倉沢愛子『インドネシア大虐殺』

 東南アジア関連の本を読んでいて、“インドネシアは一番民主的な国”という評価をみた。

 ぼくの記憶の中に「インドネシアでは共産党員が200万人くらい虐殺されていたと思うけど…」という断片が浮かび上がる。

 むろん、それは「昔」の話のはずだから、そのままではあるまい。

 いったい、あの事件はどういうもので、今どんな評価がされているのか。そして政体や政治的空気はどうなっているのか知りたいと思っていた。

 そこで本書を手に取った。

 2020年というごく最近に出た本であったが、ぼくは知らなかった。

 この事実を聞いたこともないという人も多かろう。事件の概要は次のとおり。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-07-29/2012072907_01_1.html

9・30(きゅうさんまる)事件 インドネシアで1965年9月30日に発生した軍内部「左派」の将校によるクーデター未遂事件。当時のスハルト少将(68~98年、大統領)を中心とする陸軍は、インドネシア共産党が事件に「関与」したとして弾圧。アイジット書記長など指導部をはじめ数十万人に上る党員と家族、支持者らが虐殺され、300万人いたとされる同党は壊滅しました。

 9.30事件は8人の軍幹部が殺害された事件。これとは区別して、その実行の裏で糸を引いていたと決めつけられたのがインドネシア共産党で、その後大虐殺が全土に広がっていくのである。

 当時インドネシア政権の指導者はスカルノで、インドネシア独立運動および世界の非同盟運動のリーダーの一人であった。アジア最大規模の巨大勢力を誇っていたインドネシア共産党を重用する名うての「容共派」であったが、この9.30事件から続くインドネシア共産党弾圧=大虐殺を通じて、実権を失い、幽閉され、1970年に死亡する。デヴィ夫人は、このスカルノの第三夫人であった。

 

 本書で最も衝撃を受けたのは虐殺の様子を描いた第Ⅱ章「大虐殺——共産主義者の一掃」だ。

 50万とも200万とも言われ、いまだに正確な犠牲者数さえ明らかでないのだが、カンボジアポル・ポトの虐殺に匹敵するような規模で、インドネシア共産党PKI)員やそのシンパと見なされた人が短期間のうちに殺害されている。

 本書はこの広がりを次のようにまとめている。

九・三〇事件の後、八人を殺害した容疑で直接の実行犯やその背後にいた関係者に掲示的な制裁が科され、これをもってスカルノ政権は事件の幕引きを図ろうとした。しかし責任追及を求める声はそれだけでは止まず、まもなく官公庁や国軍の人間を中心に大規模な「思想狩り」がおこなわれ、司法の手を超えた制裁が下される様になる。そして、直接・間接を問わず、事件に関与した者は容赦なく粛清された。(本書kindleNo,1010)

 「思想狩り」は「スクリーニング」と呼ばれた。徹底的な査問によって思想チェックをして、党員であるというだけでなく「左寄り」とされた人も広く狩られた。

 初めは逮捕し、投獄する形だったが、やがて牢があふれかえるようになる。

やがて事態は悪化し、共産主義者を一掃するために、「拘留」ではなく「殺害」するという極めて残酷な手段がとられるようになる。虐殺はまだスカルノPKI非合法化に反対してる段階からすでに始まっており、怒涛の勢いで各地に広まっていった。虐殺に加担した人々は「(九・三〇事件で殺された)将軍一人の命に対して一〇〇万のPKI党員の命を!」と叫んで街頭に繰り出した。(本書1122)

 それを行ったのは誰だったのか? 住民などが直接は手を下した。

 この大量殺戮は、PKIとその関連団体に対する住民の怒りが「自然発生的に」噴出したものだと公的にはいわれている。確かに殺害に手を染めたのは、治安組織や官憲ではなく、民間人であったが、それは必ずしも「自然発生的」なものではなかった。個々人が自分の意志で手を下したのではなく、殺害者はある種の集団単位で動員されている。そしてその地方によって、行動の中心となった組織は様々である。(本書1128)

 最も多かったのはイスラム系団体の青年組織だったという。また、反社会的勢力も殺戮に加わっている。

 武器は、銃などではなく、日常生活で使う蛮刀や鎌などだという。

軍隊が登場して銃で発砲、というケースは極めて少ない。(本書1142)

しかも殺害の手口は極めて残酷で、一気に殺さずに痛めつけ、時間をかけて苦しめたり、目玉をえぐったり、耳を切り取って勇敢さの証しとして持ち帰ったり、首を切断して見せしめのために人目につくところに「展示」したり、また被害者が女性の場合は、性器を槍で突き刺すなどの性的暴力や強姦もおこなわれた。(本書1142)

 殺戮としての「効率」を考えた場合、「非効率」ではないか、と思うのだが、それこそがまさに、権力による組織だった直接殺害ではなく、住民が地域で憎悪によって行ったという一つの状況証拠にもなるのだろう。

 人を殺したこともない民間人は、殺害で吐き気や頭痛に襲われたが、やがて慣れていく。また、精神的ショックを、殺害者の「生き血」を飲むことで克服するという迷信を実行する者もいたという。

 同時に、殺害をためらうと「お前も仲間か?」と思われるために、命令に従ったという作用もあったようだ。

 著者も次のように書いている。

このように「手の込んだ」やり方で一人ひとりを殺害して、何万人、何十万人を殺すというのは、考えただけでおぞましく、気が遠くなりそうな話である。熱病のようにインドネシアを揺るがした殺人劇は、地方によって異なるものの、連日連夜おこなわれ、多くは終息までに数ヵ月かかっている。(本書1149)

 殺害方法についてのパターンも本書には書かれている。ここでは紹介しない。詳しくは本書を読んでほしい。

 が、名前を呼ばれて連行される、というパターンが多かったという。

 そんなことをやったら、大暴動・大騒乱が起きるんじゃないのか? と現代日本人の「普通」の感覚で思ってしまうのだが、驚くべきことに次のような光景が広がっていたという。

いずれにしても、その場で阿鼻叫喚して逃げ惑うというような光景はあまりなく、彼らは待ち構えている運命を知りながらも、観念したように連れ出されていったという。無抵抗や無気力は当時のインドネシアの村落の各地で見られた傾向である。(本書1200)

 これは人権意識の差であろうか、と思う。

 

 著者は、もともと地域住民の間にどのような対立や感情の燻りがあったかを説明した後で、なおもこのような虐殺をしてしまう理由を問うている。いくつかの推察を書いては消し「謎」という基本結論を出しながらも、「虐殺を助長した外的要素」として次のように記す。

一つは、共産主義者に対する悪魔的な流説を広め、嫌悪感をことさら煽るようなフェイクニュース型の宣伝や、「今やつらを殺さなければ、次の瞬間にはお前がやられる」というような、恐怖心を植えつけるマインドコントロール型の宣伝である。大虐殺は、これらの巧みな流布によって引き起こされた心理戦争だったといえる。(本書1297)

 もう一つの外的要素は、諸外国が黙殺したことである。他国がこの虐殺に目をつぶり、それを抑止する発言や行動を何も実行しなかったことにより、事態はとどまることなくエスカレートした。(本書1303)

 現今、ガザをめぐって起きている状況は、これが過去のものとは言えないことを思い知る。また、ぼくは表現の自由を求めてやまない一人であるが、同時にヘイトスピーチを緊急に規制する必要はまさにこうした事態のためにあるのだろうと思った。

 繰り返すが、このような「直接の下手人としての住民」がある一方で、本書では、第一の要素の扇動と情報統制が誰によってなされたのか、それは国軍ではないか、ということについて記述を進めている。

 権力を握っている支配層の人間が巧みに情報を統制して、構成員を扇動するという光景は、国家というステージでなく、巨大な組織体の中でも起こりうる事態である。

 

日本共産党及び「赤旗(アカハタ)」も頻繁に登場

 本書には、日本共産党や機関紙「赤旗(アカハタ)」も頻繁に登場する。関心のある人は、実際に本書を手にとって関連する部分を読んでみてほしい。

 1箇所だけ紹介しよう。

〔日本〕共産党の機関紙「アカハタ」も一九六六年初頭まで特派員をジャカルタに置いており、佐々木武一記者が帰国後の一九六六年二月一四日付の記事で、詳細に各地の虐殺の様子を報道し、「右翼はインドネシア共産党PKI)と人民に対しヒトラーナチスをもしのぐ残虐なテロ、恥知らずな中傷と迫害を加えてきた」と報じている。(本書1424)

 

ASEAN結成のきっかけに

 スカルノ政権は非同盟運動に熱心で、しかも国内ではインドネシア共産党を統治パートナーとし、中国とも親しかったことから、「容共主義」的であった。

 ぼくはスカルノが国連脱退騒ぎを起こしていたり、マレーシアとも紛争を起こしていたことなどを知らなかった。また、オリンピックをめぐる騒動も知らなかった。

 しかし、スカルノ政権が事実上打倒され、スハルトに政権が移ってからは、がらりと雰囲気が変わる。

マレーシアとの関係が緊急に修復されると、それによって、東南アジアの主要国が政治的な結束を図ることが可能になり、翌年にはインドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、フィリピンの反共五カ国からなる東南アジア諸国連合ASEAN)が成立した。これは、当時共産化の道を歩んでいたベトナムラオスカンボジアインドシナ三国に対峙する重要な反共の砦となり、アジア冷戦構造における力関係に大きな変化をもたらした。(本書1843)

 ASEANが反共の砦として結成されたことは他の本でも読んでなんとなく知っていたが、本書を読んで、インドネシア共産党虐殺からスカルノの失脚がその契機であったということは知らなかった。

 逆に言えば、そういうASEANが今はインドシナ3国をむかえて一致結束しているというのは、まさに変われば変わるものだという感慨を持つ。

 

「敗者たちのその後」に複雑な思い

 読み物としての圧巻は、なんといっても第Ⅳ章「敗者たちのその後」であろう。

 著者が行った聞き取りが載っている。

 どうにか虐殺を逃げおおせたが、ずっと終われる人生となり、夫婦や家族の絆もズタズタになってしまう様が読んでいてつらい。

 

 「思想狩り」をされた政治犯(タポル)は言うに及ばず、その家族・子孫もいわば「アカの血筋」であるということを役所や町内会(日本統治時代に輸入された隣保組織)の台帳に記され、公式に差別をされ続けたのだという。これはスハルト政権が倒される1998年まで続き、その後も、PKI関係者の復権を図ろうとしたワヒド大統領が失脚させられるなど、

いかにインドネシア社会の中に、共産主義に対する恐怖や抵抗が根強く存在しているかの証左である。(本書2317)

 9.30事件の後に大虐殺が起きたことは、一度だけ教科書に載ったが、それはのちに回収されてしまう。

新政権が積極的に前政権のジェノサイドを暴いていったカンボジアの場合とは対照的に、この国では虐殺の地に慰霊碑一つ建てられていない。(本書2343)

 それでも先に紹介したユドヨノ政権、そして現在のジョコ政権でも見直しの動きがあり、歴史は少しずつでも前に進んでいるのだろうかと思わせる。

www.jcp.or.jp

www.asahi.com

 だが、当の倉沢自身は否定的だ。

www.chuko.co.jp

しかし、現地で暮らしてみるとわかりますが、実際は今も様々な人権侵害や市民的権利の制限がおこなわれています。表向きはイスラーム過激派の活動防止のためと謳っていますが、国のイデオロギー(建国五原則)に従わないものに対しては、非国民であるという評価を容赦なく下しています。そのような中でジェノサイドの歴史的精算が進むはずもありません。

NGOや国家人権委員会が独自に調査して報告書を政府に提出しても、殺害の責任を問われた者もいなければ、名誉回復された政治犯もいません。2015年11月には、非人道的な被害を受けた人や元政治犯が原告となって、1965年の虐殺の責任を問う国際人民法廷がハーグで開催されました。これまでの調査結果が表に出され、インドネシア政府の対応が注目されましたが、結果的に政府は黙殺しました。

 

 

 まずは本書を読んで事実を知ることから始めたい。

 

補足(2024.2.16)

 ASEANの出発点が「反共の砦」であったかについては、以下の記事を参考に。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com