坂爪真吾『はじめての不倫学 「社会問題」として考える』


 人間だれしも先生を「おかあさん」と呼んでしまうことは生涯で二度や三度はある。いや、隠さなくてよい。あるんだってば。だれにも。な。
 「おかあさん」ならまだしも「ママ」だった日には目も当てられない。まだ「おかあさん」であった幸運を言祝ぐべきであろう。いまは母親の呼称として「ママ」って普通だけど、私が子どもだった1970年代には母親を「ママ」って呼んでいるやつは愛知県三河地方では完全なマイノリティーだった。俺の場合は「おかあちゃんと呼んでいたので、逆に現代だと比較する爆発力は「ママ」のそれに匹敵するかもしれない。


 けらえいこあたしンち』には、このような言い間違いについてのエピソードが登場する。
 男性教諭が壇上で無駄話をするのであるが、そのおっさん先生は、自分が妻のことを、間違えて、自分の弟の名前で呼び捨てにしたというのである。
 それが意味するところは、自分の妻が、かつて自分が実家で同居していた頃の同性のきょうだいとまったく同じポジションになっている、ということなのだ。そこから想像しうる関係というのは、ケンカもするし、何でも遠慮会釈なく言いあえるが、性的なニュアンスは1グラムも侵入していない、想像すらできない、というような関係であろうか。


 一夫一婦制家族は、夫と妻、すなわち父と母だけがセックスを許される。その上の世代の夫婦も同居している場合があるが、日本ではすでに性関係がない場合が少なくない。そうなると事実上セックスを許されているのは夫と妻だけで、他には絶対に性交渉が許されない厳格なタブーが支配する。
 性的な空気が家庭から追放されて「家族」としての一体感や役割が強調されていくと相手を性的なパートナーとして見られなくなっていく。そして相手以外とは性交渉することは決して許されないのである。
 これは地獄ではないのか?
 一夫一婦制が、姦通(不倫)と売春を伴う、と言ったのはエンゲルスだが、それはブルジョア的な一夫一婦制だからだと指摘した。財産目当ての打算での結婚には真実の愛はないからだ、というわけだ。船戸明里のマンガ『アンダー ザ ローズ』はまさにエンゲルスが生きた時代のヴィクトリア朝イギリスの貴族社会を描き、このような打算婚と真実の愛をめぐる物語になっている。エンゲルスはそのような財産を持たないプロレタリア家族にはこうした真の個人的性愛が花咲く可能性があると考えた。
 だが、現代の日本でも、「姦通と売春」は花盛りである。
 売春そのものは法で禁じられたが、姦通罪はなくなった。しかし、一夫一婦制夫婦の平和は法で守られるべき利益と考えられ、それを見だしたものには慰謝料が請求される。「姦通と売春」ならぬ「不倫とフーゾク」は不法行為や「悪」として現れる。


はじめての不倫学 「社会問題」として考える (光文社新書)
 坂爪真吾『はじめての不倫学』は、無防備に、無規制に、「自由」に不倫を始めることで泥沼に陥り社会に大きなマイナスが生じることを問題視し、それを防止するための「不倫ワクチン」を提唱する。
 ワクチンは弱毒化した病原体を体に打つことで免疫をつくらせる。そのイメージで、いわば少量の、管理された「不倫」=婚外セックスを認めることで不倫という泥沼、無秩序を防止するとするものだ。

本書の結論を一言でまとめると、「現行の夫婦関係を維持するための(=不倫ワクチンとしての)ポジティヴ婚外セックスは、条件付き(期間限定・回数限定)で社会的に受容されるべき」となる。(坂爪p.243)

 そのための条件を二つあげている。

受容されるための条件とは、「個人間の関係ではなく、システム=文化制度の下で行うこと」「対象と回数を限定して行うこと」の2点である。(同前)

 本書はそのために不倫の統計的現実や歴史などをざっと見て、そのうえで、不倫ワクチンを考えるヒントになる、現行の試みのプラス面、マイナス面を考察していく。
 夫婦関係の改善という方策からはじまって、職場環境の整備(職場での不倫が圧倒的に多い)、不倫専門SNS、交際クラブ、スワッピング、オープンマリッジ、ポリアモリーなどである。

本書の好感がもてる点

 本書を読んで、まず、この話題はどうしても男性優位、男権的な視点が潜んでいることにかなり注意を払おうとしていることには好感が持てた。どんな考察をするさいにも、そこに男性側にとって都合のいいものでしかないのではないか、という批判が意識されている。実際にそれが克服された記述になっているかどうかはまた別であるが。
 加えて、現存の、あるいは歴史上存在した制度については、手放しで賛美することをせず、いかに不倫ワクチンというものが成立することが困難であるかを説いている点も首肯できるものだった。
 たとえば、セックスにおけるカウンセラー的な男子と、アスリート的な女子であれば、泥沼に入り込まない婚外セックスの関係が保てるかもしれないが、各々その条件をクリアするにはいかに特別な人でなければならないかが書かれている。
 「これが特効薬だ」と言いたがる人が多い中で、ぼくなどは不倫の泥沼に入ったり、社会的な混乱を引き起こさないためのハードルの高さこそ目につくので、坂爪がそこに慎重であるのは非常に現実的な感覚の様に思えるのだ。

本書の難点

 本書の一番の難点は、自分の考えについて「これは、不倫や浮気を条件付きで肯定しよう、という話では全くない」(坂爪p.245)と説明し、その点に拘泥していることだろう。そうのべた直後に、坂爪は

泥沼の不倫にハマって、夫婦関係や家庭、そして自分自身を精神的・社会的に再起不能にしてしまうよりは幾分マシ、という程度の話だ。あくまで、ベストではないがワーストではない緊急回避的な処方箋として、である。(同前)

と言っている。
 「幾分マシ」「ベストではない(もの)」「緊急回避的」だけど、それは「条件付きの不倫」でしょう、ということなのだ。
 それ、「不倫」だろ?
 つまり、坂爪の求めているものは「泥沼にハマらない不倫」であって、それは婚外セックスであることにかわりはないのだから、世間の常識でいえばそれは「不倫」ではないのか、と普通は思うのである。結局一夫一婦制は、その外でしか、すなわち「姦通と売春」でしか真実の愛が得られないではないか、というエンゲルスの主張を覆せていない。
 坂爪は「不倫」を無防備な、安全装置のない、泥沼への道が開かれているものとして定義づけるので、あのような強調になってしまうのだろう。

「それは不倫とどう違うのか(結局、不倫と同じではないのか)」に対する回答は、「不倫ワクチンには、日常生活を壊さないための『安全装置』が必ず備え付けられている点で、不倫とは明確に異なる」だ。(坂爪p.99)

 坂爪がやっていることは、「不倫」の定義をかえて、自分の提唱は「不倫」の部分承認ではないとすることだ。「これは、不倫や浮気を条件付きで肯定しよう、という話では全くない」という坂爪の主張はあまりに無理筋だと多くの人が思うのではないか。
 坂爪が読者に迫るべきは「安全装置という前提があれば、不倫=婚外セックスを認めてもいいのではないか」ということのはずだ。なぜなら、パートナー以外とのセックスは許されないという倫理そのものに挑戦しなくてはならないからだ。
 ワクチンの比喩からいえば、ワクチンは「必要悪」どころではないだろう。ワクチンは生存率の飛躍的な向上をもたらした文明の福音ともいうべき発明なのだから、坂爪はその比喩にならうなら、もっとその婚外セックスの効用について自信をもって説くべきなのだ。じっさい、坂爪の本書には、管理された不倫(婚外セックス)が、夫婦や家庭を円満にする経験的事実の強調が幾度も登場する。

ぼくなりの暫定的結論

 ぼくの今のところの考えは、エンゲルスの延長線上にある。
 プロレタリア家族、つまり一般庶民の家族でも、子どもを1人(ひとり親)で育てるか、2人(両親)で育てるかによって大きな違いが出てくるので、たとえ愛情がなくなっても別れられないという打算が働くということがある。
 もしも子どもが社会的費用で育てられるようになれば、個別家族は経済単位であることをやめるだろう。つまり、愛情がなくなれば離婚することになる。縄文時代などにあった、対偶婚のようなもの、1対1のゆるやかな関係というものになるのではないか。あくまでもシングルであってもダブルであっても不利にならない社会ができれば、ということだが。
 いま、子どもの医療費の無料化はどこの自治体でもほぼ就学前まですすんでいる。教育は高校までがだいたい無償になった。児童手当も多くの世帯に給付されている。それぞれの制度を前進させるとともに、住居費を社会保障としてカバーできるようになれば、一定の条件が整う。もちろん道は険しいが。


 坂爪の本を読んで思った一番のことは、「一夫一婦制のもとでの婚外セックスの容認は、非常に限られた条件をもつ人たちの間でしかうまくいかない、成功しない」ということだった。すべての人にとって幸せなのはエンゲルス的な解決しかないのではないかというのが今のところの結論だ。