澄川嘉彦・五十嵐大介『馬と生きる』/「たくさんのふしぎ」2019年11月号

 つれあいの母、すなわち義母が契約をして、現在小6の娘に「月刊たくさんのふしぎ」を毎月送ってくる。小学1年生くらいまでは「こどものとも」だった。

 これらは福音館書店が毎月発行している雑誌で、「こどものとも」はいわば定期絵本であり、「たくさんのふしぎ」はノンフィクションを中心にした定期読み物である。

 

 保育園の頃から小学3年生くらいまでは、吸い付くように袋を開けていたが、近頃はそうでもない。届いたまま放っておかれることが多い。他に楽しいこと(今は「にじさんじ」)がいっぱいあるし、面白いマンガや本があるのだから、しょうがない。「読め」などと言ったって義務感が募るばかりで、そんなことを言えばいうほど、かえって読みたくなくなるというのが、子どもにとっての「本」というものだ。

 

 ただ、親が読んで面白そうにしていたら、子どもは興味は惹かれるものだと思う。実際、ぼくとつれあいが読んであれこれ話題にしていたら娘が手に取ることは多い。「今月はダメだな」などと思い、それを口にすると、確かに娘は読まない。娘は読んでくれないが、実際に面白くないのでぼくはそう述べるしかないのである。

 いや、娘が惹かれなくたって全然よい。

 親が楽しめたのだからそれでいいではないか。

 

 とはいえ、ぼくだってウキウキしながら封を開けるのではない。

 「娘に送られてくる教育系読み物」という一種の義務臭を感じてしまうのは事実だ。だから、まず、義務で開ける。そして、正直、ぼくだって、表紙とタイトルだけでは、読もうとは思わないことが多い。自分の興味の射程外にあるものが目に飛び込んでくるのである。

 たとえば、今年に入って送られてきたもののタイトルと内容の要約を福音館のHPから拾って見てもらおうか。

【小学3年生から】たくさんのふしぎ|月刊誌のご案内|福音館書店

  • 4月号 『家をかざる』(小松 義夫 文・写真):世界じゅうの、美しくかざりつけた家をたずねてみました。
  • 5月号 『日本海のはなし』(蒲生 俊敬 文 / いしかわ けん 絵):日本海にかくされた、おどろきのしくみを明かします。
  • 6月号 『珪藻美術館 ちいさな・ちいさな・ガラスの世界』(奥 修 文・写真):0.1ミリにも満たないガラス質の微生物でつくる、顕微鏡で見るアートの世界
  • 7月号 『ブラックホールって なんだろう?』(嶺重 慎 文 / 倉部 今日子 絵):なぞの天体、ブラックホール。その正体にせまります。
  • 8月号 『クジラの家族』(水口 博也 文・写真):クジラの家族は、赤ちゃんクジラをまん中にして敵からまもります。
  • 9月号 『一郎くんの写真 日章旗の持ち主をさがして』(木原 育子 文 / 沢野 ひとし 絵):戦地に向かった息子。その写真にかくされた母の想い。
  • 10月号 『9つの森とシファカたち マダガスカルのサルに会いにいく』(島 泰三 文 / 菊谷 詩子 絵):マダガスカルには、「レム-ル」とよばれるサルがすんでいます。マダガスカルの9つの森をレム-ルたちを探してめぐります。

 どうだろうか。諸君は、「うわっ、すぐ読みてえ!」って思う?

 その中でさらに例を挙げてみると、『珪藻美術館 ちいさな・ちいさな・ガラスの世界』などは最初それだけ見ては何の感興も催さない。だから初めは読みもしなかったのだが、つれあいが先に読んで「ねえねえ、これ知ってた……? すごくない?」とぼくに見せたので読んだ。読んでみたわけだが、読んでみて本物の珪藻のガラス質を使ってこんな工芸ができることに驚かないわけにはいかなかった。

 『一郎くんの写真 日章旗の持ち主をさがして』もそういう本の一つで、タイトルは興味をそそられたものの、残念ながら沢野ひとしの絵はぼくの食指を動かさないタイプの絵であり、これもある種の義務感で読み始めた。

 しかし、これはもともと東京新聞の記者が連載したものを子どもむけに書き直したもので、米兵が戦利品として持ち帰った、寄せ書きの日章旗の持ち主を探すという一種の「謎解き」感のあるノンフィクションであった。本書の終盤近くにある、「たいせつ」と書かれた一枚の写真をめぐるエピソード(このエピソードは新聞連載には出てこない)を読んだときは、胸が熱くなった。

sukusuku.tokyo-np.co.jp

 

 読後に、沢野の絵がこの本に合致した「リアリズム」であることをしみじみと感じた。記者(木原)もそう感じたようで、次のように記している。

丸みある独特の筆遣いは、戦時中のつつましくも温かな暮らしぶりを子どもたちに伝えるのにぴったりだと感じた。

 たぶん自分の興味の範囲で本を手に取ったり開いたりすることをしていたら、こういう出会いはなかった。さりとて、膨大な情報の洪水の中で、ぼくが接することのできる「興味のない情報」などは山のようにある。だから、自分の家に系統だって送られてくるこのシリーズを何かの「縁」だと思って、まずは義務感で封を開けてみるのである。

 

 その中の一つ。

 今月(2019年11月)号の「たくさんのふしぎ」は、『馬と生きる』である。

馬と生きる (月刊たくさんのふしぎ2019年11月号)

 うーん……正直これもあまり心に響かないタイトル。

 絵は……うん? これどこかで見たような……。

 「五十嵐大介/絵」。

 あっ、五十嵐大介ではないか。

 実は、この本は岩手県遠野市の「地駄引き」といって、切り出した木の運搬を、馬を使って行う話である。昔はこのような馬方は遠野にいっぱいいたのだが、どんどん減って、見方勝芳という馬方ひとりになってしまったらしい。

 本の中には、見方が馬の様子をよく観察し、その「気持ち」にたって、実にたくみにコントロールする様子が出てくる。あとがき的な解説に文を書いた澄川嘉彦が次のように述べている。

まず驚いたのは、見方さんの言葉を馬がよく理解することです。「危ない! おとなしくしてろ!」という単純な命令が伝わるのはまだわかります。けれど見方さんが「足を鎖の中に入れろ!」と言った時には無理だと思ったのですが、馬はからだの両脇からのびる鎖の間から外に出ていた後ろ脚をきちんと元に戻しました。そんな複雑な指示がなぜ通じるのか、とても不思議でした。

 本の中に、見方の半生記が出てくる。

 子どもの頃から馬とあそび、馬に乗って桃をとり、「見方さんの子ども時代は、馬といっしょにすごした思い出ばかりです」。そして、農作業での利用。

田んぼのすみずみまで同じように踏ませたいのですが、馬は楽をしたいので一度通って土がかたくなり、歩きやすくなったところを通りたがります。田んぼ全体を踏ませるにはどうしたらいいのか、馬と見方少年の知恵比べです。

 やがて地駄引きを生業としてからの話となるが、驚いたのは、家の造りである。

 遠野の旧家は馬屋と住家が一体になった「曲がり屋」なのだが、見方がくつろぐ座敷から馬が餌を食べる時の顔が常に見られるようになっているのだ。

 

自分はお酒を飲んでいても、こうやってお茶を飲んでいても、馬を眺め眺めすれば気もちが落ちつくというんだか安心するんだな

 

 生まれてから、そして老境になるまで馬のことばかりを考えているのである。それなら馬もコントロールできようと、ほとほと感じ入る。

 そのくせ、次の一文に目がいく。

見方さんはこの50年間でおよそ50頭の馬といっしょに働いてきました。けれど、どの馬にも名前をつけたことはありません。仕事の時も名前をよぶことはありません。

 馬に、ペットのような愛着で接するのではなく、あくまで家畜としてのドライさを保ったまま、しかし、徹底的にその動物と向き合う。馬の死に対する感情も描かれているが、愛玩動物の死ではなく同僚のそれに接するような距離感がある。というか、見方が馬の仲間、あたかも馬の一頭のようである。

 

 

 林業用の機械やトラックでは道路を造成し、森を切り開くために、山が荒れるという。そこで「地駄引きは森をいためつけることがすくない運び出しの方法として見直されはじめています」。

 しかし、ぼくが思ったのは、仮にそうだったとしても、ここまで馬をコントロールできるような人間でなければ地駄引きができないなら、もうそれは本当に職人技であって、そこまでして継承するのは困難だし、そのようなところに人手を割く必要はないのではないか、ということだった。そういうことをつれあいともちょっと議論したりした。

www.town.hokkaido-ikeda.lg.jp

 

 これはぼくの認識が浅いのかもしれない。

 だが、そういうことも含めて、地方の歴史、産業の変化、人口減少などに思いを馳せる一冊となった。いい本である。

 

 

 ただし。

 その話を聞いていた娘が、本書を手に取る様子は、未だないが。