吉野朔実『ぼくだけが知っている』

ぼくだけが知っている〔文庫〕(1) (小学館文庫) 子どもが持つ矛盾についての物語である。
 小学4年生、すなわち10歳になる夏目礼智とそのクラスメイトたちの物語だ。
 「子供の頃から大人だった。」という印象的なモノローグではじまる。
 夏目礼智は、すでに小さな子ども時代から自分の行為の意味するところを知っていた、とおそらく礼智自身が述べるのだ。そして、自覚していたということを本人以外は知らなかったのだという。だから「ぼくだけが知っている」ということなのだ。

 
 「知っていた」とはどういうことだろう。しかも「ぼくだけ」。
 大人になってから振り返ったようにも読める(小学4年生のあの時までは、みたいなセリフ)が、子どものその時点(3歳なら3歳)で「知っていた」ようにも読める。
 言語化できない形で子どもは「知っている」。
 それは言語化できないので外在化されず、「ぼくだけが知っている」のである。
 しかしその「知っている」というのは大人が言語化して知識化・概念化するような意味で「知っている」のではない。大人から見れば矛盾に満ちた形で「知っている」のである。


 最後のテーマである「なぜ死んではいけないか」は、その矛盾に満ちた「知っている」の最大のテーマだ。
 礼智は、同じ学年に自分とそっくりな、しかし中身は礼智よりも(精神年齢が)上そうな枷島十一(かしま・じゅういち)がいることを知り、知り合いになる。まるで自分の鏡を見るかのようなのだ。そして、十一にすっかり魅せられた礼智は、やがて自殺的な遊び・問いに誘われるようになる。
 本作5巻は酒鬼薔薇事件(神戸連続児童殺傷事件)が起きた頃(直後)に書かれている。
 つまり世間が「命の大事さ」「なぜ人を殺してはいけないか」について喧しくなった頃にちょうど書かれている。
 最初からこのテーマで書かれていたわけではなく、子どもが持つ矛盾をテーマにしていたら、それを突き詰めていった先にこの事件がちょうどあったのだろう。


 10歳以上は思春期が始まり自殺が生じる。
http://tmaita77.blogspot.jp/2014/09/blog-post_9.html
 礼智は零・一(れい・いち)ではないのか。十一はそれを知恵をつけた人間、つまり思春期に差し掛かった人間の姿だ。思春期になった「自分」が子どもである自分を浮き立たせる対立的な鏡(?)になっていく。その時に思春期特有の、エッジの効いた、整然としたロジックに引きずられて死んでしまう子どももいる。十一によってまるで誘われるかのように自殺してしまう子どもたちがそれである。
 子どもとしてできる最も合理的な回答は、クラスで最も聡明な委員長、今林慎一郎が言ったように「痛いから」ということだろう。痛いから死なないのだ。
 だけど、十一はそれをロジックで乗り越えてしまう。人はいつか誰もが死ぬではないか、誰もが死ぬのになぜ今怖がるのか。
 そこにはごまかしがある。ごまかしがあるけどもよくわからない。「今自分は死ぬべきである」。あるいは「いつか死ぬことも今死ぬことも同じではないか」。別にこれそのままの言い分でなくても、飛躍したロジックを真に受けて、子どもたちは思春期に死んでしまう。後から思えば、もしくは大人から見れば、その時はよほど深刻でも死ぬほどのことでもないこと、主観的に切迫したロジックによって死んでしまう。もしくは軽々しく誰かを殺してしまう。


 礼智は「死んでもいいこと」をロジックの上では「知っていた」。「知っていた」けど、死にたくなかった。

「明日の自分が何をするのか
ぼくは見たいんだよ」

 未来に希望を持っていることが、理屈ではなく体感としてあるかどうか、自分にも他人にも。そこが殺さない・死なないということの分かれ目になるのだという。
 最終話のタイトルは「ぼくは地球」である。
 この作品の初めの方から、礼智が地球の気象現象と一体であることを表現する話や言葉がたくさん出てくる。それは地球という、この世界全体と自分が一体であるという子どもの主観の特異な表現ではないのか。
 世界と自分が分かれていない。即自態。
 つまり、まだ幼少期のまどろみの中にその人はいるということである。
 「ぼくは地球」とは、「ぼくは子ども」ということなのだ。
 思春期の始まりは、そのまどろみから引き裂かれて、世界と自分が対立したものであることを知ることでもある。自分と他人は違うものだと知るのである。
 陸橋から飛び降りた十一は、怪我を負いながら、礼智に向かって言う。

「関係ない
 これはぼくの痛みであって
 君のじゃない
 そうだろ?」


 十一が拒絶するかのように突きつけたこの言葉は、礼智と十一は同じ人ではなく、他人であることをきっぱりと宣言したものである。すなわち、礼智の子ども時代はここで終わったのである。1巻の冒頭に「少なくとも小学4年生の春までは」とその時代の区切りを述べているのは、このエピソードによって最終的には完結する。「ぼく」はもう「地球」ではないのである。


 子どもが持っていた矛盾は、大人になってから振り返り、それを矛盾として受け止められる。
 だからこの作品は、基本的には大人の目線で子どもの矛盾を振り返っている。
 しかし、その中に、わざと子どもとして持つ矛盾の感覚をそのまま混ぜている。
 だから、時々遠近感が狂わされる。
 夏目礼智は、礼節や知性も持った大人のようにも見えるし、何も知らない無知な子どものようにも見える。
 そうした矛盾の時代は思春期の到来ともに「終わり」が始まる。大人として整然としたロジックの中に入っていく。



 子どもが持つ矛盾を振り返ることは、そのまま楽しい懐古となる。
 例えば死。
 死を「楽しみたい」というエピソードが出てくる。前に礼智のクラスにいた転校生が遠くの病院で死んでしまい、クラスメイトたちはその死を「実感」するために、さまざまな騒ぎを起こす。呪いだと騒ぎ、祭壇や宗教のようなものを作り上げ、従わない者を罰しようとする。


 死は子どもにとって得体の知れないものだ。
 小学3年生になる娘は、夜中、眠りながらぼくに聞いた。

「おとうさん……死んだらどうなると? 何も無くなると?」
「うん」
「こわい……天国とか、ないと?」
「ないよ」
「生まれ変わりとかは?」
「ないよ」
「……」

 このやりとりを通じて、久々にぼくも子ども時代に死の後に虚無が待っており、そのあとは何もない、暗黒の永遠の時間が続くような気がして心底恐れたことを思い出した。
 大人は身近な人の死をどう迎えるべきか、厳格な形式がすでに決まっている。
 子どもたちが実感できない死に出会ったとき、それを実感すべく、いろんな形で死と格闘する。死を「楽しむ」こともまたその一つなのだ。
 呪いだと言って騒ぎ、祭壇を作り上げ、宗教をこしらえ、同調圧力のもとで死を悼ませ、信仰を強要する。それは一種の「お祭り」であり、楽しみなのだと吉野朔実は主張する。
 本当に現実の子どもたちにそんな場面があるのかどうは別として、ここでは子どもが死にたいして持っている、矛盾した気持ちが、創作的に表現されている。


 吉野朔実が亡くなった。
 このレビューも決してもはや本人には届くことはない。

愛も
呪いも
悲しみも
みんなみんな
生きている人のもの
死んだ人には
届かない
(本作4巻p.177)


という言葉の通りであるが、アップせずにはいられなかった。