生き残った

 コロナで始まった娘の中学校生活はなんとか1年目を終えようとしている。

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 2学期の終わりに三者面談があり、行った。

 担任は「娘さんは遅刻が多いのでなんとかこれを直さないとですね」と言っていた。

 遅刻…?

 遅刻がどうだというのだろう。

 遅刻などいくらでもすればいいではないか。

 1学期に休みがちだった学校は遅刻してもいいから行けるなら行った方がいいとは思ったが、行けなくてもしょうがないと思っていた。実際に休んだし、遅刻もした。

 2学期に入って学校を休むのは月に1回くらいになったが遅刻はよくしていた。3学期に入って遅刻そのものもかなり減った。

 勉強については、1学期は宿題をためにためてしまい、泣きながらやっていた。

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 2学期になってぼちぼち自分でもやるようになって3学期になって親が「宿題をした方がいいのでは」と言うこと自体がなくなった。

 いや、そんなことよりも、死んだり壊れたりしなかったということが僥倖なのだ。

 昨年10月末にこういうニュースがあった(西日本新聞2020年10月30日付)。

コロナ禍で不安や悩みを抱える児童生徒に寄り添おうと福岡市教育委員会は29日、全ての市立小中高217校に対し、先生やスクールカウンセラーが児童生徒全員と面談することを求める緊急の通知を始めた。新型コロナウイルスによる一斉休校が明けた夏ごろから市内で自ら命を絶つ子どもが確認されるようになったことなどが背景にある。

  実際、子どもの自殺は多かった(2月5日NHK首都圏ニュース)。

去年1年間に自殺した小中学生と高校生はあわせて479人と、前の年の1.4倍に増加し、これまでの国の調査において、過去最多となったことがわかりました。

 娘はよく死ななかったな、と思う。

 あるいはもう学校には行かなくなるのでは、となんども思った。もちろん行かなくなったら行かなくなったで、やりようはいくらでもあるとは思うが、今のぼくとしては行かないよりは行った方がいいという気持ちでいる。

 とにかく死ななかった、というのは何よりであった。

 ある種のサバイバーではないかとさえ思う。

 

 娘の話によく出てくるのは1学期の終わりから始まった部活やそこでの友人関係・先輩後輩関係のことだった。非常に明るい話題、憧れや希望の話として登場する。現在でもそうである。彼女にいい作用を与えたのは、部活動だろうと思った。

 これに対して、授業は相当なストレスだったらしく、disるトーンで2学期の後半までよく話題に出た。一部の生徒が授業を壊すような発言をするらしくなぜかそれが娘のストレスになっていたようだが、2学期の終盤から3学期になって彼女の話題から消えた。

 家では長い時間、PCに向かっている。居間にPCが置かれていて親が後ろからのぞけるので(あまりじっと見ていると怒る)、何をしているのかなんとなくわかるが、にじさんじ、ホロライブ、シャニマス、クリスタ、Twitterが中心を占め、友達とPC上でラインのやり取りをしている。本当に長い時間なので呆れてしまうのだが、心の均衡を保つ上ではしょうがないのかなと思ってあまりうるさく言っていない(つれあいは時々制限をかけて宿題をやらせていた)。

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 はじめに戻る。

 遅刻が多いですね、と担任は言ったけれど、本当にどうでもいいことだ。

 緊急事態宣言明けで怒涛のごとく押し寄せる不条理な校則だらけの新生活と過酷な詰め込みカリキュラム、山のような宿題、猛スピードの授業、順位づけ、知らない友達とクラス…そういうものに耐えて、生き残ったことがまず幸いで、そんなところから力強く改善を前進させていることがもう奇跡だ。

 担任は目の前の課題に追われているからしょうがないんだろう。

 遅刻が多いですね、という担任の苦情めいた課題の通告に対しぼくが「いやーご迷惑をおかけして」と応じず黙って聞いて、最後に上記のような「前進を評価」したので、三者面談の「定型」を明らかに踏み外していた。同席していた娘でさえも「お父さん、笑いもしないし、言葉が少ないからちょっとおかしいよ」と異様さを感じていた。我々の前の組の親子が和気藹々とやっていたから、確かにトーンが「おかしかった」のだろう。

 そもそも、小学校時代とは違う、桁外れの管理や競争の波が子どもには中学校になって押し寄せてくる。その上コロナという悪条件が重なった。これはもう全く、子どものせいではないし、親のせいでもない。担任のせいでもない。

 結局、そういう「大きなもの」に翻弄されているのは、当の子どもなのであって、それが「遅刻」という現象となって浮かび上がっているだけだ。「大きなもの」を問わずに、「遅刻」という「個人の課題」にフォーカスすることは間違ってさえいる。

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 カリキュラムそのものをこんな過剰に詰め込むことを見直してはどうか、と担任に言ったが、「それはまあここでは…」と避けられた。権限がない以上、担任がそういうのは仕方がないし、実際にそのあと校長といくつかの問題で話す機会をもらったので、そちらでいうことにした。

 そのあと校長と話したが、カリキュラムを見直すということの難しさばかりが強調されて、何か手立てを取るというわけでもなかった。一人の保護者が何かを1回言っただけでは変わらないのは仕方がない。あきらめずに言い続け、運動として提起し続けることの方が大事なのだろう。

 そこでは本当に「大きなこと」は問われない。

 先ほど述べたように、教育委員会は最も大きなストレス源としての管理と競争は見直さずに、死にそうな個体の管理=カウンセラーなどによる面談でこの危機を乗り切ろうとする。やらない自治体もある中で、それをやること自体は大いに評価されていい。しかし、大元に手をつけないでの対処療法に見えて仕方がない。

 

 担任には、宿題への返信について注文をつけた。

 「『書き取りでもテストの直しでもいいので必ず何か毎日1ページ書く』という宿題に対して、『余白を埋めましょう』という指示はあんまりだ。勉強したくなるような誘いかけや言葉が必要ではないか」と述べたが、あまり返答はなく、はあそうですか、という顔をしていた。学ぶ喜び、楽しさというものはどこかに消えて、量をこなさせるということが、マンモス中学校教師の習い性、体質として染み付いてしまっているのかと失望した。

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 校則についても一言述べた。

 「なぜ制服は男女差をなくしたのに、髪型は相変わらず男子と女子違うものを強要するんですか?」「特に、なぜ女子は髪を耳の下で結ぶよう指示されるのですか?」。

 それに対して、「ほら、体育で帽子をかぶるからです」としたり顔で解説された日には、まいった。

 本気か。

 それなら体育の時だけ結び方を変えればいいし、そんなことは本人が判断すればいいだけのことではないか。髪型を規制するのではなく帽子を体育でかぶる合理的理由を説明して納得してもらうべきだ。いや何よりも、本当は“ポニーテールでうなじを見せるのは性的にけしからん”という真の動機があるくせに、そんな馬鹿げた理由を正面から説く勇気もなく、別の理由で保護者を騙して、生徒には問答無用で押し付けている、そのアイヒマンぶりこそ糾弾されるべきだろう。

 

 つれあいは、娘が持ってきた、学年全体のテストの得点分布を見て、美しい正規分布ではなく、低得点の方にダラダラと長い尾ができていることに注目していた。「あんまり正確には言えないけど、授業についていけてない子がたくさん出てるんじゃないかなあ…」。

 もしそうだとすれば、外見的には「1年間何とか無事に終わった」ように見えるけども、実際には自殺者をはじめたくさんの矛盾が噴き出しているはずで、それをあたかもなかったかのようにして1年が閉じられ、次の年に行こうとしている。

 

 パンデミック1年目。学校はうまくいっているのか、根本的に見直されるべきなのか。

 どうも文科省は2020年春の臨時休校のような、あんな長い休みはもうこりごりだという感覚でいるようで、今回の1月の緊急事態宣言でも学校は休みにしなかった。また、過密を避けるために、どうにかこうにか少人数学級は始まった。

 だけどもそれだけではなく、学校をこんな形で進めていいかどうかは、もっと根本にまでさかのぼって考えなければならない。特に、カリキュラムの詰め込みの見直し、校則の改廃、少人数学級の前倒しは、緊急だろう。

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