田川建三『イエスという男』

 リモート読書会では田川建三『イエスという男』を読んだ。

 

イエスという男 第二版 増補改訂

イエスという男 第二版 増補改訂

  • 作者:田川 建三
  • 発売日: 2004/06/10
  • メディア: 単行本
 

 

 もちろんなんでもハイハイと言う「イエスマン」のことではなく(笑)、キリスト教の始祖とされているイエスのことである。

 どういう本か。

 イエスを神の子でありまた宗教家であるとするイメージを一方の極とすれば、他方でイエスをローマ支配と闘った社会革命家とするイメージの極があり、この両極のイメージを排して、イエス像を打ち立てようとしている。

 当時イエスが活動したパレスチナユダヤ教が支配している土地であり、政治・経済・宗教が一体となっていた。「イエスの活動はやはりユダヤ教批判を本質としていた」(p.167)とある通り、イエスは当時のユダヤ教を批判するのだが、それは、宗教が生活のこまごましたところまで支配をしていたからである。イエスはその支配に反対して、叫びをあげる。

 しかし、その支配への反対(反逆)は、宗教だけでなく、政治や経済へのおかしさへの反逆となってくる。このために、宗教批判を中心としながらも、社会経済構造への反逆ともなって現れてくる。

 他方で、支配への反対は、その支配にかわる、首尾一貫した新たな宗教や政治経済の体系を提示するわけではなかった。あくまでもイエスの反対は鋭い斬り込みをするものだが、あくまでも反対にとどまるものだった。いわば「逆説的反逆者」だったのである。

 

 イエスの言動から新たな宗教を組み立てようとした原始キリスト教団は、イエスの宗教支配への批判を、「ユダヤ教批判」へと読み替え、ユダヤ教を批判して新たな普遍的宗教を作り出したのがイエスだとする。こうしてイエスは「キリスト教の先駆者」であるという扱いを、キリスト教内部で受けていく。

 そして、イエスが行なった社会経済構造への批判は骨抜きにされて、宗教的な説話として読み替えられてしまう。

 

 田川建三は、こうしたキリスト教側のイエスの歪曲に逆らって、「イエスキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である」(p.11)という規定を行う。「歴史の先駆」とは、宗教・社会経済などが一体となった抑圧体制への批判者だったという意味であろう。

 しかし、イエスが社会革命家であったという議論にも田川建三は与しない。

 イエスをローマ支配に反対した社会革命家と描くのは、無理がありすぎるというのである。

 

 イエスキリスト教の宗教家とみなす考えも、社会革命家として描く考えも、どちらもイエスを無矛盾の、論理一貫した、体系的考えの持ち主として前提しすぎていると田川は批判する。1世紀の思想が、あるいは人間の思想がそもそもそんな無矛盾の、論理一貫した、体系的なものであるはずがなく、後からこじつけるのはやめろ、といいたのだ。

 

 ラストの章は、「ふーん宗教批判したのがイエスだと言いたいわけ? じゃあ、イエスには宗教的要素、宗教的熱狂は全くなかったの?」という問題、田川自身の立論(イエスは宗教家ではない)が招く矛盾の検討にあてられている。

 

 ぼくは田川のイエス解釈が妥当かどうか、何の素養もないので判断はできなかった。

 だけど、面白くはあった。

 例えば冒頭に、「祈り」について書かれている。

 当時のユダヤ教が支配していた社会では専門の宗教学者たちがいて、そいつらはお金もある、労働もしない暇人なので、生活の実態を無視してやたらに長い祈りの文句を考え出して、宗教儀式=法だと言って押しつけてくる。それに対してイエスは、「だいたい祈りは神との対話なんだろ? 他人に見せびらかすもんじゃないよ。そもそもお前らの押し付ける祈りは長すぎるぜ」と言って

「父さん、お名前が聖められますように。あなたの国が来ますように」

でいいじゃん、ってことでたった二つに縮められてしまった。さらに、「我々の毎日のパンを今日も与えてほしい」って付け加えるといいよ、としたのである。

聞いている者たちは唖然としたに違いない。聖なる神を讃美する祈りを、俗語もまじえて、ぎりぎり最小限まで縮めてしまったあげく、こともあろうに、「今日食うパンをほしい」などと付け加えたのだから。(p.24-25)

しかし、何を祈るといって、当時の民衆にとって、ローマ帝国の間接支配、ヘロデ王家の支配、宗教的貴族層の収奪と、二重三重の収奪に喘ぐ民衆にとって、そして周期的に必ず押し寄せてくる飢饉によって生命も危険にさらされる民衆にとって、無事にその日その日のパンがほしいというのは切実な気持ちだっただろう。(p.25) 

 イエスの場合、「祈り」というものが設定されるユダヤ教社会全体の様相に対して、またそこでなされている実際の祈りに対して、皮肉に、批判的に、言葉をなげつけていっている。それは皮肉な批判でありがなら、同時に、生活する者の叫び声でもある。(p.25、強調は引用者)

 逆説的反抗者であり歴史の先駆者であるというのはこういう意味だ。ユダヤ教の批判者であるが、社会革命を叫ぶのではない。生活の実感を込めて現状を厳しく批判する、それがイエスなのである。

 そして、キリスト教側がこれをどう歪曲して「付け加え」をやって、無害な宗教に変えてしまう(ユダヤ教支配と同じような方向に戻っていく)かも、田川は記述する。

この場合、ルカ〔ルカ福音書〕はまだイエスの発言を言葉としてはかなりそのまま伝えているが、マタイ〔マタイ福音書〕になると、「天にまします我らの父よ」となり、「御国を来たらせ給え」のあとに、それでは短すぎて不満だったのだろう、「御旨が天にて実現しているのと同様に、地上でも実現しますように」とつけ加えてしまう。(p.25-26)

 ここには田川の主張のエッセンスがだいたい顔を出している。

  それほど興味もないジャンルなのに、とにもかくにも400ページもの大部にも関わらず読み通せてしまった。文体やロジックは間違いなく面白い。読み物として優れているのである。

 

ぼくの中のキリスト教像が変わった

 ぼくが読んで一番興味深かった点は、実は本書の主張よりももっとずっと手前のところ。

 え、そんな初歩的なところ? と驚かないでほしい…。

 田川によれば、聖書学ではイエスが言った言葉はどれで、どの部分が後から加わったか、福音書を書いたマルコとかマタイが付け加えたのか、ということがまあだいたいわかるんだよ、ということだった。また、福音書を書いた人によって、当時の教団が主張していたことの何を強調しようとしたかもわかる。

 イエスの言ったことが断片的にまずある。

 次にマルコが20〜30年後にそれを福音書にする。またQ資料(現在は失われている)というイエス語録ができる。

 50年くらいしてから、Q資料からマタイ福音書とルカ福音書ができる。

 ルカ福音書は1人の著作者による月並みなイエス観。

 マタイ福音書ギリシア語を話すユダヤ人の教会の学派的作業。

 こういう潤色を逆に遡って剥いでいくと、最後に「客観的にイエスの発言を確定しうる」(p.29)。「ある程度以上に本格的に福音書研究にたずさわった学者たちの間では、どの伝承がイエス自身にさかのぼるかという点では、非常に多く一致している」(同)。

 ただ、言葉は残っても、それがどんなシチュエーションで発せられたかは、記録者の色が出ているので、解釈が違ってくる。

 こうして見た時に、田川は、イエスは「愛」などという言葉はほとんど使っておらず、マタイやルカがあとで付け加えたんだと言う。同じく「神の国」とか「原罪」とかいった、ぼくらがキリスト教の根本概念だと思っていることも福音書で付け加えられたものだとする。

 これが本当か嘘かはわからない。

 だけど、こうした田川の聖書学についての話を聞いていると、なんとなく「イエスのもともと言ったことを、20年後、50年後の人たちや教団が、ある種の意図をもって再解釈したり、教義体系に組み直したんだな」というイメージができてくる。

 ぼくはキリスト教というのは、聖書を中心に教義や解釈がはじめからわりとしっかりしていて、非常に細かいところを学派的に争っているのかと思っていたのだけど、田川のいうようなイメージでとらえると、イエスの活動と、その後の福音書を書いた人たちや初期の教団との間にはだいぶ溝があって、むしろ福音書や初期教団のプリズムによって、イエスの言動、あるいは「キリスト教」を見させられているんだなと感じた。

 仏教では、シャカがそもそもどんなことを言ったのか、何を考えたのかということは、『ブッダのことば』のような本で読むことはできる。しかし、もはや現代日本仏教徒である日本人が「新約聖書」のような形で手にすることはない。

 

ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫)
 

 

 「大乗非仏」説のように、日本に伝わった仏教が相当大きな解釈の変更を受けたことに似ていると感じた。日本で最大の信者を誇る浄土真宗や浄土宗など浄土系の仏教は、“個人が真理に覚醒して精神をコントロールする”というもともとのシャカの教えの姿(一種の無神論である)からかけ離れて、「阿弥陀如来」という一種の神様にひたすら祈るという、キリスト教イスラム教に似た一神教の姿に変わり果ててしまった。

 キリスト教にそういうイメージはなかったのだが、田川の本を読むと同じような変容を遂げているのだという感想を持った。

 まあ、改めて考えてみると、『新約聖書』についてイエスの言行録+伝記とも言える「福音書」だけでついついぼくのようなシロートはイメージしてしまうんだけど、実際には手紙(書簡)類がいっぱい入っていて、例えば「コリント人への手紙」を読むと初期教団が分裂騒ぎを起こし、それに対してパウロが「お前らなあ…」とモノを言っている中身になっている。つまりイエスではなくパウロの思想に基づいて書かれていることになる。

 法然の有名な「一枚起請文」も、自分が死んだ後、教義をめぐる分裂が起きるんじゃないかという懸念をもって、「いやー、ひたすら念仏を唱えるっていうのが根本であって、それ以外になんか秘儀みたいなものはないよ」という法然の教え(浄土宗)のエッセンスを書いている。でもそれはシャカの教えとはもはや何の関係もない。それって、法然版の「コリント人への手紙」じゃないのか、と思う。

 

 そんなふうに、やっぱりキリスト教といえども、イエスの言動とは実はそれほど近い存在ではなく(田川はむしろ正反対だとさえ考えている)、のちの教団による解釈、その積み重ねで宗教ができているんだなと思い至ったことが、ぼくにとっての本書の収穫であった。

 

田川=イエス

 参加者の一人(Aさんとする)は、田川の解釈に否定的であった。宗教的立場から否定的なのではなく、文献解釈学としてイエスの言ったことやそれがどんなシチュエーションで言われたかは結局わからないのだから、田川の描くイエス像が正確かどうかもわからないではないかと言うのである。なぜそんな正しいかどうかもわからない、いわば田川の「主張」に付き合わなければならんのか、と。

 田舎の公民館で、市民向け歴史講座をやった時に、講師の大学教授の講義が終わった後に、やおらオーディエンスの一人である80歳くらいのおっちゃんが「質問です」と称して手をあげて、「結構な話をありがとうございました。しかし、私の考えるところではですな…」と言って無根拠な持論を展開する、アレに似ているのだと。

 Aさんは、「田川は根拠が乏しいくせに、イエスの言動と解釈について『これが正しいのだ』と語りまくる。こんな分厚い本になるほどに。どうしてよくわからないことをこんなにも断定的に、しかも他人の解釈にケチをつけ続けることができるのか。それは、きっと田川の解釈したイエス像が田川そのものだからだ。田川=逆説的反抗者=イエスなのだ。イエスの言葉を田川が書くとき『何言ってやがんでえ、安息日だからって、良いことをやるのにいちいちけちな文句をつけるんじゃねえ』(p.206)って絶対田川がこんなふうにしゃべるんだよ。まちがいないね。歴史のイエスのことはわからない。だけど、自分のことならよく知っている。だから田川はこんなにもおしゃべりにイエスを論じることができるのだよ」と力説していた。

 「田川=イエス」論は上出来だと他の参加者から笑われていた。

 

 次のリモート読書会はジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス 人はなぜ人種差別をするのか』(明石書店)だ。

 

無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか

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