スターリンの娘、スヴェトラーナ・スターリナあるいはスヴェトラーナ・アリルーエワの生涯を知ったとき、その激しさと寂しさに、複雑な思いがこみ上げてくる。
前半生は、ソ連体制下で母親をはじめ、親しい人々が自殺や迫害など次々と横死する。後半生は、ソ連の抑圧体制から逃れて亡命し、アメリカに移住するが、結婚・離婚を繰り返し、著作によって手に入れた財産を失ってしまう。
後半生は必ずしも抑圧政治のもとでの不幸ではない。しかし、ソ連崩壊まではソ連当局やKGBの魔の手が絶えず彼女の行く手に現れ、そのことに怯える。
やがて、彼女は西側に幻滅し、ソ連に戻ってしまう。アメリカで生まれた娘・オルガとともに。しかし、そこでもまた彼女の望んだ幸福は得られない。彼女は再びソ連を出国し、アメリカの老人ホームで生涯を終える(2011年没)。
根本的には前半の幸福の剥奪のされ方に強く規定された後半生の幸福の探し方があまりにも不器用で、読んでいてつらい。だから複雑な思いがこみ上げるのだ。
もちろん、ソ連から脱出した後半生は、必ずしも「不幸」だと断じることはできない。しかし、家族や娘を持つぼくのような身からすれば、彼女の後半生の方がより身近に感じる。幼い娘(オルガ)と一緒に写っている写真(下p.170)などを見ると、何だか自分の娘の小さい時によく似ているような気がして人ごとのように思えない。アリルーエワが激昂して、本来依拠すべきはずの友人たちを失ってしまう様子などは見ていられないほどだ。
それでも、彼女の人生の最終における、娘・オルガの次のような記述を読むと少しは心が慰められる。
しかし、オルガによれば、スヴェトラーナの人生の最後の二年間は思いがけないほど平穏な二年間だった。「ある時、突然のように、母は物事を冷静に受け入れるようになっていた。以前ならば打ちのめされたに違いない事が起きても、母はその窮状を笑い飛ばして乗り越えることができるようになった」。母親にいったい何が起きたのだろうかとオルガは思った。娘としての自分の存在が何か役に立ったのだろうか? 「楽しかった昔の日々が戻ってきたような気がした。嬉しいことだった」。(下p.387-388)
自分の生き方を通じて到達した、徹底かつ慧眼の反スターリン主義者
スヴェトラーナ・アリルーエワの政治的ポジションは、反スターリン主義者ということになるだろう。基本的には前半生のソ連体制に何の疑問も抱かなかった時代を脱し、最終的にはソ連体制の厳しい批判者となる。
単に反スターリンというだけではない。「スターリンは狂気の独裁者だ(狂っていた)」「ベリヤや側近に操られていた」という見方についても、彼女はきっぱりと退けている。
私の父親は自分が何をしているかを理解していた。彼は狂気でもなかったし、誰かに操られて道を誤ったわけでもなかった。冷徹な計算にもとづいて権力を掌握し、その権力を維持するために奮闘していたのだ。彼が何よりも恐れたのは権力を失うことだった……すべてを狂気によって説明するのは最も単純で簡単な方法である。しかし、それは正確ではないし、何の説明にもならない。
父はいささかも理想を信じていなかった。彼が信じていたのは生々しい政治闘争の現実だけだった。父にとってはロマンチックな意味での人民など存在しなかった。彼は強い人間を必要としていたが、自分と同等な人間は邪魔だった。役立たずの弱い人間も必要としていなかった。
良心の痛みなど、父は少しも感じたことがなかったと私は思っている。(下p.80)
著者・サリヴァンは
スヴェトラーナはスターリンの実像を描き出そうとした。結局のところ、彼女ほど身近にスターリンを知る者はいなかったからだ。(同前)
スヴェトラーナが追及したのはスターリンの個人的犯罪にとどまらなかった。スターリンだけに責任があったのではない。独裁者による支配には共犯者の協力が必要だった。(同前)
と述べている。
こうした視点に導かれ、アリルーエワの反スターリン体制への批判の射程はソ連崩壊後のロシアにまで及び、プーチンの本質を見抜いて次のように批判している。次の文章は、エリツィンの辞任後、プーチン政権が誕生する直前の1999年に、アリルーエワが友人の火山学者トーマス・ミラーに宛てて書いたものだ。
私の意見では、ロシアは急速に過去に回帰しつつあります。恐るべきことに、KGBのスパイだった男が今や大統領代行なのです! 次の大統領選挙で国民がプーチンに投票しないことを願うのみです。…
昔の共産党政権時代を経験し、冷戦の歴史を知る者にとっては、これは明白なことです。民主主義諸国の指導者たちはプーチンをボイコットすべきです。西側諸国は祝杯を上げてプーチン政権を歓迎しようとしています。ああ、トーマス、気をつけなさい。ロシアが民主主義を目指した時代はもうとっくに過去のものとなってしまったのです。(下p.379-380)
ミラーはアリルーエワからの警告を聞いて「権力の動向に関するスヴェトラーナの的確な洞察力」を感じた(下p.379)。
アリルーエワは「スターリンの娘」であることから逃れられなかったけども、スターリンの娘であるという呪いを生きることによって、スターリン体制はベリヤやエジョフらの「悪の側近」によるものでもなく、スターリンの「狂気」によるものでもなく、まさにスターリンを頂点とした体制によって引き起こされたことを正確に洞察し、そのような体制が現代ロシアにも続いていることを見抜いた。
つまり政治的ポジションとして、スヴェトラーナ・アリルーエワ、すなわち「スターリナ」は自分の生き方を通じて到達した、徹底かつ慧眼の反スターリン主義者であったということができる。
そのほか、本書を読んで感じたことを、思いつくままに書いてみたい。
自分の頭で物事を考えない人々は現代の先進国にもいる
スヴェトラーナの伯母マリア・スワニーゼは、1937年前後の「大粛清」時代に、古参ボルシェヴィキたちの見世物裁判について次のような感想を書いている。
一九三七年三月十七日
私の魂は怒りと憎しみで燃え上がっている。単なる死刑ではとうてい飽き足らない。あんな邪悪な行為をする連中は、たっぷり拷問したうえで、生きたまま火炙りにすべきだ。党に寄生していながら祖国を裏切っていた連中だ。しかも、あんなに大勢いたとは! 寄って集って私たちの社会を破壊し、革命の勝利を台無しにし、私の夫や息子を殺そうとしていたのだ……。
今度の裁判では、次から次に、大物幹部の名前が現れた。長い間、私たちが英雄と思っていた幹部たちだ。彼らは国家の大事業を指導し、国民の信頼を集め、何度も褒賞を受けてきた。その彼らが、実は、人民の敵であり、裏切り者であり、贈収賄罪の犯人だったのだ……いったい、どうしてこんなことが見過ごされてきたのか?(上p.112)
ここには、スターリン体制そのものを疑うメンタリティは微塵もないというソ連民衆の一つの類型がある。罪名をでっち上げられた人たちが「除名」なり「追放」なりされて、やがて銃殺・流刑にされ、その人たちがいかに天下の大悪人であったかを口を極めて罵っている。
スターリンやスターリン官僚たちが、どれほどひどい抑圧と陰謀をそれらの人々に押し付けてきたのか。そのことを体制の外から、時には中から告発があっても、マリア・スワニーゼのようなソ連民衆には届かなかった。あるいはそのような告発を自分の頭で考えて、スターリンや官僚たちを疑うということを全くしなかったのだ。
ぼくはつい最近もそのような光景を見た。「ソ連のような識字率の低い発展途上国だったからそういうメンタリティが残っているんだ」とはとても思えなかった。先進国であっても、自分たちのコミュニティの支配層の抑圧には気づかないし、声もあげられないということがある。マリア・スワニーゼのような人は先進国にも無数にいる。
そして、当のマリア・スワニーゼはどうなったか。
マリア・スワニーゼは本気で怒っていた。この段階では、彼女は自分の怒りの正当性に何の疑問も感じていなかった。その状態は彼女が逮捕されるまで続いた。
同じ年の十二月二十一日、マリア・スワニーゼは夫のアレクサンドル・スワニーゼとともに、NKVDによって逮捕される。スターリンの親族から出た最初の逮捕者だった。(上p.112-113)
アリルーエワの個人主義的な強さに魅力を感じる
本書の冒頭にアリルーエワが亡命を決断し実行するシーンが描かれる。また、パートナーの散骨をするためにインドすなわちソ連国外に出られるというまたとないチャンスをアリルーエワが手にして、どうやって亡命を果たすかは本書の中で描かれる。
そこから、アリルーエワが強い意志を持った個人主義者であることを感じる。思いつきのような決断はあるが、そういう思い切りも含めて、人生のポイントとなるところで果断をする彼女の強さのようなものに魅力を感じる。
スヴェトラーナの次の説明は自分の個人主義的な決断と、それを予想しもしないクレムリンの頭の悪さの鮮やかな対比になっている。
人間が個人として独自に何かを決断できるということが彼ら〔クレムリン〕には信じられないのだ。私が自分自身の決断でロシアを去ったことも、私の亡命が国際的陰謀ではなく、何らかの組織による活動でもなく、誰の助けも借りずに私が単独で決断した行動であることが彼らには信じられないのだ。彼らは人間のどんな行動も何らかの組織によって支配されるもの、つまり集団的なものだと思っている。彼らは人々が同じように思考し、同じ意見を持ち、政治的同じ方向を向くことを目指して五〇年間にわたって営々と努力してきたが、その努力が失敗に終わって、独自にものを考える人間が現れたことに驚き、怒っているのだ。(上p.399-400)
これもぼくは他で似たようなものを見た。何でもかんでもなにかの大きな力が陰で動き、それに操られ、支配され、膝を屈した人間が「反共宣伝に憂き身をやつしている」(本書上p.396)のだという説明。そして、スヴェトラーナ・アリルーエワに対した時のように、特定の個人に攻撃を集中するのだ。
だが、そこに屈せず、自分の生き方を貫き通した「スターリナ」すなわちスヴェトラーナ・アリルーエワに強い魅力をぼくは覚える。
アリルーエワの描写
スヴェトラーナ・アリルーエワの姿を描写した記述は様々ある。特に、周囲とのトラブルが多く、激昂して絶交してしまうことを繰り返してきた彼女は「その頃のスヴェトラーナの心理状態を双極性障害あるいは躁鬱症と名づける人もいるだろう」(p.226)と言われている(著者サリヴァンはそうした評価には留保を付けている)。
そのうち、後半生の、老境に入る前の彼女を描いたものとしては、娘の同級生の母親ロザモンド・リチャードソンの描写は端的だ。
彼女は本当に面白い人だった。
スヴェトラーナには愛すべき一面があった。はっきりと定義することは難しいが、心の一番奥に普通とは次元の違う深さを秘めた人だった。類いまれな温かさで他人に感応できる人間だった。スヴェトラーナには深い精神性が備わっていた。広い意味での信仰といってもいいだろう。しかし、彼女はその深さを表現する方法を身につけていなかった。インドの神秘思想でさえ彼女には十分でなかった。その欲求不満が彼女を突き動かしていたのかもしれない。答えは見つからなかったが、彼女は妥協することを知らなかった。(下p.242-243)
次の角を曲がれば欲しかったものが見つかるのではないかと期待するのが人間の常だろう。スヴェトラーナは深い傷を追っていたが、非常に聡明な女性だと私は感じていた。その知性は並外れており、精神は偉大だった。しかも、楽観主義者で、信じられないほどエネルギッシュだった。ただし、そのエネルギーは間違った方向に向けられることがあった。また、怒りの発作を起こすこともあった。それはスヴェトラーナの人格の一部だったと私は思う。それも、これも、彼女の一面だった。(下p.243)
彼女はもちろんすべてをコントロールしたかった。その気持ちはある程度理解できる。ありとあらゆる評価が押しつけられていたから、彼女は自分についての情報の中身そのものを管理したいと思ったのだ。しかし、彼女のやり方は極端だった。彼女の主観では当然の対応だったかも知れないが、それは人々を仰天させることがあった。彼女は全員を薙ぎ倒して進んいった。(下p.243-244)
本当に身近にいたら、付き合うかどうかはわからない。しかし愛すべき、そして知的に深い、だが、不器用で手に負えない側面があることを、この評はよく伝えている。
今、自分の人生において、個人主義的な要素の重要性が大きく前に押し出されている。自分の人生の中でそれは大きく前に出たり、引っ込んだり、対立物と調和したり、また小さくなったりしてきた。高校生の頃は、自分の中の個人主義がマックスとなり、それが組織というものと格闘しながら付き合いを始めた時代が幕開け、それはずいぶんと長く続いた。
いま自分の頭で考えずに大きなものに埋没してしまう惨めな生き方とは決別し、個人の生き方を主軸にしながら、それを時代や組織と調和させる新しい生き方が必要なのだと強く考える。アリルーエワの生き方は、その調和を全く成し遂げられなかった生き方であるが、檻を破ろうした個人主義のまぶしいばかりのほとばしり、そこに漂う悲哀こそが、むしろ今のぼくの心を打つ。
「スターリナ」
スヴェトラーナ・アリルーエワの旧姓は「スターリナ」である。
したがって、母親の姓に戻した「スヴェトラーナ・アリルーエワ」の前は「スヴェトラーナ・スターリナ」であった。
しかし、[在インド米国二等書記官ロバート・]レイルには疑わしい点がまだ残っていた。なぜ彼女の姓は父親のヨシフの姓であるスターリナ〔スターリンの女性形〕またはジュガシヴィリ〔スターリンの本名〕ではないのか? 女性は答えた。すべてのソ連市民に認められている改姓の権利を行使して、一九五七年に父親の姓スターリナから母親ナジェージダの旧姓アリルーエワに改姓したのだ。(上p.18)
一九五七年九月、スヴェトラーナはスターリナの姓を母方のアリルーエワに変更しようと決心する。スターリナ〔スターリンの女性形〕という言葉の金属的な響き〔スターリは鋼鉄を意味する〕が心を傷つけ、苦しめるというのが彼女の言い分だった。(上p.282)
だから、本書にも「スヴェトラーナ・スターリナ」の頃の記録は頻繁に登場する。
良い子のスヴェトラーナはスターリンの自慢の娘だった。スヴェトラーナがいかに純粋培養された優等生だったかは、彼女が三年生の時に校長のニーナ・グローザの業績を称えて書いた作文からも、はっきりと読み取ることができる。「校長先生の指導の下で、私たちの学校はソ連邦で最も優秀な学校の資格を獲得したのです。スヴェトラーナ・スターリナ」。彼女はすでに「共産主義を目指す小さな闘士」だった。(上p.102)
第二五模範学校についてのオリガ〔・リーフキナ/スヴェトラーナの同級生〕の思い出は楽しいものではなかった。さすがに教師たちが貧乏を理由に生徒を差別することはなかったが、子供たちは事あるごとにオリガに劣等感を思い知らせるような扱いをした。後に過去を振り返って、彼女は証言している。「最も得意になっていいはずなのに、自分の地位にこだわることなく、本当の意味で『人間性』を堅持している人物が一人だけいた。それがスヴェトラーナ・スターリナだった」。(上p.145-146)
スターリンの娘であることを強調し、理解をさせるため、あるいは単なる誤解から、スヴェトラーナを改姓後にも「スヴェトラーナ・スターリナ」と記述することがある。
三月六日、〔国務長官〕ディーン・ラスクはソ連駐在のルウェリン・トンプソン大使に秘密電報を打ち、スターリンの娘スヴェトラーナ・スターリナが米国への亡命を希望して保護を求めて来た旨の情報を伝達した。(上p.354)
それはモスクワの米国大使がUPI通信の特派員ヘンリー・シャピロから得た情報に関するメモだった。
〈モスクワ発
一九六七年三月十三日
役に立つ可能性のある情報を入手したので、国務省に伝達されたい。三月十二日の晩に行われたポーカー・ゲームの席で、シャピロ記者はスヴェトラーナ・スターリナの子供たちに接触し、取材記事を書いたことを漏らした。
シャピロ記者によれば、モスクワではスヴェトラーナ・スターリナは色情狂であるという噂が流されている。一方、彼女の息子と娘は母親はいずれは帰国すると確信しており、今は夫を亡くして気が動転しているのだろうと考えている。シャピロの意見では、スヴェトラーナ・スターリナは一般市民の生活水準をはるかに上回る快適な暮らしを保証されていた。取材に応じた息子と娘は二人とも感じの良い人物で、母親を愛している様子だった。〉(上p.370)
そして、現在もスヴェトラーナ・アリルーエワをスヴェトラーナ・スターリナと称することはある。つまりスターリンの娘であることを強調するためだ。
独裁者の子供が他国に亡命した例というと、かつてソ連の元首相スターリンの娘スベトラーナ・スターリナ(当時41歳)がアメリカに亡命し、世界を驚かせたことがあった。ちょうどいまから50年前のきょう、1967年4月21日、スベトラーナは厳重な警戒のなかニューヨークのケネディ国際空港に降り立っている。