政治家や役人が使う言葉の異常さ・奇妙さは、日々SNSで指摘され、ネタにされている。中には「ご飯論法」のように、公式の答弁としての基礎を破壊してしまうような重大性を抱えている言葉の使い方さえある。
本書はイアン・アーシーという、一見すると「ずいぶん怪しい名前」(p.3)だが、「正真正銘のへんな外人」(同前)として実在するカナダのフリー翻訳家が書いた、日本の政界にはびこる特殊な単語・会話を取り上げて、それを理解し、うまく使いこなすための本である。練習問題までちゃんとついているワークブックなのだ。
ぼくが読んで「なるほど」と思ったのは、『単語編』の冒頭にある「原則として」と「総合的に」である。
まず「原則として」。東京オリンピック・パラリンピック中のアスリートの検査頻度についてただされた、丸川珠代の次の発言をいじる本書のくだり。
文例(レベルチェック用)
ありがとうございます。このご指摘の論文は、もう既に皆さん、取材でお読みいただいていると思いますけれども、私どもがきちんと読ませていただきましたところ、明確な事実誤認や誤解に基づく指摘が見受けられます。まず、明確な誤認についてですが、論文ではアスリートへの検査頻度が明確ではないとしていますが、プレイブックには、アスリートに対しては、原則として毎日検査を実施するということが明示してあります。(二〇二一年五月二十八日)
解答の求め方
このなかに典型的なぼかし言葉が潜んでいますが、みなさんはわかりましたか? いっしょに問題を読み解いていきましょう。
選手の検査頻度がはっきりしないという論文の指摘を、丸川大臣は「明確な事実誤認」と片づけていますね。その根拠は、プレイブックに「原則として毎日検査を実施する」と「明示」してあること。当時のプレイブックを確認したら、たしかにそう記されています。
でも、ちょっと待ってください。「原則として毎日検査を実施する」とは、どういう意味でしょうか。意味の近いものを選んでください。
(1)毎日かならず検査をやる。
(2)いちおう毎日検査をやるようにするけど、毎日やらない場合もあるかも。
答えは(2)ですね。これで検査頻度は「明示」してあると言える?
まあ、丸川大臣だったら言えるらしい。そこが「原則として」の妙味なのです。具体的な数字や基準を示しながら、それに拘束されるのを避けるための、例外の余地をいくらでも残すことができます。一方、聞いている側は「原則」という重々しい響きに惑わされ、そのトリックになかなか気がつきません。とくに口のうまい政治家に言われた場合は。
というわけで、レベルチェック問題の正解は「原則として」ですね。お役人や政治家が好んで使う典型的なぼかし言葉なのです。(『単語編』p.12-13、強調は特に断りがない限り引用者。以下同じ)
朱書きの部分は「原則として」という言葉について解像度をあげて観察し、どのような効用を持っているか、そしてなぜ騙されてしまうかが、簡潔に書かれている。
これに加えて、丸川の場合、この該当ルールの持ち出し方が、思わせぶりで、自信満々なところ「明確な事実誤認や誤解に基づく指摘」「まず、明確な誤認についてですが」もそうした「ぼかし」を効果的にしている一因なのではと思わざるを得ない。
あまりにもはっきりと書いてあるよね、見落としちゃったかな? みたいな。
これをもし自信なさげに言ってしまったら、全く成り立たないだろう。
「あー、あの、プレイブックの方にはですね、一応『毎日検査を実施する』って書かれてるんですよね。まあ、あの、『原則として』ということではありますが。はい。だから、検査は毎日きちんとやることがですね、その、基本になってはいるんですよね。ええ」
著者はちゃんとオチも書いている。
みなさん、正解できましたか? 正解できなかった方もだいじょうぶ、ご安心ください。本書での学習を終えたら、この手のまやかしを見抜く能力はしっかり身につきます。
原則として保証します。(同前p.13)
「参考」のコーナーではギャグにまぶして次のようなことも書いていて、まさに「参考」になる。
プレイブックの英語版では「原則として」の部分はin principleとなっていました。例の医学雑誌の論文の著者たちはこのin principleをどのように解釈したのでしょうか。標準的な英英辞典でこのフレーズを調べてみましょう。定義はじつにおもしろい。
「理論上ありうるものの、現実にはそうなるともかぎらないとことを示すのに使われる」
著者たちは「原則として毎日検査が実施されます」の「原則として」をこのようにとらえたにちがいありません。だからこそ、検査頻度が明確ではないと主張したんでしょう。この英語の定義はそのまま「原則として」にも当てはまりそうですね。(同前p.13)
著者は、この「原則として」がさらに日本の政治文化の中では例外との逆転を果たしてしまうことを、やはりユーモアの中で暴露していく。具体的には老朽原発の運転の「原則40年」という期限が、一つも守られていない状況となり、さらに岸田内閣になって完全に原則と例外が入れ替わってしまったことを国会答弁から明らかにしている。
抜け穴という例外を拡大してついには原則との逆転をさせてしまうという転倒を、著者は見事に描いている。その最終的な形として「軍隊は持たない」とした日本国憲法第9条をあげ、「原則としてこれを保持しない」「原則としてこれを認めない」という「原則としての平和国家」を描き出す。
考えてみれば、このように、小さな建前の抜け穴だったものが、いつの間にか現実の大きな原則に入れ替わってしまっているという政治の現実は無数にあるのではないかと思いをいたす。
たとえば、次のような条文はどうだろうか。
博物館法 第26条
公立博物館は、入館料その他博物館資料の利用に対する対価を徴収してはならない。ただし、博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合は、必要な対価を徴収することができる。
すでに「博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合」に限らず、入館料を徴収するのが当たり前になっている。
あるいは、次のような条文。
財政法 第4条
国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。
もはや説明の必要もないだろう。
次に「総合的」。
本書では、安保法制、日本学術会議の選任などをめぐって「総合的に判断」「総合的・俯瞰的に判断」という言葉が、まったく具体性がなく、馬鹿らしいほど堂々巡りをしている様を国会での質疑応答から暴き出している。
この言葉は、福岡市議会でもみた。
市の名義後援が取り消された企画は文化芸術基本法に定める「文化活動」にあたるもので、名義後援取消などの形での行政の介入を禁じているではないかと共産党(山口湧人市議=当時)が追及している。
◯山口(湧)委員 本市は、2015年に平和のための戦争展の名義後援を突如取り消し、翌年から3年間名義後援をしない措置を取った。この平和のための戦争展は、文化芸術基本法における文化活動に当たると思うが、所見を尋ねる。
△総務企画局長 名義後援の審査に当たっては、催事の趣旨や全体としての内容が総務企画局総務課が所管する業務の行政目的に合致していることを前提として、その内容に特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するもの等が含まれていないか、営利目的でないかなどを審査し、本市の名義後援の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断しているものであり、同法における文化芸術活動であるか否かを判断しているものではない。
◯山口(湧)委員 文化活動に当たるかどうかは明確に判断していないということか、明確な答弁を求める。
△総務企画局長 同法においては、文化芸術活動とは文化芸術に関する活動と規定されていることから、平和のための戦争展は同法における文化芸術活動に含まれるのではないかと考えているが、市の名義後援の審査に当たっては、特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するもの等が含まれていないかなどを審査し、本市の名義後援の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断しているものであり、同法における文化芸術活動であるか否かを判断しているものではない。
◯山口(湧)委員 同法では、市が名義後援を行って支援するときも事業の内容には介入してはならない。今の答弁は同法の趣旨と明確に矛盾していると思うが、所見を尋ねる。
△総務企画局長 名義後援の審査に当たっては、催事の趣旨や全体としての内容が総務企画局総務課の所管する業務の行政目的に合致していることを前提として、その内容に特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するもの等が含まれていないか、営利目的でないかなどを審査し、本市の名義後援の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断しているものであり、展示物の内容が同法における文化芸術活動であるか否かを判断するものではない。(2020年9月23日)
文化(芸術)活動なら介入できないだろ? 文化(芸術)活動ではないのか? という質問への回答を執拗に避けて「総合的に判断」を繰り返している。
おいおいマジで書いている本もあるんだけど
そうなのだ。
実は、この「政界語読本」は当然理事者・当局者、つまり行政側の答弁として使えるのだが、あくまでの本書イアン・アーシーはそれを皮肉るためのギャグとして書いている。
ところが、それを真顔で本にしてしまっているのがこちらである。
森下寿『公務員の議会答弁言いかえフレーズ』(学陽書房)。
こちらはいたって大まじめ。
「すぐに使える鉄板表現70!」とあるように、地方議会の答弁として本気でこれを使って欲しいという誠実な気持ちで書かれている。著者・森下寿(もりしたひさし)は筆名。プロフィールを見ると「基礎地自治体の管理職」ということだ。つまり覆面で現役の管理職公務員が書いているのである。イアン・アーシーの「怪しさ」とは真逆である。
まあ、表紙に書かれている「言いかえ」だけでもみてやってくだされ。
おおっ、「総合的に判断」が出ている!
担当課としてはやる気があったのに、財政当局にカットされてしまったのだが、その無念をそのまま口にするわけにはいかないのである。
「ここがポイント!」には
予算案はあくまで行政が一体となり提案するもの。本音は言外に匂わす程度に。(p.16)
と「やさしく」解説している。本文はさらに詳しい。
こうしたとき、答えに窮して思わず口にしてしまいそうになるのが、「財政課に予算を切られました」というフレーズです。「自分は担当課長として、議会側の要望も踏まえて財政当局に予算要求したのだが、結果的に査定で切られてしまった。やることはやったけれど、財政家が予算化してくれなかったのだ」——。そんな重いから、ついこのような答弁〔財政課に切られました〕をしてしまうのです。
しかし、これは役所全体から見れば×の答弁です。なぜなら、予算案はあくまで行政が一体となり、議会に提案するものだからです。
このため、「総合的に判断して見送りました」または「全庁的な判断として見送りました」が適切な言い方です。これだけで、「担当としては予算要求したのですが、予算案に盛り込まれなかったのです」ということを議会側は察してくれます。(p.17、強調は原文)
いや、全然察してくれない議員もいると思うけど(笑)
ちなみに、「実施する可能性のあることを提案されたとき」(p.20)
×「実施するかどうかわかりません」
◯「今後、検討します」
「当面は実施予定のないことを提案されたとき」(p.22)
×「今後、実施するかどうかわかりません」
◯「今後、研究してまいります」
「実施するつもりが全くないことを提案されたとき」(p.24)
×「実施するつもりはありません」
◯「それも考え方の一つと認識しております」
「すぐに実施できないことを提案されたとき」(p.26)
×「時期尚早です」
◯「現段階では課題があると認識しております」
まさに役人用語だけど、この本は、なぜそのように翻訳すべきなのかがあわせて書かれていて、役人側からの事情がよくわかるようになっている。
補聴器の補助制度を福岡市で求めると「他都市の動向を注視してまいります」と答弁されるので、実際には注視などしておらず、「本市での実現は無理だ」と言われていることになる。
これ〔「他都市の動向を注視してまいります」答弁〕によって、時間を置くことを表明できます。一時的に脚光を浴びた事業だとしても、それは短期的な評価であって、長期的に見て本当に妥当なのかが判断できないからです。実際に実現するにしても、本当に本市にとって効果的なのか、さまざまな視点から検証することが必要です。
このため、「先進事例は、すぐに実現の可否を表明しない」ほうが無難なのです。(p.29、強調は原文)
答弁だけではない。
議員との付き合い方も書いてある。
「本会議質問の内容を作成してほしいと依頼されたとき」
「本会議質問の内容をなかなか教えてもらえないとき」
「委員会で特定の質問を依頼するとき」
「すぐに資料がほしいと言われたとき」
「過大な資料要求があったとき」
「議員が自分の話ばかりするとき」
「他の管理職に対する苦情を聞かされたとき」
この種の本は「誰が読むんだ」と思いがちだが、意外に類書は多い。
以前高校の同窓会で、県の議会答弁を書く側に身を置くようになった同級生と話したことがあるが、答弁の温度・匙加減の話でめちゃくちゃ盛り上がった。そういうことなのである。