中野晃一「意思決定の場に女性をどう増やすか」

 「前衛」2021年4月号に掲載された特集「森喜朗氏の女性差別発言が示すものは何か」のうち、中野晃一「意思決定の場に女性をどう増やすか」に興味をひかれた。

前衛 2021年 04 月号 [雑誌]

前衛 2021年 04 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2021/03/08
  • メディア: 雑誌
 

  特集名で大体どういう話題かはお分かりになると思うが、中野は、「みんなの職場には“森”はまだいる」というミクロな男性権力の話にせずに、

どこにでもよくある問題という形にしてしまう前に、あの問題はあの問題として重要な意味があるということをとらえておく必要があると思っています。(p.43、強調は引用者、以下同じ)

としている。ただ、「あの問題として」というのは非常に狭く「オリンピックやアスリートの分野で」というほどに限定してしまうのではなく、「意思決定の場に女性がいないという問題」(中野)としてとらえよ、という提起である。

 

 中野はわざわざこの問題を、

社会の問題以前に政治問題として認識しなければいけないと思います。(同前)

と書いている。

 中野の言う「政治問題」というのは、どういうことだろうか。

 中野は次のように書いている。

男性のボスがいて、いつまでたってもその人に忖度し、追随する。そのボスは、男たちをはべらせて、居続けるということが続いていて、いつまでも公職をわがものとして続ける。ある意味でわかりやすい日本版家父長制の権力の使い方が露わになった政治問題だと思っています。(p.43-44)

 もう少し詳しくこの問題を中野は言い換えている。

彼らは、わきまえる人たち——まつろう人たち、つまり、既存の権力秩序に服する人たちだけを相手にし、それが政治、それをもって統治することだと思っているのです。異分子を排除し、黙らせるということを、「以って和となす」と思っている。内輪の和を乱したことに対して腹を立て、その収拾をつけなければいけないと思っているだけで、発言の内容が何が問題だったかについては、わからないままで、わかるわけがないと思います。(p.44)

 これを中野が「政治問題」だとするのは、まずもって政治の分野でこのような状況がまかり通っているという意味であろう。

 しかし、中野は「社会の問題以前に政治問題として認識しなければいけない」といいながら、問題を政治分野だけでなく、社会全体に敷衍する。

…政権与党も、五輪の組織委員会JOCも、あるいは多くの会社や組織においても、実際には、多様に開くことに逆行する現実があります。政治や社会のいろいろな意思決定の場で、男性しかも中高年の男性だけでものごとを決めていくことを、変えていかなければならないということに、市民社会の側でも認識を新たにしていく必要があると思います。(p.45)

  その上で、

どんな組織体であっても、——場合によっては社会運動などにおいても——、一定程度ピラミッド型になっています。(同前)

としている。

 うむ。

 これはなかなか意味深長な発言の構造ではないのか。

 中野の発言はある意味でわかりにくい。

 いいですか、これは社会問題という以前に政治の問題なのですよ、と「政治」にまず問題を向かわせる。オリンピックという「社会」の問題であるにもかかわらず。そして再びその問題を政治と社会両方に振り向け、市民社会や社会運動の側にも注意を促している。

 中野は、市民団体や共産党にもそういう問題がないですか? と警告しているのではなかろうか。

 共産党は別にそう警告されたからといって、キレる必要はない。(キレないからこうして中野のインタビューを自分の機関誌に載せているのだろう。)なぜなら共産党はわざわざジェンダー平等の問題で「自己改革」を大会決定として提起しているからである。

 もちろん、共産党だけではない。中野は、女性を意思決定の場に増やしていることについては「共産党がどの政党より頑張っている」(p.46)と高く評価している。

 

 中野の提起は、よく見るとジェンダーという領域を超えている。

 異分子を意思決定の場から排除するな、というさらに広い提起だからである。

 

 ただし「市民団体や共産党だって異分子を排除しているんだろう」というこれまで言われてきたような、どちらかといえば左翼叩きを自己目的にして本気で多様性を追求しない議論とは違う。

 民主主義というシステムは、社会の構成が多数であれば自動的にその構成が反映されて参加が進むという建前があった。中野も、団体や会社では、選挙や実績で、意思決定の場に参加する代表を決めるので「公平だ」とする建前があることを認めている(p.45)。

 しかし、どうもそうはなっていないというわけである。

 女性が半数世の中にいても意思決定の場には入り込めない。

 若者が、困窮者が、あるいはメインストリームに反対の人たちが。

 そうした人たちが自動的に入り込めないのは、意思がないからではなく、入り込むために何らかの障壁があるからだろうと考えるのである。

 中野は次のように言う。

入り口のところで参入障壁がないのかを注意深く見つめ、議論し続けて、より平等に参加できる機会をつくっていく。そのうえで。次はより責任のあるポスト、あるいは役職についてもらう。そういうときに、何が障壁になっているかをきちんと調べて変えていくことも重要です。(p.46)

そういったことを経ていかないと、最終的に持続できるような状態で意思決定の場に女性がいないという問題を根本的に解決することはできません。お飾り的に女性をどこかから連れてくることによってごまかしをするという、実際に意思決定を牛耳っている人たちからすれば何も怖くないことがおこなわれてしまいます。(p.46)

 これを例えばアファーマティブ・アクション、「ゲタをはかせる」という制度で解決することもあるだろうが、それは一つの選択肢に過ぎない。そのやり方は良い点も悪い点もある。

 他の方法もいくらでもあるわけだ。

 例えば、PTAで「任意参加であることを会員に周知しよう」という人はPTA会員(親と教職員)にその意見を主張する場は年に1回の総会しかなく、そこに会員はほとんど参加せず(委任状の山)、発言時間も数分しかない。そのような異分子の意見が通ることもないし、役員になる機会(当選する可能性)も事実上ない。

 そうした時に、例えば多様な意見を、普段から見聞きできる場所を保障することで、この問題をクリアすることもできる。

 よく言われるように、長時間残業ができることが会社にとっては幹部の資質として考えられるのであれば、長時間残業という現実を変えるか、短時間で現場で働いている人を幹部として多数入れる制度をつくるか、様々な方法がある。

 いずれにせよ、「参入障壁がないのかを注意深く見つめ」それを取り除くようにしないと、それは「意思決定の場に女性や多様な存在を入れる」という改革にならない…こう中野は言いたいのである。

 

 現実の多様性を反映するよう、障壁を人為的に取り除き、公正な競争ができるシステムに改造せよというのである。経済において独占を排除するようなものだ。言論や表現ではこうした過保護は危ういが、そうではなく現実の格差を是正して公正な競争を確保する改革については、原則的にぼくは賛成である。