お酒は好きな方だと思う。
仕事をすべて取り上げられて自宅に閉じ込められるという嫌がらせを受けたとき、そして不当解雇をされて新たな職場が見つからない今のようなとき、「規則正しい生活」をすることが奪われがちで、飲酒へのハードルも低くなることへの恐れがあった。だから、つとめて酒は遠ざけるようにした。
酒を飲むことが常態化するのではないかという恐怖があったからである。
それでも、ときどきは飲む、それも人と飲みにいくので、日本酒やワインをついつい飲み過ぎる自分がいた。
日本酒などは調子に乗って4合くらい飲んでしまう。
明らかに多量飲酒である。
チェイサーとして水を意識的に飲まないといけないが、そうであっても次の日は調子が悪い寝覚め方をする。
ハイボールだけ、ビールだけ、という飲み方をしたら、翌日の寝覚めが全く違った。
…と加齢とともに、酒との付き合い方も刻々変えなければならないのだと最近思うようになった。
「俺はアルコール依存症なんかじゃないよ」と依存症の人は思うらしい。アルコール依存症は「否認」の病であるとこのテキストに書いてあった。
本書はリモート読書会での題材とされた。
アルコール依存症に陥って断酒に繰り返し失敗しながらなんとかそこから抜け出そうとする5つの例が紹介されている。
読書会参加者は、何度も断酒に失敗し、仕事や家庭がめちゃくちゃになっていく様や、家族に一番みっともない様を見られるところ、DVを繰り返し受けながらもそれでも支えてしまうというありように戦慄していた。
ぼくは、依存症になった人にとっての断酒会の大きさが最も強く印象に残った。
吾妻ひでお『アル中病棟』を読んだ時、病院の様子や断酒会・AAの会合の様子などはルポ風にわかったけども、断酒会で同じ人の境遇の話を聞き、自分も話すことの意義は、吾妻の本ではわからず、本書を読んで、また、断酒会などの実態に詳しい人の話を聞いて初めて認識を得た。
断酒会自体が楽しくて仕方がない、というわけでもない(そういう人もいるらしいが)。しかし、お酒を飲むような時間に断酒会に出て交流することを「新しい日常」としてしまうことがその人にとって生きていく上で大事なことのようだ。酒を2度と飲まない、ということを、生涯の務めにするのだから。

断酒会では自分の体験を話し、相手の体験を聞く。
一つの自治体での参加者は10人とか20人とかだそうだから、それだといつも同じ話を聞くし言うことにならないのかと思った。しかし、その時の気分やその時の相手の話を聞いて、語り方を変える。そうした中で自分に新たな気づきがあるのだという。
それは古典落語を、客によって演じ直したりする、というのに似ているのかと思った。
同じ体験が語りや状況によって変化し、その変化のうちに新しい気づきがある、というのは、ぼくとしても新鮮な発見だった。
それは断酒会に限らず、例えば政治組織のようなサークルの場での例会でも、有効な方法だと言えるのではないだろうか。
同じ話を聞いたり言ったりすることのうちに、発見・再発見がある、という物事のありように、新鮮な感動を覚えた。

