立憲民主党・本多平直議員(辞職)の件についてぼくが書いたことに、松竹伸幸が批判的激励?を書いていた。
自民党の異論の吸収方式
ぼくが政党の内部議論は非公開とした上で自由な発言が保障されるべきだとしたことについて松竹は
いまどき、上から下まで一枚岩を誇るような政党は、絶対に国民から受け入れられることはない。これは間違いのないことである
として、
だったら、何よりも大事なことは、それを基準にして政党の運営ルールを定めることではないだろうか。個々人の考え方は大事にしてもいいし、外に向かって表明してもいいが、「政党としてはこうだ」と説明するということだけは守るということである。
という原則を対置している。これなら政党の考えがどこにあるかという混乱も起きないし、どこまで政党人が「自由」に発言していいのか、その境界線をめぐって神経を尖らせ、詳細すぎる内規(これはダメ、あれはOKなど)作りのようなものに熱中しなくて済むというわけである。
これはこれで一つの考え方ではある。
今この議論にあまり深く立ち入るつもりはない。
ただ、この点については、松竹の意見を聞いても、なおぼくとしては依然として同じ考えである。
いくら「政党としては消費税増税反対です」と言明しても、所属の国会議員が消費税増税賛成を街頭で説いて回り、運動を煽っていたら、やはりそれはどうなのかということになる。耐えかねるのであれば新たに政党を作って、トーンを細かく分けた方が国民にはわかりやすい。
しかし、松竹の主張を聞いて、ぼくが全く動じないわけではない。実際松竹の言っていることは一理ある。
松竹の言っていることを少し組み込めば、国会議員については厳格に適用し、それ以外の党員については「運用としてゆるくやる」ということしかないと思う。「そんなのは指導部の温情頼みで、客観的なルールに基づく運営・統治に反するではないか」と言われそうだが、一般社会ではないのだから、どこまで詳細なルールを設けても、解釈の余地などどうにでもなる。同じ目的を達成するために結ばれた結社においては、完璧なルール・調停制度を望むことは難しく、結局指導部を信頼するかしないかということであって、それを組織内選挙で表明するしかない。
さて、その議論は一旦おくとして、この問題にかかわって最近読んだ山本健太郎『政界再編 離合集散の30年から何を学ぶか』(中公新書)に次のようなくだりがあって興味を引いた。
山本は自民党の「強さ」を書いているが、その中で、異論をどう調整し、吸収するかを書いている部分があるのだ。
自民党には、異論を吸収して、規律を保つ仕組みが日常的に埋め込まれている。その最たるものが、法案の事前審査制における全会一致原則である。政調会の部会、政調会、総務会と進む審査で、全会一致原則が貫かれていることで、異論が強ければ前に進めず、逆にいえば拒否権が強力であるがゆえに少数派はどこかで矛を収め、多数派に倣うという仕組みになっている。ひとたび矛を収めれば、全会一致なのだから党議拘束をかけることが正当化され、規律は保たれることになっている。〔…中略…〕規律を維持する仕組みとしてみれば、実によくできた制度である。(山本前掲書p.209)
これによって選択的夫婦別姓制度の導入、LGBT関連法案がどのような扱いを受けているか、われわれはよく知っているわけだし、実体として本当にこうなのかはぼくにもわからないところがある。
ただ、もしこれが実際にそうであれば、党内民主主義という点だけからみれば、興味深いことではある。
この仕組みを応用すれば、松竹のいう「党内での議論を公開で自由にする」ことのメリットを容れながら、ぼくが懸念する問題をクリアできる可能性はある。
もちろん詳細を詰めたわけではないので、あくまでいまのところのぼくの第一印象に過ぎないのだが。
政界再編史のハンドブックとしての価値
本書『政界再編』は、戦後政治全体、しかしその中でもサブタイトルにあるように、小沢一郎が自民党を飛び出していく90年代からの政界再編の動きとその中心ロジックを簡潔に追った本である。
80年代末までの記述は、いわば自民党・社会党という55年体制のロジックをおさらいしているわけで、それがなぜ政権交代として機能せず、90年代に入って政界再編・政権交代として機能したかを振り返るための前提に過ぎない。
本書への評価はいろいろあっても、「政界再編史」としてのハンディな一冊という価値は揺るがないであろう。冒頭に「政党変遷図」が載っているが、これだけ多くの政党が離合集散を繰り返したのかという思いが湧いてくる。
実はウィキペディアにも似たような政党の系譜・変遷の図はあるのだが、山本という政治学者の解釈が加わっていることは一つの価値であろう。例えば「日本を元気にする会」はウィキペディアの図では無視されている。だが、山本はこれをみんなの党の解党後の組織として図に位置付けている、などである。
「よりよき統治」としての野党共闘=異質なもののの組み合わせという実験
内容については太いところで賛成の点と異論がある。
山本は、90年代以降の政界再編のポイントを
外交・安保政策や経済政策といった伝統的な政策領域についての理念は無理に一本化しない代わりに、別の団結可能な理念で代替する形をとってきた。それが、自民党政権と比較して「よりよき統治」を目指すという方向である。(山本p.223)
としている。
理念を大きく変えてしまう政権交代ではなく、「よりよき統治」、つまり「よりましな政権」というわけである。政策や理念は少しだけ左右にずらす、というほどのものであろう。
山本は言う。
前原誠司らが小池百合子とともに目指した「希望の党」騒動で、あそこで目指された政治は「自民党よりやや左の中道保守」(同p.229)であり「政策位置のことだけを考えればこれは至って合理的な選択である」(同)と山本は考える。
この目線から見て、現在の共産党を含む野党共闘路線はどう評価されるのか。
のだと言う。そして、
野党共闘を重んじるあまり、中道の有権者を引き付けられなくなってしまっては本末転倒である。共闘の構築は中道の有権者を引き付けることが前提とならなければ、持続可能なものにはなりえないと思われる。ゆえに、共産党からの選挙における一方的な協力を期待しつつ政権構想の共有というところまでは踏み込めない状況が続くのではないか。(同p.232)
というまことに(共産党から見ると)「虫のいい」結論になる。
過激な政策をとると思われている共産党は、すでに政権参加について問題を整理している。要するに一致する範囲でしか政権の政策にしないのだ。安保条約も発動するし、自衛隊もなくさないし大いに使う。国民の7割が望んでいる核兵器禁止条約参加すら、共産党にとっては野党連合政権ができたら実践してほしいと願っているテーマだが、野党間では一致を見ない。一致しなければ、いくら野党連合政権ができても「条約には参加しない政府」ができるのである。
国民の現時点での印象は脇に置いとくとして、政策の中身でいえば、これはまさしく山本のいう「よりよき統治」すなわち「よりましな政権」である。理念はほんの少しずれる程度であろう。山本曰く「最も多くの有権者」が好むという「中道の穏健な政治」であり、せいぜい「中道左派」程度のものでしかない。
ぼくからみた、現時点での共産党の野党連合政権における役割とは「急進的な左派政策の方向に政権をひっぱる」ことではなく、「起きる問題に対して連合政権として民主的手続き上正しく・論理的・整合的に対応する」役目、つまり仕切り役としての役割だろうと思う。沖縄基地問題や消費税問題など、民主党政権はこれを間違えて破綻した、というのがぼくの見立てである。
そういう名仕切り役、理屈と手続きにうるさく、整合性のある対応ができるのは、良くも悪くも「正論家」である共産党の役割が大きいと思う。ま、それは単にぼくのつぶやき。異論もあるだろうが、別に構わない。
本題に戻る。
ぼくからみれば、90年代の非自民連立政権、2000年代の民主党政権は、連立政権ではあったが実質的に同質の政党の集まりであった。同質の政党の間での調整などそれほど大した課題ではない。
今回もし野党連合政権ができれば、共産党という異質の政党が加わる可能性がある。
野党連合政権は、「異質なもの」が「よりよき統治」という小幅修正のためにどう団結できるかという実験であり、そこがまさに試されているのだと言える。そんなことは日本の戦後政治でやったことがないのである。
「中道の穏健な政治」をつくるために立憲民主・国民民主・社民・れいわ・共産は組めるはずなのに組めないことの方がむしろ謎だと言える。その鍵になっているのは「反共」であろう。
山本は本書で、野党共闘を阻んでいる「反共」についてもう少し考察すべきであり、当為論として「異質なものの連合によるよりよき統治という実験」について考察すべきであった。