高山理図・高野聖『異世界薬局』

 「現代の知識で過去にすごい活躍をする」という設定はゾクゾクする。

 自分の原体験は小学校の登下校中に友だちと『ドラえもん』の「ホラふきご先祖」で笑い合ったからに違いない。

 この設定を作品としてちゃんと読んだ最初は、横山光輝『時の行者』である。

  その次は、村上もとか『JIN』であろうか。

 

JIN―仁― 全13巻セット (集英社文庫(コミック版))
 

 

 医療というのは、過去を見ると本当にどうしようもない技術だったのだとしか思えない。もし昔に転生するようなことがあったら、絶対にかからないだろう。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 そこに現代の医師、それも最先端の知見をもって活躍する医学者が「転生」したら、これはもうスカッとしてしまうこと、請け合いですわ。それが『異世界薬局』なのである。

 

異世界薬局(1) (MFC)

異世界薬局(1) (MFC)

 

 

 新進気鋭の薬学者である薬谷完治は過労死し、ヨーロッパ中世ごろの技術設定である世界、しかし地球ではないどこかの異世界の子どもに「転生」してしまうという設定である。子どもではあるが、物質を作り出す「神術」を操れることになっている。

 この作品は2017年からスタートしているが、知らなかった。

 知らなかったのに今知ったのは、ネット広告を見たからである。

 ネット広告で読まされたのは、瀉血で体調を崩して、しかも感染症を起こしているという見立てを主人公が行うシーンである。

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高山理図・高野聖異世界薬局』2、KADOKAWA。kindle117/170

 主人公の断定口調がカッコイイのと、「あれ、ちょっとエロいのかな…」的な意味不明の誤解をして思わず興味を持ってしまったのである。

 しかも、主人公は、この近代医学の知識をもとにしてそれを貴族階級の独占物とせずに平民階級にも広げようと、市井に薬局を開くという話なのだから、コミュニスト的にはもうたまんない設定なわけである。「白粉」の中毒の話は、『JIN』にも出てきてもう手垢がついているのであえて出さなくてもいいとは思ったが、これを王に進言して政策にしてしまうあたりは新しい展開なのでまあ良しとしようではないか。

 だけど、近代的な視点から見た過去の医学・慣習のおぞましさというのは無数にあると思うので、ネタには困らないはずである。そこをいろいろ見せて欲しい。

 

 

 これは個人的な好みであるが、宮廷ドラマとなる『薬屋のひとりごと』よりはのめりこめる。

 

 

 

 

藤野裕子『民衆暴力』

 この本の趣旨は別のところにあるのだろうが、何と言っても同書を読んでぼくが一番に受けたインパクトは、関東大震災における朝鮮人の虐殺について書かれた部分である。

 

民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書)
 

 

 ぼくはこの事件について自著『不快な表現をやめさせたい!?』で次のように書いている。

不快な表現をやめさせたい!?

不快な表現をやめさせたい!?

  • 作者:紙屋 高雪
  • 発売日: 2020/04/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

ヘイトスピーチの怖さは、例えば「在日韓国人」「ユダヤ人」という「人種」としてくくられた人たちが丸ごと「二級市民」と見なされるようになって、その社会の中で「どう扱ってもよい存在」にされてしまうことです。これは単に個人が攻撃されるというだけにとどまらず、社会が壊れてしまうことを意味します。現に日本では、関東大震災の折に「人種差別の扇動」によって、「朝鮮人」と見なされた人が数千人殺害された歴史があり、決して人ごとではないのです。(紙屋p.190)

 ヘイトスピーチの問題で取り上げたように、ここでは扇動によって日本の民衆が行なった虐殺としてイメージされていることが暗示されている。

 この問題について、『民衆暴力』の著者・藤野裕子は、同著の「関東大震災時の朝鮮人虐殺」の章の冒頭で次のように問いかけている。

朝鮮人虐殺の一般的なイメージは、関東大震災時に「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火した」などのデマが流れ、そのデマをもとに多数の朝鮮人が虐殺された、というものだろう。しかし、このイメージには主語(動作主)がない。誰がデマを流し、誰が殺したのか。人びとの間に自然とデマが流れ、自警団が殺害したと、漠然とイメージされているように思う。「民間人によるデマ、民間人による虐殺」というイメージは、本当なのだろうか。(藤野p.139-140。強調は引用者、以下同じ)

 例えば、学校の教科書そのものは手元にないのだが、「以前、高等学校の教科書として使われていた『日本の歴史(改訂版)』をベースにしています」という『新もういちど読む山川日本史』(五味文彦・鳥海靖編、山川出版社)ではこの事件の記述は次のようになっている。

 

新 もういちど読む 山川日本史

新 もういちど読む 山川日本史

 

この大混乱のさなか、「朝鮮人暴動」の流言がひろまり、これに不安を感じた自警団などの手で多数の朝鮮人が殺されるという事件もおこった。(『新もういちど読む山川日本史』p.301)

  主語(動作主)は「自警団など」である。

 ぼくは、知り合いの左翼女性に聞いてみたのだが、やはり主語(動作主)は「自警団」であった。これが広まっているスタンダードなイメージなのだろう。ちなみに彼女が答えた殺害規模は「数十人?」だった。どれほどの人が殺されたのかというイメージも定まっていないことがわかる。

 藤野は本書『民衆暴力』のこの章の最初の節を「国家権力の関わり」と題している。流言の発生源はわからないが、「研究上、見解が一致している点」として「当初から朝鮮人に関する流言・誤認情報を率先して流し、民衆に警戒を促したこと」(p.141)だとする。

 そして、大震災の数年前に朝鮮で大規模な独立運動である「三・一運動」が起き、その時の朝鮮統治の経験者が「関東大震災時の治安維持を担っていた」(p.153)ということが明らかにされる。

 そして本書は、虐殺の実態の記述に入っていく。

 ぼくはこの部分に大きな衝撃を受けた。

 まず、殺害は東京だけなのかと思っていたら関東一円で広範囲に起きていて、東京では軍隊が川などに連れて行って20人とか30人を機関銃で撃つ、収容所の営庭で斬る、というような殺し方をしている目撃証言が紹介されているのだ。(日にちが遅い埼玉では官憲側が民衆を制止している。)

荒川駅の南の土手に、連れてきた朝鮮人を川のほうに向かせて並べ、兵隊が機関銃で打ちました。…あとで石油をかけて焼いて埋めたんです。(p.171*1

 それまでのぼくのイメージは、朝鮮人への恐怖感がデマによる扇動で高まり、東京の町内で自警団ごとに、例えば1カ所で2人、3人、とかいう殺害をされてそれが集積されて「数千人」…というようなものだった。

 それがひっくり返ったのである。

 軍隊・警察自体が手を下して各地で大量の殺人が行われていたのだ。

 この点で、大日方純夫・山田朗山田敬男・吉田裕『日本近現代史を読む』(新日本出版社)は

大震災の混乱のなか、「朝鮮人が井戸に毒をなげこんだ」などのうわさが広められ、数千の朝鮮人、数百の中国人が、軍隊・警察や、在郷軍人などがつくった自警団によって虐殺されました。(『日本近現代史を読む』p.88)

と書いている。高校の参考書でも例えば実教出版のようなところの記述を見るとこれに近い。

 ところが、警察や軍隊による大量の虐殺は統計上も現れず、裁判でも自警団だけが裁かれていった。このような権力の隠蔽が歴史記述にもそのまま影響を与えていくことになる。

 ぼくにとってこの本を読んだ最大の意義は、この本の主題とは全く別に、関東大震災朝鮮人虐殺についてのイメージを大きく覆されたというその1点にあった。

 記事冒頭に拙著の記述を紹介した。その記述自体を変更する必要はないと思っているが、民衆がヘイトスピーチによって扇動されヘイトクライムを起こしたという歴史において、公的なものが果たした役割のあまりに大きさをもっと日本人は噛みしめるべきだと思わざるを得なかった。特に、現代日本で一部の政治家がヘイトそのもの、もしくはその土壌になるような発言を繰り返している重大性に思い当たらなければならない。

 藤野の本書はもちろん関東大震災で起きた事件の事実を叙述するだけが単に目的であったのではない。このような民衆の暴力がどのように引き起こされたのかまでを分析することに意義があるのだ。

 藤野はこの事件(関東大震災での朝鮮人虐殺)を分析し、第5章で「民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理」を書いている。「加害の論理にせまる」という節から入っているように、民衆がそのような暴力へと扇動されていったロジックや背景を追っているのである。本書そのものの意義としてはまさにこうしたところにある。

 

 本書は、まず近代以前、とりわけ百姓一揆など近世の民衆暴力の特徴を描き出し、それとの比較で近代の4つの民衆暴力事件を見ていく。

  1. 新政反対一揆
  2. 秩父事件
  3. 日比谷焼打事件
  4. 関東大震災朝鮮人虐殺

である。

 本書を批評した山根徹也(横浜市立大学教授)は次のように記す。

そのさい著者〔藤野〕は、民衆を一面的に民主化や進歩の担い手とする見かたから距離をとり、他方では、暴力を行使する民衆を野蛮な人々として切り捨てる態度も排しながら、民衆が暴力行使をするに至る状況と、民衆自身の論理を解明する。そこには、与えられた歴史的状況のなかで、民衆がはぐくんだ解放への願望があり、また、民衆自身の固有の生き方の表現であることもあった。(日経新聞2020年10月10日付)

 これは本書の批評としてまことに当を得ていると思うが、あくまで近代の歴史を見る視座としての重要性であるとぼくは感じる。転じてこれを例えば現代の抗議運動における一部の暴力の問題などに性急に適用してしまうことなどは避けなければならない。現代の運動の問題として「暴力」は、ただちに当為の問題として表れるから、「『暴力はいけない』という道徳的な規範だけで民衆暴力を頭から否定」(藤野p.208)すべきであって、歴史の事実を解明する際にのみ、なぜ民衆が暴力を行使したのか、そこにはどんな願望が込められているのか、などの解析をすべきなのだから。

*1:藤野による引用。『風よ鳳仙花の歌をはこべ』から。

「スペリオール」2020年10月23日号をぼーっと読む

 「ビッグコミックスペリオール」2020年10月23日号を読む。

 

 

 ぼーっと。

 一応全部読む。

 が、個人的にいま食いつきが一番あるのは、久部緑郎・河合単「らーめん再遊記」である。ラーメン経営を極めた芹沢が「お忍び」で他の小さなラーメン店のバイトに入るという設定。

 

らーめん再遊記

 今号は、味のダメな創作ラーメンを芹沢が食わされるのと、味としては結構いけるけど、経営的にそんなことをやっていていいのかということを内心で辛辣に芹沢が批評する回である。

 

 

 後者の、「中小経営者とかスタートアップにありがちな身内のお世辞と内輪ウケ」に対して芹沢が吐く毒舌がとりわけ痺れる。

 「実はすごい人がお忍びで現場に潜り込んでいる」というのは、「水戸黄門」以来のパターンなのかもしれないけど、「水戸黄門」はあまりにもパターン化してしまったし、「水戸黄門」なら水戸光圀がそこで口にすることもありきたりの、通俗道徳であって、光圀が

この女も何をヘラヘラ笑っている!?

お前の恋人の店は、このままだと潰れるんだぞ!?

とか生々しい批判をするわけでもない。

 かといって、「ぶっこみジャパニーズ」みたいな、予定調和かつ「日本文化スゲエ」(異文化ディス)的浅薄さも辟易する。

 「らーめん再遊記」における芹沢はそうではない。

 芹沢のディスを聞きたい。

 今号のような鋭い悪意をまさに読みたかったし、今後もぜひ読みたいのである。

 

ボクらはみんな生きてゆく!

 アキヤマヒデキ「ボクらはみんな生きてゆく!」も率先して読む。

 化学物質過敏症のパートナーとの生活を描いた『かびんのつま』は、正直引いたのだが、しかし、本人の主観で世界を構成するとここまで世界は汚染された凄まじい・生きにくいものなのかと、ある種の好奇心で読んでいた。

 

 

 「ボクらはみんな生きてゆく!」は、主人公が田舎での生活を始める話だが、今農作物を荒らすシカを駆除するために、免許を取得しようとしている。

 シカを撲殺しようとするがなかなか一撃で殺せずに、何度も何度も叩いてやっと死なせるという、まことにむごい様が描かれている。急所を知らない上に、非力なのである。自然に対して技術的な意味でダメさが、なんだかぼくによく似ていて他人事ではないと思った。

 今回は箱罠にかかったシカを刺殺するシーン。シロウト的な目線がとてもいい。

 

山で暮らす男

 60歳の新人という。ヤングスペリオール新人賞。

 絵柄は花輪和一を粗くしたような感じ。

 面白くはあったが、これ1作だけではなんとも言えない。もう少しこの人の作品を読んでみたい。

 

大人の青春くん

 キレイな女性より、「ムチムチした巨乳の色白… 顔ジミ目のコに… ドキドキした… なんかエロいなぁ…」と内語したのち、「オレのシュミも変わったなあ…」としみじみ酒を飲む年配男性。

 即座に「ワンチャンあると思っただけでしょ。」とツッコむ女性。

 「なんかエロいなぁ…」っていうのが、自分は単純なものにはもう飽きてしまったんだ、目が肥えて常人ではわからない萌えや審美が自分に育っちゃってるんだ的な全ての「オタク的な造形の深さ」を暗示しているようであり、それを「ワンチャンあると思っただけでしょ。」というジェンダー的なイデオロギー暴露で全部ひっくり返してしまう「身もふたもなさ」が好き。

 なんか俺自身がすっごく傷ついた。

「文化はぜいたく品」という気持ち

 日本コリア協会・福岡の「日本とコリア」240号(10月1日号)に、「これでいいのかニッポン!」というコーナーがあり、「『文化はぜいたく品』という気持ち」という一文を寄稿しました。まあ、エッセイです。

 

 コロナで文化芸術に支援することは「ぜいたく」かどうかを考えています。

 そのエッセイでは3つくらいの話題を扱っていますが、そのうちの一つは、憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の「文化」って、政府の文化施策、例えば、文化芸術基本法の第2条に定める「文化芸術を想像し、享受することが人々の生まれながらの権利」という規定の「文化」と同じだろうかということについて書いています。

 

 このことはあまり深く考えたことはありませんでしたが、静岡文化芸術大学の中村美帆・准教授が「日本国憲法第25条『文化』概念の研究―文化権(cultural right)との関連性」という論文で考究していることを知りました。

 この論文は、「法学的なアプローチ」というより「憲法成立に至る思想的、歴史的背景」に力点をおいているものです。つまり、立法過程などを詳しく探求しています。その際に、25条の立役者であった法学者・鈴木義男(社会党衆院議員)がどのような考えをしていたかにぼくは関心を持ちました。

 結局、25条の「文化」と、文化施策でいうところの「文化」の概念は重なるというのが中村准教授の結論だったわけですが。

 ぜひお読みください。

 また、同誌には今後ちょくちょく書かせていただくと思います。

シーナ・アイエンガー『選択の科学』

 今度のリモート読書会で取り上げたのは、シーナ・アイエンガー『選択の科学』(文春文庫、櫻井祐子訳)である。

 

  アイエンガーの「研究のうちで、もっとも人口に膾炙しているのが、『ジャムの研究』だ」(p.260)。ジャムのような商品は選択肢が多いほど購入率が上がるように思われるが、その思い込みを覆すのである。ぼくもこの本を読む前に、テレビで司会者が話しているのを聞いたことがある。

 

 一読した時、正直この本をどう扱っていいのか、よくわからなかった。

 「選択に関する心理学的な実験で、ジャムの研究のような面白いエピソードがたくさんある」——こういうふうにまとめてしまうこともできる。

公選職員は人口全体の平均に比べて身長は約一〇センチ高く、禿げでない確率も高いことが示されている。これは政治の世界に限ったことではない。(p.250)

とか。

〔寝坊の常習犯がアラームのスヌーズ・ボタンを押さないための負のインセンティブとして*1〕メーカーでは、最大限の効果を得るために、自分の嫌悪する団体(アンチ・チャリティ)を登録することを推奨している。たとえば銃規制法強化の支持者なら全米ライフル協会(NRA)、クローゼットが毛皮のコートで一杯の人なら動物愛護団体(PETA)といった具合だ。(p.366)

とか。

 まあ、実際、読書会としてその部分が盛り上がらなかったといえば嘘になる。

 訳者は、この本の「あとがき」で、この中身が「白熱教室」としてNHKで放映され反響が大きかった事実をとりあげて、なぜ日本人の心をとらえたのかを3つで簡潔に提示している。

  1. 選択のもつ力へのあらためての認識。
  2. 賢明な選択をするための具体的方法論が示された。
  3. 選択は自ら切り拓くものだという気づき。

だというのである。まったくわからないわけではないけど、ぼくにはこのまとめ方はあまりピンとこなかった。

 

 それで2回目を読んでみて、あらためて思ったのは、アイエンガーが「批判」しているのは、アングロサクソン的な、素朴かつ無垢な「選択の自由」だということだった。

 「アングロサクソン的な、素朴かつ無垢な『選択の自由』」という言葉は、アイエンガーが使っているものではない。ぼくの造語である。それは何か。つまり、個人が独立して(=孤立して)なんの影響も受けずに選んだことこそ、まっさらな自由意思であり、尊いもので、しかもそれは、選択肢が多ければ多いほど、よりよい選択ができる、という考えだ。

 しかし、アイエンガーは、これを批判する。

 第2講「集団のためか、個人のためか」は、結婚について、個人の意思による恋愛結婚を尊ぶ文化集団と、集団や親が「許嫁」のようにして決めそれに従う文化集団との比較を行っている。現代日本にいるぼくらとしては、かつて日本にあったような後者のような決め方には怖気がするようであるが、アイエンガーは幸福を感じる度合いやその後の夫婦生活、相互の感情などを紹介し、必ずしも前者が普遍的で優れているわけではないことを示す。

 つまり独立した意思決定は、それを尊ぶ文化の文脈の中ではまさに尊いものなのだが、では社会が違ったり、その後の幸福感を考慮したりすれば、相対化されてしまう。

 例えば、ぼくがこの話を聞いて思ったのは、「選択できない親元で、子どもが暮らすこと」についてだった。先進国・日本にいるぼくらは、ふつう、子どもとして生まれた際に、親を選ぶことができない。どんなレベルの親に育てられるのかは、選択できないのだ。考えてみるとそれはとてもおぞましいことではないのか?

 「えっ、その子を産んだ親がずっと育てるんですか? 20年も? チェンジできない? はあ…。それはまたなんというか…大変ですな」という異文化の人がいても不思議ではない。「私たちの社会では、子どもたちは社会保育院に預けられて、貧困や暴力の心配なく、みんなで同じ条件下で育ちます。そして、科学的で専門的な保育・教育を受けるのです。はい? 無条件の愛? 愛ですか。うーん……。まあ、仏教のような宗教でも愛には否定的ですよね。迷妄や執着を生む、って。愛のように極度に偏執的なものが無条件であって、何かいいことがありますかね?」

 「結婚は親が決める」という価値観は「子育ては親が行う」という価値観とそう隔たりがあるものではない、ということだ。

 

 この問題はいくつもの問題に分かれていく分岐点にある問題で、

  • 社会や集団の中で規定される自分。「孤立した決定」というものはフェイクであって、存在しない。
  • 「とにかく自由な個人の選択」という古典的なリベラリズムは、売春や自殺の問題に見られるように、内容の良さを保証しない。
  • かといって「割礼をされるのも、その地域で暮らす人にとっては幸せなのだ」というような主張、普遍的な人権や民主主義を否定する文化相対主義に道理が果たしてあるのか。

などに発展していく。

 

 第3〜5講は「『強制』された選択」「選択を左右するもの」「選択は創られる」で、個人の自由意思に基づくはずの選択は、実は何かによって強制されていたり、思わぬものに左右されていたり、あるいは意識的に創られた風潮の中で「自発」的に従っていたりするのだという指摘である。

 選択の際に、社会や自然(人間の心理現象を含む)からの様々な制約が働いて、選択を左右する。その制約を変えようではないかといえばマルクス主義的であるが、アイエンガーはそこまでは言わない。そのような制約が働いていることをよく認識しようぜ、と言うのだ。

 ぼくがこの辺りを読んでまず思い出したのは、選挙である。選挙というものは、「個人の自由意思に基づく選択」がまっさらな形で実現されるという擬制である。しかし、実際には、様々な制約が働いての投票行動となる。

 

 第6講「豊富な選択肢は必ずしも利益にならない」は、冒頭に挙げたジャムの研究のようなケースである。

 しかし、これはアマゾンの「ロングテール」のような実感と矛盾するのではないか、と思うが、アイエンガーはこの問題を「自分が探しているものがはっきりわかっている場合」(p.277)、「ほかとはっきり区別がつく商品の場合」(p.278)のような条件付きのケースだとしている。逆にいえば「選択肢が多いほどいい」ということを完全否定しているわけではない。

 

 第7講「選択の代償」は、個人の選択があまりにも重い負荷をかけてしまう場合である。子どもの延命治療について、完全に自分で選択をしたアメリカ人と、専門家(医師)の判断を参考にして自分で選択をしたフランス人との違いを示し、前者はいつまでも選択の結果に悩む人が多いのに、後者は子どもとの時間を自分の中にきちんと仕舞い込めるなど納得している人が多い。

 ここでも個人の孤立した自由な選択は批判を受けている。

 

 そしてアイエンガーは最後に「シジフォスの神話」で締めくくる。

 巨石を頂上に上げるという苦行を永遠に課せられたシジフォスの神話を取り出したカミュを引いて、アイエンガーは人生が無数の選択というシジフォスのような業を課せられていることを示す。

もし未来がすでに決まっているなら、選択にはほとんど価値がなくなる。だが選択という複雑なツールだけを武器に、この不確実な未来に立ち向かうのは、わくわくすると同時に、怖いことでもある。(p.379)

 ここには、自由と必然性についての古典的なジレンマがある。

 アングロサクソン的な完全孤立の選択の自由においては、選択は偶然に満ちた個人的な行為となる。逆に、選択が自然と社会の法則で全て制約されているなら、選択は無価値になる。

 アイエンガーの本書は「選ぶというアート」が原題である。

 制約が一定ありつつも、それを認識して一つの作品のように組み立てていく、というのがアイエンガーの選択観だ。完全な自由でもなく必然や運命でもない。しかし、出来上がった作品は個人の意思に基づきながら、これしかないという必然とロジックに満ちている、というものだろう。

 これは戦後主体性論争(簡単にいえば、マルクス主義的にいえば歴史は社会発展の法則だから、放っておいていいのか、それとも個人が主体的に関わることでなんか変わるのか、という問題)の一部と重なる。ぼくがイメージするマルクス主義的な人生観に近いと思った。

 

*1:引用者注。

『こわい顔じゃ伝わらないわよ』『二月の勝者』

「勉強が全然楽しくない」と泣く

 田舎の中学校とはいえ、自分が「優等生」であったものだから、自分の物差しで子どもを測ってしまう。定期考査で平均点とか取ってくると、正直がっかりする。しかも全教科そんな具合だからなおさらがっかりする。点数亡者めと言われて仕方がないが、ぼくの心に一旦こういうシミができてしまうのは、本当にできてしまうのだから仕方がない。おくびにも出さないけど。

 コロナによる長い臨時休校の後に中学に入学した娘は猛スピードの授業と大量の宿題に音を上げ、泣いたり、学校に行かなかったり、遅刻したりしている。この9月末、今でもそうである。平均して週に1日くらいは休む。毎日遅刻して1時間目の途中くらいから行く。宿題はためにためて、それでも泣きながら、どうだろう、8割くらいはやっている。

 仲の良い友達は数人いて、同じ部活をやっている。PCでLINEをやり、YouTubeをしながら横でやりとりしている。

 しかし、娘は「学校が楽しくない」という。そして「勉強が全然楽しくない」ともいう。ときどきそう言って泣く。さっきもそう言って泣いていた。本当に「学校が楽しくない」「勉強が全然楽しくない」「この先楽しいことがあるとも思えない」というフレーズで泣いているのである。何か丸めたり要約しているのではない。

 勉強ができたぼくとしては、そして学ぶことは基本的に楽しいと思っているぼくにとって、娘が学ぶことがつらいと言って泣いていることは、本当につらい。

 先ごろ自主的な夜間中学校をやっている先生たちの話を聞き、『夜間中学へようこそ』(コミック)を読み返し、学ぶことの喜びのようなものを、涙して聞いたり読んだりしただけに、“勉強が苦痛だ”と泣き叫ぶ自分の子どもに戸惑うばかりである。

 

夜間中学へようこそ (アクションコミックス)

夜間中学へようこそ (アクションコミックス)

 

 

担任の回答にショック

 一度担任にまじめに相談したことがある。

 娘がこのように言っているのですが、何かアドバイスがありますか、と。手紙で簡単に質問していたから、電話がかかってきて、明らかに戸惑ったふうで「そうですねえ…うーん…ワーク(問題集)を少しずつ…例えば毎日1ページ…うーん…やることですかね…」と答えた。

 ちょっとショックだった。これはもう相談してもダメだと思った

 この教育条件下だから、忙しいとか、個々の子どもに手をかけている暇がないとか、そういうのはわかる。しかし、「今は時間がないし、条件がないんだけど、本当はこんなこととかあんなことをやって、勉強を楽しくしたいと思っている」とかそういう専門職としての思いが聞けたり、ひょっとしたら具体的なアドバイスが聞けたりするかと思った。だけど、返ってきたのは、本当にただ課題をやらせることしか頭になくて、ページ数と期限をつけて子どもに指示するだけで、そんなのは俺でもできるという思いしか残らなかった。

 娘は娘で、よくわからない。

 宿題の量が多いのか少ないのか、親として客観的な事実を知りたいのだが、期限と範囲を聞いても全体像を示さない。わからない。娘は「『1ページノート』(毎日自分で課題を決めてなんでもいいから埋めるノート)とワークを1ページを毎日やれば終わるんだよ」と言うのだが、主要5教科あるのに「ワークを1ページ」などというヌルい宿題を中学が出すのだろうかとぼくは不審を起こし、娘に「本当にそれだけ?」と何度も念押しするが、娘はそれしか答えないので、信用して進行を見ていたら、毎日、娘は雑に1ページノートとワークを終えて長時間PCをやっている。

 ところが定期テスト間際になって、できていない課題が莫大な借金のように残り、本人は「できていない」「間に合わない」とすすり泣くのである。やはり、宿題は実際にはもっとたくさんあったのだ。生活相談に来た困窮者に「もう他に借金はありませんか?」と聞くと、相談者は「ありません!」と断言するが、実はもっと借金を抱えていたりする。なんで言わない。あんな感じだ。

 PCを長時間しているのがいけないのか、と思って、本人と話し合って制限したが、PCが使えないからといって勉強をするわけではない。(PCをしない=勉強をする、というのではないことはわかったので、今はあまり制限をかけていないが、晩以降どうだろう毎日4〜5時間していると思う。勉強をするかどうかとは別に、体力と睡眠を奪うので、話し合って再度ルールを決めて制限をかけるようにはしたい。)

 

なんで「教えて」って言われて教えたら不機嫌になるのか

 結局娘に事情や情報は聞き出すけど、過干渉になることをぼくは恐れるので、PC規制以外は勉強について何か娘と取り決めをしたりすることはしなかった。

 娘が「これ教えて」と言えば教える。しかし不思議なもので、数学などを「教えて」というくせに、1問教えるだけで途端に不機嫌になって投げ出すのである。なんだそりゃとこっちは呆れる。しかし、中学教師経験のある友人が言うには「それは本当に教えてもらいたいんだけど、『わからない・情けない自分』がたちまち現れて、それを親にじっくり見られて心底恥ずかしいという思いがすぐに襲ってくる、っていうすごく理不尽な状況だと思いますよ」と言っていた。納得できる説明であった。

 それで英語などは、テスト前日に、まともに単語の綴りも覚えていないし、文法もでたらめであったので、「これは(点数が)一桁台になるな…」と覚悟していた。

 しかし、英語は平均点より少し悪い程度で、こっちがびっくりした。あれで? どうして…?

 そういう日頃のずさんな様子を見ていると、総じて平均点を取ってきたのは、大いなる前進であり、ある種の奇跡とさえ思えるので、むしろホッとした。「あっ、けっこうがんばったな」「どうなることかと思ったけど、まあ、いいんじゃない」と伝える。

 しかし、例えば数学は圧倒的にケアレスミスが多い。そして焦っている。

 時間をかけて解かせれば、確かに解けるものが多い。ケアレスミスをなくすだけでもかなり点は上がる。優等生だったぼくは、「テストで検算をしない・見直さない」という娘の行動が理解できない。

 中学受験を描いた『二月の勝者 絶対合格の教室』3巻に出てくるあのケアレスミス、そして焦りである。

 

  

 一番できないクラスのRクラスを受け持つ主人公の塾講師・佐倉は、子どもたちが検算せずにケアレスミスにまみれて点数を大きく落としている現状を嘆く。

とにかく ケアレスミスが全然直りません。

ただ最近指導している、「できる問題をまず選んで先にやる」という作業自体はできているようです。

しかし このケアレスミスの多さは、もったいないよといつも伝えているんですが なかなか…

 

 佐倉を指導している校長(塾長)・黒木は、注意力や演習量が足りない子どもたちを、

そういうのをひっくるめて一言で言うと、「バカ」って言うんですよ。

とキツい言葉で断定する。そういう子どもには「問題を選んで優先させて解かせる」という優等生のマネをさせると時間が足りなくなって焦るから、やめさせたほうがいいとアドバイスする。問題を半分にして解かせるように佐倉に指示をする。なぜなら、「焦り」を除去して、基本の計算問題を確実に取ったほうが得点の上昇につながることを「得点が確実に上がる」という喜びで体感させたほうがいい、というのが黒木の方針なのである。「バカ」というキツい言葉を黒木が使ったのは、そういう子どもたちには、ケアレスミスをいくら口で指導してもわからない、体感させる指導の工夫が必要なのだ、ということが言いたいのだ。

 その真偽のほどはわからないのだけども。

 

指針がほしい

 ぼくは、一体娘にどの程度関与していいのか・いけないのか、よくわからない。

 PTAをやっていないせいなのか、他の親とのつながりは全くない。もっともPTAをやっていた小学校時代にも横のつながりはほとんどなく、あっても子どものディープな悩みを相談するような関係ではなかった。むしろそういう話は、保育園時代のつながりや、職場でのつながりでしていたし、今もしている。

 ただ、「あら、うちの子もそうよ」という井戸端的な共感がほしい訳ではない。そういうものが必要な場合もあるのだろうが、専門家のアドバイス、教育科学としての指針が欲しいのである。

 娘が赤ちゃんや幼児の時に育児の指針にした松田道雄『育児の百科』のような、大雑把な指針が。

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そこで尾木直樹ですよ

 そこでぼくが頼るのは、尾木直樹である。

 

 この本(『こわい顔じゃ伝わらないわよ 尾木ママの子育てアドバイス』)は「しんぶん赤旗日曜版」に連載されていた時に、時々読んでいた。自分の実感に合うことが多かったので、参考にしているのだ。

 

 尾木の教育論のポイントは「自己決定力」である。

 

子育てのポイントは、自分で決める自己決定力を子どもにつけていくことです。子どもが「どうしたらいいかな」と相談してきたとき、親は結論よりも解決策を提案して、子どもが自分で決められるようにしてほしい。「こうしたらどう?」と、いくつかの方法を提案できる力をつけることが、親として大切なんですよ。(p.32)

 

自分の気持ちを表現できるようになるためには、子どもが自分で決定する経験を積み重ねることです。/最初は小さなことでいいんです。…親は「お母さんはこう思うけれど、違うことを決めてもいいんだよ。自分でよく考えて決めるといいよ。決めたことは、お母さんも応援するからね」という姿勢でいることが大切です。/自己決定は、自分に自信がもてるようになるために大切なこと。…そうして自分に自信がもてるようになれば、ありのままの自分を親の前で出せるようになっていきます。そういう関係をつくっていけるといいですね。(p.66-67)

 

親との関係として読む

 もちろんこれは子どもにとっては自己肯定感とか責任感を育てるという話なんだけど、親との関係論であると言える。この逆は、親が管理し、決定するという状況。あるいは、学校や社会が管理し、決定するという状況でもある。

 ぼくが政治活動をやっているのは、自己決定のためである。社会というものに自分が無力であってはならないので、組織に入り、社会に働きかけている。ぼくにとって自己決定は人生の原理の中心にある。

 自分が子どもに対して望むこともそれである。

 自己決定ができるようにしたい。

 自己決定のためには、本来自己を取り巻く環境を変革しなければならない。そして環境に働きかけねばならない。そのためには環境(自然と社会)を客観的に知らねばならないし、同時に環境とコミュニケーションを取らなければならない。前者のために学習や研究があるし、後者の第一歩は自分の意見表明である。

 後者の第一歩として、親とのコミュニケーションがある(もちろん友達や先生とのそれもある)。親が何でも決めたり指示してしまうというのは論外であるとしても、そもそも親に対してモノが言えない・言いにくい・断絶しているという関係になってしまっていてはそれができない。あるいは回路があっても錆び付いていて、およそ気軽に本音が言えないというのでも困る。

 だから、娘がぼくたち親の前でホンネをさらけ出して泣いているのは、とてもいいことだと思っている。ベタベタしたり、話しかけてきてくれたり、そういう関係が濃密にあるのも悪くないと思っている。

 だけど、やはりどうしても管理したり、指示したりするメンタリティがぼくにもつれあいにもある。特に中学生にもなった子どもに、まるで小学校低学年の時と変わらない調子であれこれ指図すること自体がダメだ。自己決定どころではない。

 

子育てでも教育でも、子どもと接するうえで大切なのは、子どもたちの表面的な現象にとらわれることではなくて、その奥に潜む心の叫びに向き合うことだと思います。心に向き合えば、必ずと言っていいほど通じ合えるのです。非行の子でもどんな子でも、これまで通じなかった子はいなかったと思っています。/学校にはいわゆる授業活動と、生活のルールづくりなどゆるやかな管理を必要とする分野がありますが、どちらにおいても、心を管理してはダメなのです。心を管理したら、その瞬間に教育ではなくなってしまう危険があります。(p.223)

 

 これは一瞬、メンタルな部分に関与しない、という意味に聞こえる。

 しかしそうではない。

子どもの「心を管理しない」という意味は、教師側の思いだけでモノゴトを見ないこと。一方的に子どもを評価しないということです。…だから、どう考えてもこの子が悪いに決まっていると思うような場面でも、いきなり頭ごなしに決めつけたり叱ったりするのではなくて、まず、“「どうしたの?」と言葉をかけましょう。”これは尾木ママのキャッチフレーズにもなっています。(p.224)

絶対に決めつけをしない、上から目線や教師目線ではなく、子どもとフラットな気持ちになって「どうしたの?」と向き合う姿勢を心がけてきたことが、もしかしたらママ的な雰囲気に繋がっているのかもしれません。(p.225)

  ここで尾木は「どうしたの?」というフレーズの重要性を出しているように、「心を管理する」というのは、一方的な関係となること、すなわち支配し指示する関係になることだとわかる。これは表面的な決めつけ、表面上の現象に振り回されるということとも裏腹である。

 『二月の勝者』の3巻で、「子どもの頃の夢」の話題を軸に、作文に書かれていることを真面目に受け取るな、という話が出てくる。

子どもは裏切ります。

言うことを真に受けてはいけません。

という露悪的な黒木の言葉は、「子どもと接するうえで大切なのは、子どもたちの表面的な現象にとらわれることではなくて、その奥に潜む心の叫びに向き合うことだと思います」という尾木の暗黒版であろう。

 つまり、子どもの本質への洞察をした上で、一方的な指示・支配の関係でなく、相互的な関係を作って自己決定を促せというのである。

 親が子どもを洞察したことは、相互的な関係においてどう生かされるのか。

 親の関わり方、つまり意見の出し方について、尾木はやや細かめのアドバイスをする。

親が自分の意見を伝えるの。/そして、意見を言ったらさっと引くことが大事です。親が正論を言って従わせようとしても、子どもはムカつき、反発するだけですから。(p.132) 

子どもの言うことが間違っていると思ったとき、「それはおかしいと思うよ」「そういう考えは、お母さんと逆だね」と指摘する。子どもが「なんでだよ〜」とつっかかってきても、言い合いはしない。子どもはいろんなへ理屈を言ってくるから、感情的にけんかになってしまいますからね。(p.152)

同時にお父さんには、必要なときに「それはおかしいと思うな」「そんなのお父さん、許さないよ」と子どもにきっぱり伝える、「壁」の役割も果たしてほしいの。/この時期は、「どうしたらいいのか」「どこまでなら許されるか」を、親への反抗という形で手探りしている状態でもあります。だからこそ親御さんには、自分の心情に基づいて毅然とした態度で立ちはだかり、子どもの成長をうながす「壁」になってほしいのです。(p.58)

 

 尾木の本は、この他にも、「ルールを取り決める」「それを破ったらどうするか」「異性との付き合いは」などの細目に話が及んでいくのだが、大事なことは尾木の教育思想をつかまえて、そこからの出ているものだという太い幹をとらえることだろう。そうしないと、細かいドグマを読んでいるような気になってしまったり、あるいは、別のページで矛盾するようなことを述べているように読めてしまったりするからだ。

 この本を読んだからと言って娘が何かすぐに変わるわけではない。

 ぼくの心にも平安が訪れるわけでもない。

 しかし、それでも何か指針がほしいのである。その指針に今のところ、尾木の本はなってくれているのだ。

 

やきそばかおるの「ラジオの歩き方」や沙村広明『波よ聞いてくれ』など

 「しんぶん赤旗」に、やきそばかおるの「ラジオの歩き方」が連載されている。21日付でその「第28歩」が掲載された。9月に来襲した台風10号で、風変わりな宮崎放送における台風情報報道を紹介していた。

 ぼくはこの宮崎放送のラジオを聴いていないので、やきそばの(って変な書き方だけど)紹介記事のみでそれを想像するだけである。

 

 深夜の台風情報といえば、環境音楽と時折の台風情報。しかし「それでは寂しいですよね」と担当の川野武文アナウンサーが述べたそうである。そこで台風情報の合間には、

今夜は音楽とトークをお届けします。停電の中で一人で聴いている人がいましたら一緒に仲間に入ってもらって、この番組で夜をこえていただけたら

 というのが川野アナの挨拶だった。

 緊迫した台風情報と、その合間に流れるトーク、掛け合い。パンダのニュース、歌謡曲や演歌の曲のエピソード付け足しなど「心が和む」(やきそば)時間に。

 さらに驚いたことには、「皆さん、お腹が空きませんか?」と言いだし、リスナーが買い込んだであろうラーメンを午前3時にみんなで食べようじゃないかと提案。

3時をまわり、台風情報を伝えると川野アナは予定通りに「ズルズルー! ズルズルー!」と美味しそうな音を響かせた。

 もう一人の外種子田結アナウンサーは、水でもラーメンが食べられるか「実験」をしていた。

この時間にラジオの前に集まったリスナーは、朝まで共に過ごす運命共同体であることを実感した。

 まことに自由である。

 「ラジオの自由」それも「深夜ラジオの自由」について思いを馳せずにはいられなかった。

 思い出したのは、沙村広明波よ聞いてくれ』である。

 

  まったくの素人である主人公・鼓田ミナレが深夜ラジオのパーソナリティになり、自由きわまる放送をする物語である。トークの自由さもさることながら、物語はさらに新興宗教による拉致事件に巻き込まれるという、展開からいえばどう考えてもあり得なさそうな「自由」っぷりがまた「ラジオの自由」のメタさを味わわせてくれる。

 

 しかし、ラジオを自由だと思うのは、もう古い世代のノスタルジーかもしれないと思いなおす。

 ぼくが中学の頃、家にホームビデオのカメラがやってきて、録画したものを自分の家のテレビで観た、それだけでテレビ放送に自分が近づけたような興奮があった。実際には何も近づけていないわけだが。ラジオ放送に憧れて、テープレコーダーに自分のトークを入れてカセットに録音し番組を作ったりしたのと同じである。

 それどころか、ワープロがない時代で活字さえも自由にできなかったから、学校の職員室で漢字を拾う和文タイプライターをいたずらし、自分だけの冗談ニュースを作った。活字のくせにふざけた内容のニュースになっていて、それだけで半日は腹がよじれるくらいに笑っていられた。

 しかし、今やワープロもあるし、インターネットもあるので、自分からいくらでも自由な発信ができる。娘が聴いている「にじさんじ」などVtuberトークを聴いていると「ああ、これはぼくらの世代のラジオだな」と思ったりする。

 だから、ただ自由であるだけでは、ラジオの特性としてはもはやノスタルジーでしかない。

 そう思い直して、このやきそばかおるの記事の「自由」を再度じっくり考えてみたのだが、やはりこれは台風情報という公共放送としての強い拘束があり、その下での自由ということなのだろうと思い至った。

 台風情報のような厳格でシリアスな報道とセットを任務にしているなら、下手な工夫を住まいという官僚主義的な心の機序が発生しそうなものだ。しかし、この二人のアナウンサーは、一人で心細く聴いているリスナーのためにあえてラーメンをすすったり和ませたりという工夫をした。

 リスナーから「画期的な台風情報だ」という感想が届いたそうだが、首肯できる。

 これは放送の公共性とセットで初めて活きてくる「ラジオの自由」なのだろう。