「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観た。
広島から呉に嫁に行き、呉の空襲に遭った女性・北條すずの生活を描いた映画「この世界の片隅に」の、いわば新版である。
まずは「長尺版」ととらえていいのでは
この映画の公式サイトには、
この映画は、大ヒット映画『この世界の片隅に』の単なる長尺版ではない。250カットを超える新エピソードによって、これまで目にしていたシーンや人物像が、まったく異なる印象で息づきはじめる。『この世界の片隅に』を知る人も、知らない人も1本の‟新作“として体感することになるだろう。
という解説があるのだが、まずは「元の映画版に、原作にある遊女・リンのエピソードを加えた長尺版」ととらえていい。
もちろん、それ以外に加えられた部分もある。例えば序盤にすずの尋常小学校時代では節約して使っていた鉛筆を級友・水原によって穴に落とされてしまうエピソードが、あるいは、戦争が終わったあと、「ひと月遅れの神風」がやってきて一家で大笑いするシーンなどが加えられている。
何よりも、前のバージョンでは、「だれでもこの世界で居場所はそうそうなくなりゃせんのよ」と述べたリンのセリフをすずが突然思い出す唐突さが、今度のバージョンによってロジカルな展開の中で登場するようになった。
リンの「ゼイタクな事」というセリフ
ぼくは前に映画のレビューを書いた時、原作においてもっとも重要な3つのセリフが欠落していたり、改変されていたりして、映画と原作(マンガ)は別個の作品だという意見を述べたことがある。
この3つのセリフのうちの一つ、二河公園の花見でリンがすずに会って
人が死んだら記憶も消えて無うなる
秘密は無かったことになる
それはそれでゼイタクな事かも知れんよ
とのべる原作のセリフは、映画の最初のバージョンでは全く存在しなかった。
それが今回、
死んだら心の底の秘密も
なーんも消えてなかったことになる
それはそれでゼイタクな事なんかも知れんよ
という形で、いわば「改変」されて挿入されている。
「記憶」でなく純粋な「恋の秘密」として
原作におけるこのセリフは、テルの死に言寄せて「リンと周作の過去の秘密」について言っているようでもあるが、こうの史代が『夕凪の街 桜の国』以来描いてきた「記憶」の問題を語っている。
原作ですずは、戦争が終わって隣家の刈谷さんと食糧調達と潮汲みに出かけた時に、爆弾で殺された姪の晴美について次のような会話を交わす。
生きとろうが 死んどろうが
もう会えん人が居って ものがあって
うちしか持っとらん それの記憶がある
うちはその記憶の器として
この世界に在り続けるしかないんですよね
晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない
じゃけえ 笑うたびに思い出します
たぶんずっと 何十年経っても
晴美が死んだことのつらさゆえに、晴美の死を「忘れてしまう」ということもできる。「記憶は消え」「秘密は無くなる」のである。戦争の「記憶」を無くしてしまうことにそれはつながっている。
しかし、それは他方で、晴美との思い出を全て消してしまうことをも意味する。笑ったり楽しかったりした豊かな思い出を全て消去するのだ。
それはなんという「ゼイタクな事」であろうか。
一種の批判としてそれは読める。
原作が、なんどもなんども読み返したくなるような戦時の日常の「楽しさ」を描いていることにもそれは重なる。
身体に染み込んだ「記憶」は消去できない。
すずは原作において、このセリフにかぶせて次のような独白をしている。
わたしのこの世界で出会ったすべては
わたしの笑うまなじりに
涙する鼻の奥に
寄せる眉間に
ふり仰ぐ頸に
宿っている
戦争のつらさを記憶することと戦時であってもそこに「楽しい」生活があったことを記憶することは一体のものである。
しかし、映画では、リンのセリフからは「記憶」という言葉は消えているし、すずのセリフからもやはり「記憶」(「記憶の器」ではなく「笑顔の器」となっている)という言葉は消えている。
「記憶」という言葉が日常的な言葉ではないと監督の片渕須直が実務的に判断したのかもしれないが、ぼくは映画では「記憶」をテーマにした原作の意図が後景に退き、リンのエピソードは純粋に恋物語として機能しているという印象を受けた。
やはり、原作マンガとアニメは別々の作品なのである、という結論に再び到達せざるを得ない。
遊郭という「片隅」
その代わり、ぼくは映画のタイトルが「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」とされ、主にリンのエピソードが加わったことによって、遊郭の「片隅」性が強調されたように思う。
こうの史代は否定しているが、もともと『この世界の片隅に』は山代巴『この世界の片隅で』にヒントを得ていると思われる。
当然監督の片渕もそのことを承知しているはずだ。
山代は「片隅」という言葉に次のような意味を込めている。
この本の名を、『この世界の片隅で』ときめました。それは福島町の人々の、長年にわたる片隅での闘いの積み重ねや、被爆者たちの間でひそやかに培われている同じような闘いの芽生えが、この小篇をまとめさせてくれたという感動によるものであります。(山代前掲)
すなわち、広島の被爆者の中でもさらにスラム、さらに「部落」、さらに孤児……という「片隅」性である。
すずの戦時生活は、遊郭に売られたリンのような人生や生活との比較において「まだましな」ものを感じさせてしまう。しかし、その「まだまし」さ加減は、今回のバージョンで加えられたリンとすずの「出産問答」(結婚して男子を出産することが義務であるとすずが主張するが、リンの素朴な疑問によって次々にその虚構性が暴かれてしまう)によって相対化させられてしまう。
結局、生きられなかったテルの人生や、おそらく空襲で殺されてしまったであろうリンの人生が新たに視野に入ってくる。
ぼくらはリンの人生を決して悲惨なものとしてのみ思いおこすのではなく、すずとの美しい、楽しいエピソードとともに思いおこす。江波の家でスイカを食べたであろうことや、遊郭の前で絵を描いたこと、花見で会話したことなどである。それはこの原作や映画の虚構の力である。
現実の呉の遊郭 『聞書き 遊郭成駒屋』より
しかし、ぼくらが無数の「すず」を探すために現実にアクセスし、その証言を聞いたり、話を読んだりしたように、無数の現実の「リン」にアクセスする必要があるのではなかろうか。
神崎宣武の名著『聞書き 遊郭成駒屋』(ちくま文庫)には、神崎の母の友人で、呉の遊郭で働いていた「ニセ医者」・尾島克己(仮名)が証言している。
神崎は「私は、本稿をまとめるにあたって、いわゆる『遊郭残酷物語』にしたくない、という強い気持ちを持っている」(神崎p.170)として「私は、未知の世界を、わずかに残存する道具類や当事者を頼りに探ってみたいのである。そのとき、娼妓への同情からだけでものをいいたくはない。その時代の事実を記録することが先決だ」(同前)と述べている。
しかし、その神崎が尾島から聞き取った中身は、なかなか凄絶なものであった。
例えば、性病検査をパスするために陽性反応を出さないよう「高熱」を出させる。尾島はそのために薬の過剰投与をしたとしている。神崎はマラリアを感染させたりしたこともあるのではないかと疑っている。テルの「高熱」をどうしてもぼくは思い出してしまった。
また、妊娠してしまう遊女も少なくない。いちいち掻爬などしていたら体がもたないので、ホオズキを使う。そのアルカロイドで胎児を腐らせて堕胎させるのだと尾島は言う。
『聞書き 遊郭成駒屋』は、名古屋の一角の古い遊郭を取り壊す現場に偶然出会った民俗学者が、解体業者に無理を行ってそこの民具一式を買い取らせてもらうというなんとも印象的なシーンから始まる。
その中に、遊女たちの食器がある。
それにしても、娼妓の部屋にはこまごまと食器が多い。(神崎p.118)
神崎は、
たとえば、湯呑茶碗は、おしなべて夫婦茶碗なのである。
二つならんだ大小の湯呑茶碗は、娼妓たちのまだみはてぬ結婚生活へのあこがれを表したものなのか、あるいは客を主人として扱うことで客の自尊心をくすぐろうとしたものなのか。それは、知るよしもない。たぶん、両方の気持ちが微妙に交錯してのことだったのだろう。(神崎p.119-120)
と推察する。
映画の中で、周作がリンにリンドウ柄の茶碗を贈ろうとしていたのは、果たして結婚の後でのプレゼントのつもりだったのか、それともまだ遊郭にいるうちに贈ろうとしていたものなのかわからないのだが、ぼくはなんだか後者のような気がして映画をみていたのである。
まとめ
今回のバージョンでは、周作とリンのいきさつ、すずを選んだ経緯について、ややロジカルな説明が挿入されている。それは好みの問題かもしれないが、少々説明っぽくなってぼくには余計なことのように思われた。
しかし、ぼくによって今回の収穫は、なんといってもリンのエピソードが太く挿入されたことによって、戦時生活の中での遊郭という「片隅」がクローズアップされたことであり、そのことによって現実の歴史の中での遊郭の女性たちに目が行くことになったという点だ。そして、もう一つは、「だれでもこの世界で居場所はそうそうなくなりゃせんのよ」というセリフが完全なものになったという点である。