共産党を「相談相手」にしている民青(日本民主青年同盟)が出している新聞(機関紙)に「民青新聞」がある。その2024年2月12日号を興味深く読んだ。
というのは、「ASEAN(東南アジア諸国連合)は『反共の砦』として出発したのではなかった」という歴史観が明確にそこ(民青新聞同号)に見出されるからである。
同紙は「東アジアを戦争の心配のない地域へ ASEANの努力に学ぶ」という「論文」めいた特集を「上」「下」に分けて掲載している。しかも同じ号に「上」も「下」も掲載する破天荒なやり方をしている。
あとで述べるけども、彼らが「相談相手」にしている共産党の「しんぶん赤旗」でもASEANについてのこんな詳細な記事(特集・論文)は見たことがない。そして、ASEANについて何の知識もない、ぼくのようなシロートにもわかりやすい記事であった(もちろん限界はある)。「しんぶん赤旗」読者であっても、民青新聞読者であっても、本当はこういう解説記事が望まれていたのだ。そこに挑戦したことは快挙であると思う。
「反共の砦として出発」という見方
ぼくは前に倉沢愛子『インドネシア大虐殺』の感想を書き、同書の次の記述に注目した。
https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2024/01/20/132318
〔インドネシア共産党(PKI)などの大虐殺をした後〕スカルノからスハルトへの政権交代とPKIの消滅によって、インドネシアはそれまでの容共国家から、親欧米的な反共国家へと変身した。東南アジアの勢力バランスは自由主義陣営に有利なものとなり、その結果、反共5カ国からなる東南アジア諸国連合(ASEAN)が成立した。(倉沢kindle10/2548)
マレーシアとの関係が緊急に修復されると、それによって、東南アジアの主要国が政治的な結束を図ることが可能になり、翌年にはインドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、フィリピンの反共五カ国からなる東南アジア諸国連合(ASEAN)が成立した。これは、当時共産化の道を歩んでいたベトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ三国に対峙する重要な反共の砦となり、アジア冷戦構造における力関係に大きな変化をもたらした。(同書Kindle1843)
インドネシアでのスカルノの没落を契機に、インドネシアとマレーシアの修復が進み、これらが「反共」のブロック=ASEANを組んだ、という見方である。
また、『サクッとわかるビジネス教養 東南アジア』の感想も書いたが、
https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2024/01/07/140030
そこでもASEANの結成の経緯は、
ASEANの発足は1967年、「バンコク宣言」を発出したことに遡ります。当時の加盟国は、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5カ国。東西冷戦時代、共産主義国家であったベトナム、カンボジア、ラオスに対する「反共の砦」としてスタートしています。(p.76)
として説明され、 やはり「分断・対抗」の象徴としてASEANを捉えている。
そして、こうした見方がおおむねスタンダードなものではないかと思う。
「反共の砦」という見方への批判
ところが、ネットを多少あさってみるだけでも、ASEANの出発点についてはそうした「反共の砦」ではないという見方を示している小論文をいくつも見かける。
たとえば山影進(東大教授)「ASEANの変容 東南アジア友好協力条約の役割変化からみる」(国際問題No.576/2008.11)では次のように記している。
ASEANは、その原加盟国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ)がいずれも反共政治体制をとっていたため、反共同盟とみなされることが多かった。しかし東南アジアの反共5ヵ国がASEANという地域組織に参加したのは、同床異夢的な思惑を超えて、基本的には善隣友好の確認と相互信頼の醸成を求めたからであった。
https://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2000/2008-11_001.pdf?noprint
あるいは、防衛研究所『東アジア戦略概観 2001』には次のようにある。
すべての加盟国が非共産圏に属していたことから、成立当初のASEANは東南アジアにおける反共組織とも見られたが、ASEANは社会主義体制をとる他の東南アジア諸国の加盟にも窓を開いていた。ASEANの成立時に発表されたバンコク宣言では、同宣言の目的や原則に同意する「東南アジア地域のすべての国家の加盟に門戸を開く」と明記されており、その目標は99年のカンボジアの加盟によって実現した。
https://www.nids.mod.go.jp/publication/east-asian/pdf/east-asian_j2001_03.pdf
あるいは黒柳米司(大東文化大)「アジア冷戦とASEANの対応 ZOPFANをてがかりに」(アジア研究Vol.56、No.2、2006.4)には次のようにある。
さらにASEANは、反共で知られる諸国によって構成されてはいた(必要条件としての反共主義)が、反共であることが機構の存在理由だった(十分条件としての反共主義)わけではない。確かに、ASEANが成立し得たのは、1965年の「9・30事件」によるスカルノ政権の崩壊と反共スハルト新体制の登場というインドネシア内外政策の右旋回が不可欠だったということは疑問の余地がない。…しかし、ASEANの主要目標は反共産主義ではなく、マレーシア紛争に集約される域内諸国間の緊張と紛争の再燃を回避することにあった。実際、反共諸国の集合体という固定イメージを払拭することは、その後のASEANの発展過程にとって軽からぬ課題でさえあったのである。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/52/2/52_26/_pdf
林奈津子(ミシガン大学大学院)「ASEAN諸国による地域安全保障の模索」(1999)もあげておこう。
設立の時期が冷戦最中であっただけでなく、米国にとって東南アジア地域の戦略性が高かったこともあり、域外国は大方ASEANを反共軍事同盟と見る傾向が強かった。しかし、ASEAN諸国にとって反共は一つの共通項ではあってもASEAN結成の直接的な目的ではなく、それゆえに各国政府はASEANの軍事的性格を意識的に否定した。より具体的には、新たに設立する地域機構ASEANを従来の大国主導型の反共軍事同盟から明確に区別する必要があったといえる。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/45/1/45_1/_pdf
ここで共通しているのは、確かに反共5ヵ国が出発点であったが、反共は主目的ではなく、紛争や緊張を回避するための地域協力の機構として出発しようとした、という認識である。
簡単に言えば、域外の大国(米ソなど)によって緊張・分断が持ち込まれ、紛争・戦争の巣窟のようになってしまっている現状から、域内の主体性を取り戻し、紛争や緊張を避けるような仕組みづくりをどう作っていくかと言うことが、最初から問題意識としてあったということである。
ベトナム、カンボジア、ラオスなどのいわゆる「社会主義国」がそこに最初は加盟していないのは、むしろASEANを「反共軍事同盟」とみなしていたからではなかろうか。
民青新聞記事のぼくなりの3つの注目点
さて、そして「民青新聞」のこの号の特集である。
「民青新聞」はよく共産党の政策担当者や協力してくれる学者などに論文っぽい記事を書かせている、あるいはインタビューを載せることが多いのだが、この号については、無署名である。つまり、「民青新聞」編集部が書いている、もしくは民青の幹部が書いていると言うことになる。
「前半」の記事は日本共産党のASEAN訪問および同党の「外交ビジョン」の要約のようなものだが、「後半」はASEANの歴史を紐解いている。これはなかなか勉強になる、と思った。どのように勉強になるかといえば、「ASEANの出発点は反共ではなく地域協力を問題意識としていた」ということを資料などで後づけているからである(物足りない点もある)。
いくつか注目した事実を書いておく。
第一に、ASEAN発足前後の1946-1979年は「世界の戦死者の80%は東アジア地域に集中」(同号)し「その後半の時期の死者は、ベトナムやカンボジアでの戦争が大きな要因」だったというスウェーデンのウプサラ大学の研究を紹介していることだ。
ここで「東アジア地域」と言うのは、東南アジアを含めた地域のことだろうと思うのだが、何も記述がないのでわからない。
記事は東南アジアの政治指導者の言葉を紹介して、ASEANを作ろうとした1967年ごろは、戦争・紛争の地域であり「分断と敵対」が特徴であったことを紹介する。
日本は今中国・北朝鮮などと緊張関係にある。「ロシアや中国が攻め込んでくるかもしれないぞ」「北朝鮮のミサイルが来るかもしれないよ」と宣伝され、連携国であるはずの韓国との間でも歴史・政治的摩擦を抱えている。
が、そんなレベルではないのだ。当時の東南アジアは。
そこからASEANのような地域協力の枠組みが発展していくなど、誰が想像できただろうか?
第二に、ASEANの出発点の理念が地域協力であったということを、記事は、紙幅の制約はあるものの、宣言文などからできるだけていねいに読み取ろうとしているのである。
たとえば1967年の設立宣言。
あるいは1971年の「東南アジア平和・自由・中立地帯宣言」。
これらに、非同盟運動のバンドン会議(1955年)の影響が盛り込まれているというのである。
「読み取ろうとしている」というのは、たとえば、先ほどの「東南アジア平和・自由・中立地帯宣言」において「平和・自由・中立」という概念の関係をバンドン会議の原則から次のように記事は説明している。
ここにも、バンドン会議の成果が反映されています。バンドン会議は、植民地主義は速やかに終わらせるべき害悪であり、他国による民族の支配は基本的人権の否定、国連憲章違反であると断じ、すべての民族の自由と独立への支持を高らかにうたいました。そして、「自由と平和は相互に依存している」とし、国際平和を実現するには諸民族の自由と独立が欠かせず、自由と平和は切り離せない、としています。
平和・自由・中立地帯宣言が、まず「平和・自由」をあげたのも、そうした経過や歴史を踏まえてのことでした。
そして「中立」について、この宣言の作成過程で、次のように定義されました。「戦時に公平な立場を保つという従来のコンセプトより広く、この地帯は思想、政治、経済、武装あるいはいかなる形の紛争、とくに域外の大国同士のこれらの紛争に直接、間接に巻き込まれず、域外勢力はこの地帯の地域問題、諸国の地域問題、諸国の国内問題に干渉してはならない」(72年ASEAN非公式外相会議)
「中立」と聞いて、われわれは、戦争のときにどちらにもつかないということをイメージする。記事ではそれを「消極的中立」だと紹介し、ASEANは一歩そこから踏み出していると述べる。その地域の自主独立こそが中立なのだというわけである。
それは、紛争の一方の側を選ばなければならなくなるような事態に至らないように、主体的、積極的に関与・努力し、自ら地域に平和的な環境をつくりだしていく「積極的中立」の姿勢につながり、現代の「ASEANの中心性」へと進化していくものです。
戦争になってしまって、さあどっちにつくか、どっちにもつかないよ、というような話ではなく、そもそもそのずっと手前から、「地域の外の大国」の自分たちの地域への干渉・関与の仕方を、積極的にコントロールするんだぜ、というわけである。ノータッチ! というわけでもなく、関係を積極的に持つけど、そんときはこういうルールで関わってくれよ、そして俺たちのこういうルールに従ってくれよ、と細かく確認していくし、粘り強く話し合って「いやいや違う、そうじゃなくて…!」という異論も言わせてもらうし、直してもらうよ、というようなイメージになる。
それがASEANの今の姿だし、たとえば中国の南シナ海での横暴ぶりについても一つ一つただして、枠にハメていこうとしている。それを「全然中国なんか聞いてくれんやんwww」と嗤うことはたやすいが、即効性はなくても少しずつコントロールをかけていっているということはできる。
第三は、そのようなASEANの取り組みの具体化としてTAC(東南アジア友好協力条約)とそれに基づく取り組みがあることが、記事でわかりやすく示されている。
以上のような経緯を知って初めて、TACというものがどういうものか理解できるようになる。
よくぼくが現場にいる共産党員などにASEANのどこがいいかを尋ね、その際にTACとはどういうものか聞くのだが、「紛争の平和解決し、話し合いで決める」とだけ説明される。しかし、それだけなのだ。そんなことだけ聞いても「国連憲章でさえそう定めているその原則をわざわざまた定めて何の意味があるの?」としか思えなかった。
その点で記事はTACの役割についてちゃんと説明してくれている。
まず、TACは前述の「平和・自由・中立地帯宣言」の具体化の作業である。
TAC前文には国連憲章だけでなく、前述の2つの宣言、そしてバンドン原則との適合をうたっている。紛争の平和解決はその通りだが、
- 相互尊重
- 外部から強制・転覆されない権利
- 内政不干渉
などがその前に定められていることが、まさに大国に干渉され振り回されて戦火が絶えない紛争地帯にさせられた歴史を踏まえている。
そして
87年にはTACを域外に開放。ASEANと協力を望む域外国が、まず取り交わす約束の文書とされました。東南アジア諸国はすべての国々との友好を発展させることを望んでいますが、この地域で平和原則を守らない国とは親しく付き合わないという原則的な立場をとっています。
という発展をとげる。ここがポイントだろう。域外の大国・小国とは大いにつきあうけど、まずわれわれが示すこのルールを守ってよね? 守れないなら相応のつきあいはできないんだけど? と一札入れてもらうわけである。これはまさに東南アジアが舐めてきた歴史的な辛酸が反映されている。
しかも、TACは「基礎」である。
その基礎の上に、域外の国々との意思疎通や関与を細かく調整する具体的な枠組みを無数にASEANは用意してきた。
それがARF(ASEAN地域フォーラム)、EAS(東アジア首脳会議)、そしてAOIP(ASEANインド太平洋構想)である。
ただ、それぞれの枠組みが具体的にどのように関係国を調整してるかは、この記事だけではよくわからない。そこを解明するような新しい記事や解説がぜひ読みたいものである。
東南アジアの紛争・緊張の歴史を踏まえ、ASEANという地域協力の努力を見てみれば、ロシアとNATOの対立から、「軍事同盟・軍事ブロックに入らないとヤバい」「大軍拡をして備えないと!』というような安全保障上の主張が短絡的に過ぎることがわかる。もちろん、軍事の選択についてはこうした地域協力の枠組みとは別に考えてもいいことだとは思うが、ベースとなるべき地域協力の取り組みが日本ではほとんど議論されたり、評価されたりしていないことは恐ろしいことだと思う。
そのような日本の貧しい安全保障・外交のあり方へのオルタナティブとしてASEANを振り返ることは重要だし、共産党の外交ビジョンや今回の民青新聞の記事は貴重なものだと言えるだろう。
ぼくもASEANの出発点について認識を変えたし、いろいろ勉強になった。いい記事である。
補足
当の日本共産党については、このブログの前の記事のコメントで2001年3月の「前衛」論文「東アジアに強まる平和の流れ ASEANの歩みとARF」(北原俊文/赤旗外信部記者)でASEANの評価を大きく変えたという旨の情報があり、同誌を入手した。*1
この北原論文では、ASEAN結成当初の性格をどのように規定していたのかを見てみよう。
しかし、創立当初のASEANは、SEATOのような反共軍事同盟ではなかったにしても、たぶんに反共色の濃い、インドシナと対立する国家群であった。ベトナムからは「ASEANなるものはアメリカ帝国主義が東南アジアにおける自分たちの侵略政策に奉仕する手先たちを結集することを目的にしたもの」(ベトナム労働党〔現共産党〕機関紙ニャンザン、七一年一二月一日付)とみられていた。
それでも、機構としてのASEANは、インドシナを共通の仮想敵とする欧米主導の反共軍事同盟の道にすすむことはなかった。むしろ、東南アジアのすべての国に加盟の門戸を開いていた。
この通りで、だいたい前述の、「単純に反共の砦とは言えない」というネット上の諸論文と同じようなトーンである。
しかし、北原論文は次のような指摘もしている。
しかし、ASEANが創立当初から「平和と進歩の流れの強力な国際的源泉」の役割を果たしていたわけではない。東南アジアがASEANとインドシナの二つの国家群に分裂していては、ASEAN創立のバンコク宣言にうたわれた目的自体も実現不可能であった。とくに、ASEAN加盟国のタイとフィリピンが米国のベトナム侵略戦争に直接巻き込まれおり、「ドミノ理論」の影響も受け、国内にも反政府武装活動を抱え、米国も「反共の防波堤」としてASEANを重視してテコ入れしている状況では、ASEANが独自の役割を果たせる余地は少なかった。
つまり、理念としては全てを包摂する地域協力の方向性はASEAN創立当初からあったものの、実際にそれが稼働し始めたのはベトナム戦争後である、というような認識だろうか。それ以前は、ASEANとしてではないが、ASEANに原加盟していた非インドシナ5カ国は、実際にはアメリカなどとの反共軍事同盟的な活動をしていた…ということであろう。