されるのですか?」。

 それに対して、「ほら、体育で帽子をかぶるからです」としたり顔で解説された日には、まいった。

 本気か。

 それなら体育の時だけ結び方を変えればいいし、そんなことは本人が判断すればいいだけのことではないか。髪型を規制するのではなく帽子を体育でかぶる合理的理由を説明して納得してもらうべきだ。いや何よりも、本当は“ポニーテールでうなじを見せるのは性的にけしからん”という真の動機があるくせに、そんな馬鹿げた理由を正面から説く勇気もなく、別の理由で保護者を騙して、生徒には問答無用で押し付けている、そのアイヒマンぶりこそ糾弾されるべきだろう。

 

 つれあいは、娘が持ってきた、学年全体のテストの得点分布を見て、美しい正規分布ではなく、低得点の方にダラダラと長い尾ができていることに注目していた。「あんまり正確には言えないけど、授業についていけてない子がたくさん出てるんじゃないかなあ…」。

 もしそうだとすれば、外見的には「1年間何とか無事に終わった」ように見えるけども、実際には自殺者をはじめたくさんの矛盾が噴き出しているはずで、それをあたかもなかったかのようにして1年が閉じられ、次の年に行こうとしている。

 

 パンデミック1年目。学校はうまくいっているのか、根本的に見直されるべきなのか。

 どうも文科省は2020年春の臨時休校のような、あんな長い休みはもうこりごりだという感覚でいるようで、今回の1月の緊急事態宣言でも学校は休みにしなかった。また、過密を避けるために、どうにかこうにか少人数学級は始まった。

 だけどもそれだけではなく、学校をこんな形で進めていいかどうかは、もっと根本にまでさかのぼって考えなければならない。特に、カリキュラムの詰め込みの見直し、校則の改廃、少人数学級の前倒しは、緊急だろう。

www.nishinippon.co.jp

ただっち『夫がいても誰かを好きになっていいですか?』

 人格を分裂して評論するスタイルしかないと思った。

 28歳の専業主婦で結婚している主人公・今井ハルが夫(今井マコト)の転勤で関西暮らしを始めるがバイト先の本屋で働いているバイト仲間の大学院生(後藤アラタ)に惹かれていってしまう話である。一応フィクション。

 

 主婦が不倫するだけ?

主婦が不倫するっていうだけの話でしょ? なんでこのマンガがいいわけ?

そんなこと言ったら『罪と罰』だって「学生くずれが金貸しのババアを殺すだけの話でしょ? 何がいいわけ?」みたいな雑なまとめになるだろ…。これ、職場不倫なんだよな。職場って、仕事するところだから、そもそも性的な感情出せない。

デフォルトで「性的な感情出せる場所」って、この世にそうそうないぞ。

う…まあ、そうなんだよ。でも職場は特に厳しいコードがあると思う。「ここには仕事しに来てるんだから」と。

 

 職場で性的な感情を出す・出さない

 

どのへんがいいわけ?

やっぱ、職場恋愛なので自分と相手のやりとりを恋愛=性的なものと認めちゃうかどうかでせめぎ合っているところがたまらんです。

夜中に他愛のないラインのやりとりしてて、映画に誘おうかどうしようか迷うあたりな。

やり取りをしていて、意を決したように「変なこと言っていいですか?」って、映画誘う。映画誘うのは「変なこと」じゃないよね。

「命がけの飛躍」感ある。汗びっしょりだわな。

「映画に行くくらいなら大丈夫だよね……?」ってハルが自分に言い訳するんだけども、夫には言わないんだから「大丈夫」じゃねーだろ。

最初にハルは、文面的にはほぼ事務的な安否確認のラインを、なぜか夫に対して衝動的に隠してしまう。自分の中に後藤に対する性的な感情があることを薄々感じていたから、ハルは隠してますよね。そこが「初手」ですから、別にヤバいことをやり取りしてなくても「夫に隠れて夜中に異性とラインをする」というヤバい感じになってしまった。

「夫に隠れて夜中に異性とラインをする」っていうシチュ、字面だけ見ても相当ヤバいな。

客観的に見るとこの2人、もうデキてるでしょ? って思うんですが、それを探り合いするのは、桜井のりお『僕の心のヤバいやつ』をはじめ、学校を舞台にしたマンガ、それも男性目線でのマンガと同じで、グッと来ますね。

 

そうなんですが、それは「学校」だからね。「学校は勉強しに来るところだぞ!」なんていうのは昭和な教員くらいしかいないけど、さっきも言ったように職場には強烈な性的コードがあって、しかも最近はセクシャルハラスメントという基準がかかったので、相手を性的に見るということ自体を口にするのがタブーに近い状況ですよね。そういう中で「これは恋愛感情ではない」「これは性的な行動ではない」というのを自分の中でも言い訳して、相手にもアピールする必要が出てくる。

例えばどこ?

後藤の言動が結構そうですよね。ハルのことが心配なのに見に来たのに、“たまたまトイレに行くついでなんだ”って見せたり。ハルがセミを踏んだのを引き剥がすために手を取った後、つなぎぱなしにして指摘されると大慌てして謝罪してこれはセクハラですよねすいませんすいませんみたいに。

こっち(読者)はハルの心が丸見えだから、ああもうじれったいなと思いますよね。

そうですね。読者は後藤の心の中は見えないんですけど、第三者的な俯瞰をしつつ、ハルの心の中が見えるので、「どう考えてもこいつら惹かれあってるよね」とわかる。根底にその安心があるので、「じれったさ」を楽しめる。

 

現実での「勘違い」セクハラのコワさ

 だけど、現実社会でこれが「勘違い」だったら、本当にコワいですよね。

「勘違い」?

 つまり、例えば女性の方は単に誰にもで親切にしているのに、それを特定個人、つまり自分に向けた好意、性的な感情じゃねーのか、「脈アリ」だろと「勘違い」してしまうとコワい。アプローチが性的なニュアンスになっちゃうので、すぐセクハラ領域に入ってしまう。

確かに職場恋愛はそこが怖い。

金子雅臣『壊れる男たち——セクハラはなぜ繰り返されるのか』に出てくる事例なんですけど、そういう勘違いから出発して恋愛感情をこじらせていくと、別の状況で相手に冷たくされたり、素っ気なくされたりしても、「照れてるんだな」とか「まわりを気にしたんだ」とか、どんどん自分に都合よく解釈して…。

こわっ!

そういうアプローチはどのみち学校の生徒同士でもアカンわけですけど、とにかく職場ではこの性的な感情を表明する瞬間というのは相当タイミングを選ぶわけで、これがハルと後藤の関係では最後まで、それこそ関係を持ってしまう瞬間まで付きまとってますよね。

 

 

 

 

「きゅうううう…」がイイ!

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ただっち前掲、KADOKAWA、p.76

このハルが恋愛感情揺さぶられるときの「きゅうううう…」っていう表現、いいですよね。

「きゅうううう…」ね! 俺も好き! 無表情で!

無表情てww     あれ、感極まってるんでしょ。

変に笑ったり、記号的に喜んだりしてないところが「感極まり」感出てる。それが突き抜けて無表情になっているのがイイ。

アマゾンのカスタマーズレビューだとこの作品のこういう擬音的な表現をすっごく褒める人と、ウザい扱いする人ときっぱり分かれてて興味深い。

 

アマゾンレビューと本書の新しさ

アマゾンのカスタマーズレビューといえば、236個も評価がついてる。肯定評価しているのが基本多いけど、「どっちもクズ」「全員が最低」「不倫を旦那のせいにしているゴミ女」「クズだけがキュンとするクズ作品。関わると心が腐りますわ」みたいな徹底批判のも多いwwww

批判じゃねーよ、それ…。まあ不倫ものはしょうがないよね。憤るのもフィクションの楽しみ方の一つ。

って言いたいけど、そういう低評価つけてるやつは、「楽しんで」ないよね。「読む価値なし」とか「気になって買いましたがお金出すほどのものじゃなかった」とか。

不倫なんて本人たちはすっごい運命的な熱愛しているつもりでもハタから見ると超陳腐だから。

そんなこと賢しらに言ってみても、不倫かどうかに関わらず、恋愛自体がそうでしょ。恋愛ものが成り立たんわ。

うむ、まあ、やっぱりこのレビューのすさみようは、不倫もの独特のものではあるな。不倫する側の心情を描くとどうしても不倫の合理化という側面を持つから、どうしてもこういう反応は出てくるよね。しかし、一般的にそう言える「不倫もの」の中でも毀誉褒貶、特に「毀」や「貶」が目立つ作品ではあると思う。

さっきも言ったけど、この作品は、合理化の手続きに相当コストをかけている作品だと思うんだよね。そこを丁寧に描いているがゆえに、合理化に汲々としているように見えて、嫌がられる人に徹底的に嫌がられるんだろうと思う。

「合理化の手続き」?

つまり、職場にある性的コードを慎重に避けるってことに、登場人物が腐心している。夫との間で言い訳がつくように「これは同僚間のやり取り」みたいな「心の棚」に上げてしまう作業。

んー、例えば夫が自分をぞんざいに扱っている、性的に扱ってくれない、という不満を描くのは不倫(を合理化する)マンガではままあるよね。

そこは他の不倫マンガと同じだと思うけど、そこの点の合理化にとどまらずに、職場仲間と性的な感情を踏み越える・踏み越えないを、かなりていねいに描いたという印象がする。そこはこの作品が登場する新しさだと思う。