棚園正一『学校へ行けない僕と9人の先生』

このままいったらどうなっちゃうんだろうという不安

 いまの傾向を機械的にのばしていくととんでもない結論になる…というような話は「30年後の未来」みたいな未来予測でよく聞く。「地方消滅」みたいなやつね。
 同じように、自分の子どものある時期の状況とかがものすごく気になって「将来この子はダメになるんじゃないか」とか一瞬絶望してしまうことがある。小1の自分の娘に。
 たとえばいつも何回か言ったりお膳立てをしないと「家事の手伝い」をしないので、「このまま自分のことは自分でしない人間になるのでは…」とか、宿題を全然自分からやろうとしないので「このまま家では勉強しない人間になるのでは…」とか、家に帰ってから友達と一度も外で遊ばないので「このまままったくコミュニケーション力のない人間になるのでは…」とか。
 思い起こせば、自分の小学校1年生時代というのは、たとえば家の手伝いなど何もしていなかったし、宿題なんてほとんどなかったし、自分こそ「絶望」する資格などない人間であることがわかる。あるいは、いま娘は帰宅後は遊んでいないけど学童保育では1人とか2人くらいの友だちと遊んでいるようだし、心配しすぎなのだろうということもわかるのだが。
 関係ないが、橋下徹の本*1に、友だちなんて1人か2人いればいいじゃん? というくだりを最近見つけて、たしかにそうだよ! とひどく共感した。余談。


学校に行かないという不安

 「学校に行きたくない」と言ったことが、小学校に入ってから少ししたときにあった。4月か5月くらいだったかな。夏休み明けにもあった。3学期になってからもあった。計3回。最初は休ませた。2回目はわりと無理やり行かせた。3回目はなだめすかして行かせた。
 そのたびに「このまま学校に行かなくなったらどうしよう?」という「不安」がよぎった。「今のご時世、学校なんか行っても行かなくてもあんまし関係ないね!」と安心立命、泰然自若の境地にいることは、いまのぼくにはできない。学校に行かない、ということには不安のイメージが強くぼくにはつきまとっている。もちろん、「不登校」は、うちの娘については今のところ現実的で切迫したテーマではないのだが。


「行きたくない」という姿をみたときのこと

 娘は少年団のようなところに入っている。月に2回くらいそこに出かける。出かけると必ず楽しそうに帰ってくるが、ときどき「行きたくない」と抵抗することがある。最初のころは、特に頑強に抵抗し、泣きわめくのを無理やり引っ張っていったことがある。このときも帰ってきたらむちゃむちゃ楽しそうに体験を話して「行かないとかいってごめんなさい」とまで娘の方から言ってくれたので、「ちょっと無理にでも行かせてよかった」と思ったものだが、連れていくときはこっちの心が折れそうだった。休ませちゃえばいいじゃん、というもう一人の自分がたえずいたから。ちなみにつれあいも、このときはぼくといっしょに、無理やり娘を連行したクチである。
 こうした経験を経ると、「いつも子どもの要求に耳を傾けるのではなく、無理にでもハードルを越えさせることで体感してもらえることもある」という信念がぼくの中にできてしまう。すると逆に「学校(など)に行かない」という状況がますますぼくの中に負のイメージとして育っていってしまうことになる。
 ぼくは今のところ、こうしたイメージの成長や、その是非についてまともな検討を自分の中で加えていない。それを中和したり解毒したりするような本も読んでいないし、そんな話をまわりの親御さんたちともしていない。

派手さのないリアル

学校へ行けない僕と9人の先生 (アクションコミックス) そんなときに読んだのが、本作である。
 作者・棚園の自伝コミックだ。小学1年生のときに「わからない」と言ったら先生にひどく殴られたことがきっかけで不登校になってしまう。それから、義務教育を卒業するまでに出会った9人の「先生」と自分の体験を描いている。「不登校」といってもずっと学校に行ってないわけではなく、断続的に不登校だったようで、学校に行ってみんなに調子をあわせて小グループのリーダーのようになったりした時期もある。
 現実に起きたことだから、9人の「先生」と主人公との間の出会いにはロジカルなものや必然、起承転結は何もない。いい先生だなっと思うと途中で来なくなったり、元気な先生だなっと思うと素っ頓狂だったり。
 心配した親が家に家庭教師を次々呼んでくるのだが、どこかの校長先生だった大谷先生という人は、なぜか飛行場へ主人公をつれていってず〜〜〜っと飛行機を見せていた(最初に飛行機が好きかと問われて「はい」と答えたせいであるが)。

これは…いったいなにを?
ひこうきだって実はそこまで好きなわけじゃ…

とは主人公である「ボク」の心のつぶやき。うんざりしながら言い出せずにつきあう。大谷先生の一方的な感覚と、しかし、だからといって完全に的外れな対応というわけでもなさそうな親切ぶりが、ドラマのようなきれいな体裁がまるでなくてとてもリアルである。ライターの山脇麻生が「派手さはないが、過剰な脚色がない分、不登校になった子供が日々、何を感じていたかがリアリティーをもって、スッと心に流れ込んできた」(朝日新聞2015年3月15日付)と評しているのは当を得ている。
 

両親の言動に目が釘付けだよ

 ただ、ぼくは、9人の先生のことよりも、この作品でまず一番に目が行ってしまったのは主人公である「ボク」の両親であった。両親はほとんど大きなコマでは描かれず、いつも困った顔をしている。口うるさかったり過干渉ではなさそうな感じで口数が少ない。接し方もソフトで、初めて不登校になったとき、歌を歌いながら布団をやさしく剥ごうとする父親が描かれている。そういう感覚がいちいちぼくら夫婦なのである。そっくり。
 布団を引きはがそうとして小さくても頑強に抵抗する主人公の描写に、こんな日々が毎日続いたらぼく自身が参ってしまうにちがいない、とそのくだりを読むたびに疲弊する。
 そして毎朝、30分かけてクツをはく「ボク」を見守り、自転車に乗せて登校させ、昼までかかってようやく教室のとなりにある理科室までやってくるというのをやっている母親の姿に慄然とする。
 医者に行かせたり、家庭教師をつけたり、遠くで困ったようにしか対応できなかったり、少なくともその姿はいかにもぼく自身だという気がしてくる。これはおれだよ!
 中学を卒業するまでに「ボク」の親は、なにがしかの光明というか、この状況を脱する希望を見出せたりしたのだろうか。
 小学校を終えようとする頃、勉強ができずに親にあたり、勉強ができない、中学生になれないと布団で泣きわめく「ボク」をみて、はじめて父親が大きなコマで描かれる。

こりゃあ──
育て方をまちがえたな

 母親が「パパ…!!」と困った顔で弱々しくたしなめる。
 父親が、いや両親がこんなにも大きく描かれるのは後にも先にもこれっきりである。よほど「ボク」にとってはつらい一言だったに違いない。


 このシーンがぼくにとって恐ろしかったのは、何よりも、ぼくは似たようなことを絶対に言ってしまいそうだからだ。ぼく自身の中には「自分とつれあいの子どもだから勉強はわかるはずだろう」とか「大学くらいは行ってほしい」とかそういう勝手な「期待」がある。こういうものを相対化したり、客観視するような努力をあまり払っていないがゆえに、意外と強固に根を張ってしまい、ふとした折にそういう根拠のない「期待」がよぎったりするのだ。だから「不登校」という事態の前に、もしそういうことが自分の娘におきれば、立ちすくんでしまうだろう。なんということだ。


 主人公である「ボク」は、小さいころからの『ドラゴンボール』好きで、鳥山明の原画に出会ったことと、本人に会えたことがきっかけで、生きる希望を見出していく。いまはこのように漫画家として食べていけてる。
 しかし、この結末は、ぼくにとっては「運が良かった」というふうにしか思えなかった。「人生捨てたもんじゃない」といったような楽観はどこからも生まれてこなかったのである。
 作者はあとがきで「ほんの少しでも『読んで良かったなー』と思って頂ける作品になっていれば嬉しいです」とのべているが、「読んで良かったなー」というまとめ方はぼくにはできなかった。
 しかし、それはこの作品がひどい作品だとか、無価値だということではまったくない。自分の立っている基盤を激しくゆすぶるような作品だった。そういう意味で刺激的な作品だった。


 ところで、鳥山明が巻末に一文を寄せていて、“お前ら、これ読んで俺の自宅を訪問してマンガ見せようとか絶対思うなよ! 絶対だぞ、おい!”的な念押しを繰り返しているのがむちゃむちゃ可笑しかった。

*1:『どうして君は友だちがいないのか』(河出書房新社